森村誠一 致死眷属 目 次  想像不倫 �他流�試合  恋の獲物  蒸発した駆け落ち  不明になった目撃  囮《おとり》にされた情事  アンコール・スワップ  容疑者の奇禍 �変更�された死体  合併した悪の根  接待ルート  混線した事故  持ち去られた遺留品  許容した外堀  勧誘された殺意  凶 香  パートタイムの動機  調香された血   想像不倫     1 「おねがい。それだけはいくらあなたの頼みでもできないわ」 「おまえは深刻に考えすぎているんだよ。ぼくがいいと言うんだから、いいじゃないか」 「私にはとてもそんな動物のような真似はできないわよ」 「どうして動物のようなんだ。夫婦納得ずくのうえで楽しむんじゃないか。危険はない、たがいに身許《みもと》はたしかだし、費用もかからない。こんなけっこうな話はないだろう」 「私は納得していないわ」 「おまえだって、おれ以外の男を知ることができるんだよ」 「私はあなた一人でたくさんよ」 「一生のセックスを一人の男と女の間に拘束《こうそく》するのは、無理があるよ。どんな激しい愛も澱《よど》んでしまう。夫婦生活はマンネリの古沼のように澱んで、なんの刺戟《しげき》もなくなってしまう」 「私たちがマンネリの古沼のようだとおっしゃるの?」 「だからそうなる前に、新しい刺戟を補充しておく必要があるんだ」 「他になにか方法があるはずだわ」 「他にどんな方法があるというんだ。浮気をすれば、危険だし、高くつく。うちにはそんな経済的余裕はない」 「あなたって勝手だわ。浮気をしたがっているのは、あなただけじゃないの。私はあなた一人で十分満足しているのに、私にそんないやらしいことを強制して安易に楽しもうとしているんだわ」 「いいか、よく聞くんだ。これはなにもぼく一人の欲望から言っているんじゃない。二人のためなんだ。夫婦が一生のマラソンダンスの間に、ほんの一時パートナーチェンジをする。ただそれだけのことだよ。それだけのことで、夫婦生活の錆《さび》が洗い落とされて、新鮮な愛情がよみがえる。夫婦交換《スワツプ》をしたほとんどの夫婦が、前以上に仲良く幸せになっているというよ」 「そんなの詭弁《きべん》だわよ。見ず知らずの相手と夫婦合意の上でそんなことをするなんて、グロテスクだわ、考えただけでゾッとするわよ」  夫が熱心に説けば説くほど、妻は拒絶反応をしめした。夫は峯岡正吾《みねおかしようご》三十七歳、東京|麻布《あざぶ》にある名門私立高校の教師を勤めている。妻の尚子《なおこ》は三十五歳、学生時代に峯岡の学校の近くの喫茶店にアルバイトをしていて、峯岡と知り合い、卒業と同時に結婚した。夫婦の間には、中学一年の男の子と小学五年の女の子がいる。  峯岡は現在、教務主任である。誠実で責任感があり、学識経験も豊かで、学校、PTA、生徒の人望を集めている。また人の面倒もよく見るので、同僚の間にも人気がある。教頭昇進も時間の問題とされている。尚子も、学内で評判の美人女房とされ、ある週刊誌が「一流企業エリートの看板女房」という特集をしたとき、巻頭グラビヤに載ったほどである。子供たちの成績もいい。家も、都心から一時間ほどの私鉄沿線に、海外に移住することになったある貿易商の家を生徒の父兄の紹介で格安の値段で手に入れた。交通の便も比較的よく、閑静な環境にある。  要するに、仕事家庭ともに、なんの不満もない、人生のまことに居心地のよい位置にいるといえる。  ところがこのなんの不足もない順境の中で峯岡は、ふとものたりなさをおぼえた。居心地がよいということは、刺戟がないということでもある。人生の巡航速度に達して、べつに努力や工夫を施す必要もなく、一種の自動操縦によって、達成されたスピードと進行方向を維持できる。一寸先は闇《やみ》といわれる将来も、経験と統計と科学によってある程度予測され、レーダーにうつる不吉な影はない。当分の間、眠っていても、自分の人生の進行になんの支障も抵抗もない。  峯岡のものたりなさは、そこから発していた。平穏無事が堆積《たいせき》して、不幸な人々から見ればまことに贅沢《ぜいたく》な欲求不満のメタンガスを蓄えはじめたのである。  そんな時機に、峯岡は一冊の雑誌を手に入れた。電車の中で、隣りの乗客が捨てていったものを、退屈しのぎにパラパラと頁《ページ》を繰った。その雑誌が、峯岡の意識下に蓄えられていたメタンガスに火を放《つ》けたのである。  それは「ホーム・フレンドリー」という夫婦交換《スワツプ》の機関誌であった。  峯岡はスワップなる風俗が存在することは知っていた。しかし、それが機関誌が発行されるほど日本の風土の中に着床《ちやくしよう》しているとは知らなかった。  夫婦交換とは、聞くだけで刺戟的である。新婚早々ならばとにかく、多少の夫婦生活の甲羅《こうら》を経た男ならば、たいてい食指を動かされる。しかし、おもうだけで実行に踏み切れない。他人の妻を抱くのは大いに誘惑的であるが、そのために自分の妻を、どこの馬の骨とも知れない男に抱かせるのには耐えられない。交換せずに、他人の妻を抱きたいというはなはだ虫のよいおもいが先立つ。それに自分は望んだとしても、妻を説得できないだろう。  妻との仲が冷えた男にとっては、夫婦交換はまたとない�セックス自由化�への道だ。一片の愛情も未練も残っていない妻が、どんな男に抱かれようと、いささかも痛痒《つうよう》を感じない。妻として完全に�消費�した女をパスポートとして、セックス自由化国へ入国できれば、こんな素晴しい�廃物利用�はない。  スワップによって、冷却したとおもっていた夫婦の間に愛情がよみがえれば、これは�一石二鳥�である。いや妻という一石をもって、いくらでも他の鳥の味を味わえる。双方納得ずくの上だから危険はないし、費用も�実費�だけですむ。スワップの味をおぼえたら、こたえられないだろう。  女は、夫一人で満足できるが、男は、自分の種をできるだけ広範囲に、多数の対象に振り撒《ま》こうとする。風にまかせて、どんな土地にも播種《はしゆ》しようとするタンポポ精神が、男の生理と本能である。そして性欲が種属保存本能から独立先行している。  こんな男の生理にとって、スワップはまさにお誂《あつら》えむきというところである。だが生理はそうであっても、なかなか踏み込めない。一夫一婦の�醇風美俗《じゆんぷうびぞく》�の歴史の中で躾《しつ》けられてきた身は、スワップという、舶来風の途方もない風俗に最大限の抵抗をする。まして教職という�聖職�にある身にはとんでもないことであった。生理的には大いに惹《ひ》かれても、自分の世界のことではないというアウトサイダーの意識で傍観している。好奇心をもっていても、あきらめの彼岸からもの欲しげな視線をチラチラ投げかけているだけである。  峯岡も、スワップに対してはそんな意識しかなかった。それが偶然、手中に転がり込んできた一冊の雑誌によって、にわかに現実の色彩を帯びてきた。  峯岡がびっくりさせられたことは、自分の世界のことではないとおもっていたスワップが、すでにかなりの人口を獲得して、自分のすぐ隣り近所で実行されている事実である。  雑誌には、スワップの申込みが満載されている。名前だけ番号にして、年齢、住居地、身長、体重、条件、希望日などが提示され、写真まで添えている申込者もいる。写真は全部妻のヌードで、これが驚いたことに、いずれもヌードモデルとして十分通用しそうな見事なプロポーションと肢体《したい》を、誇示するように晒《さら》している。スワップ専門誌に進んで自分の写真を掲げるくらいであるから、見事に成熟し、その体内に進んだ開発のほどを予想させる肉体の持ち主である。  一目見るだけで、男の食欲をそそるような裸身のオンパレードであった。峯岡はその写真にあさましくも生《な》ま唾《つば》をのみ込んだ。それらの主は、単なる雑誌のヌード写真ではない。スワップの申込者として、こちらが応ずれば、実際に味わえるかもしれない肉体のサンプルなのである。  それは、とうてい手の出ない高級専門店のショーウインドウにディスプレイされた商品ではなく、手をさし出せばつかみ取れるかもしれない見るからにうまそうな肉置《ししお》きの獲物《えもの》であった。  ——夫三十七歳168�61�、妻二十九歳153�51�、夫婦共に健康、容姿十人並以上の自信があります。夫婦交際に理解と興味をもっておりますが、まだおもいきって実行できずにおります。私たち同様に未経験のご夫婦と、焦《あせ》らずゆっくりと交際を進めていきたいとおもいます。身許《みもと》確実でたがいに秘密を守れるご夫婦からの写真同封のお便りをお待ちします。返事確実。  交際経験一年の三十代前半の仲良し夫婦。夫167�57�、妻160�50�。離婚寸前の危機にあった私たちでしたが、夫婦交際のおかげで円満、幸福な生活を取り戻しました。この幸せを未経験の方に少しでもお分けしたいと存じます。夫処置ずみ、筋肉質、万能スポーツマン、妻リング使用、色白容姿十人並、夫婦ともにきわめて健康。交際程度はそちら様に合わせます。TEL、写真お待ちします。返事確実。 「週五」は欠かさない好色の四十二歳と三十八歳夫婦。人生は一度だけ。できるだけ多くのご夫婦と交際して淫《みだ》らな楽しみを極めたいとおもいます。3P、それ以上の複数プレイ、舌技、口技のテクニシャン、レスビアンの奥様も歓迎します。私たちは自由業なので、時間は自由に取れます。多少遠方の方でもお訪ねします。秘密厳守。身許確実の方のお便りをお待ちします。写真住所年齢等明記の方にかぎり返確。——  まさによりどりみどりの申込みであった。  峯岡は、その雑誌を見たとき、自分の体内のメタンガスの発生源を知った。 (これだ。これが自分に欠けていたのだ。恵まれた仕事と、美しい妻、幸せな家庭。この�三種の神器《じんぎ》�におれはいつの間にか男の本能を去勢されていた。その去勢されて腐った部分がメタンガスを噴《ふ》き上げていた)  妻は他の男から羨《うら》やまれるほど美しい。外観だけでなく、峯岡の結婚以来の手塩にかけた育成と自らの成熟によって、夫に対する素晴しい反応体になっている。しかし安定した夫婦生活は、熟練と引きかえに未知を駆逐《くちく》してしまった。  もはや妻の体の中には、峯岡の開拓の鍬《くわ》の及ばない一襞《ひとひだ》の未知もない。彼の目の色、表情の動き、筋肉の震えだけで忠実に反応する官能の集約体である。営めば必ず完全燃焼を果たし、和合は完璧《かんぺき》である。  だが、妻が心身にかかえていた未知のほの暗い謎はどこへ行ってしまったのだろう。謎の失われた女は、たとえその肉体がどんなにすぐれた官能の味を蓄わえていようと、それは食べ馴れた味であり、新鮮な驚きなどかけらも得られない。かりにその味が最高であったとしても、その一味しか知らないということは、男にとってまぎれもない不幸である。  峯岡は視野を塞いでいた壁が取りはらわれたような気がした。新たな視野に百花|撩乱《りようらん》たる性のお花畑が開いていた。彼はそこへ妻とともに踏み入り、好みの花を手折《たお》ることができる。  踏み入るのは、早ければ早いほどよい。スワップの申込者は、ほとんどが三十代から、精々四十代前半である。交換であるから美しい花を手折るためには、こちらも美しくなければならない。年齢を重ねるほどに交換の条件は悪くなる。だれしも枯れた花との交換など望まない。  こうしている間も、性の狩猟者によって美しい花が次々に手折られていく。早くしないとみんな折られてしまう。峯岡は居ても立ってもいられない気持に駆り立てられた。しかし妻は、彼の説得に頑《がん》として応じようとしなかった。     2  峯岡はあきらめなかった。「ホーム・フレンドリー」に載っている体験記を読むと、経験夫婦はほとんど例外なく最初に妻が抵抗している。それを夫が根気よく説得して交際にこぎつける。もちろん雑誌には成功例しか報告されていないが、失敗例も多いだろう。実際は失敗例のほうが多いかもしれない。  しかし成功例の体験記は、夫婦交際によって幸福になったことを報告している。夫婦交際のおかげで、自分たちの人生に新しい地平が開かれたことを感謝していた。抵抗する妻の心の中にも、夫以外の男に抱かれたいという願望が潜在しているのである。  その願望を夫婦生活の歴史の苔《こけ》が閉じこめている。夫との行為は刺戟は少ないが、安全確実である。未開の官能を拓《ひら》く悦びはないけれども、熟練による危なげのない達成がある。なにも冒険をしなくとも、夫だけにすがっていれば性的に餓えることはない。夫は、できるだけ多彩な性の味見歩きをしたがるのに対して、妻は単一の味で満足できる。  妻の抵抗の最大因子は、羞恥である。夫以外の男に、自分の恥ずかしい部分を開くことへの躊躇《ちゆうちよ》が、彼女らのセックスを一夫の檻《おり》に閉じこめている。その羞恥を根気のよい説得によって少しずつ取り除いてやれば、必ず潜在願望に火をつけることができる。  いったん火をつけられた彼女らの反応と変身がどんなものか、雑誌の体験記は端的に物語っていた。彼女らは、スワップを謳歌《おうか》し、一夫一婦の鎖から離れて性の豊饒《ほうじよう》な海へ向かって出帆《しゆつぱん》していった。  峯岡は、妻を鎖から解き放すためにそれとは気づかれない方法で少しずつ�調教�をはじめた。  妻は、俳優のPのファンだった。中年の渋い性格俳優で、彼の出演するテレビドラマは絶対に見逃さない。 「Pが出るというと、おまえはまるで女学生のように目を輝かすね」と峯岡はよくひやかした。 「私だけじゃないわよ。Pは私たち主婦のアイドルなのよ」 「おれがPに似ていなくて悪かったな」 「あら、夫とアイドルはちがうわ」 「ほう、どうちがうんだね」 「あなたは、私の心と体の大切な部分、アイドルは星みたいなものよ。見ることはできても触《さわ》れないわ」 「Pはたしかにスターだよ。しかし、もしPに触れたらどうする?」 「そんなこと畏《おそ》れ多くて考えてもみないわ。触れる人はあなた一人で十分だわよ」 「自分の心身の部分に触ったって、おもしろくもなんともないだろう」 「おもしろいとかおもしろくないとかいうことじゃないわ。あなたは私の生活そのものだもの」  妻とそんな言葉を交し合ったことがあった。峯岡は、とりあえずこのPを妻の調教の笞《むち》に使うことにした。 「尚子、一つおもしろいゲームをしないか」  ある夜|閨房《けいぼう》で、峯岡は企《たくら》みを胸に秘めて妻に言った。 「おもしろいゲームって何よ?」 「今夜、ぼくがPになってやる」 「Pに? それどういうこと」 「きみは、ぼくに抱かれている間Pに抱かれているとおもうんだ。ぼくの名前を呼んではいけないよ。Pの名前を呼ぶんだ」 「あなた、何をおっしゃるのよ」  尚子があきれたような声を出した。 「ぼくはきみを女優のN子だとおもう。二人はPとN子になって一夜の情事をするんだ」 「私、そんなのいやよ。夫婦なのに、他の人としているように想像するなんて不潔よ」 「だからゲームだって言っただろう」 「どうしてそんなゲームをする必要があるのよ。あなたこのごろおかしいわよ」 「夫婦仲がどんなに円満でも、夫婦生活はマンネリになりやすい。ぼくたちの性《セツクス》をいつも新鮮に保ち充実させるためには、常に刺戟と工夫が必要なのだ。マンネリになってからでは遅いんだよ。大したことじゃないだろう。たがいにスターになったつもりで、一夜の情事をするんだ。想像するだけで、だれに迷惑をかけるわけでもない。さあ今夜はぼくがPで、きみがN子だ。人目を忍ぶ彼らの恋にぼくたち夫婦の寝室を貸してあげよう。なにしろマスコミに漏《も》れたら、大変な騒ぎになるからね」  尚子は、ついに峯岡に押し切られてしまった。最初は多少残っていた抵抗も、しだいに行為の中に吸収されて、想像にうながされた錯覚が、かつてない燃焼を引き出した。  Pの名を連呼しながら沸騰した妻のいまだかつてみせたことのない痴態に、峯岡は自分が想像の不倫へと舵《かじ》取りをしていながら、妻を他の男に侵《おか》されたような嫉妬の火に焙《あぶ》られていた。  いや、いま彼の妻はまぎれもなく、Pに侵《おか》されていた。彼女は峯岡の体を借りて、Pと交わったのである。峯岡は、尚子を侵すPの性具としてPに乗っ取られていた。 �他流�試合     1  調教の第一段階が成功したところで、峯岡は夫婦交際の案内書や体験集を買ってきて、妻の尚子に読ませた。 「こんな本、いやらしいわ」  と表面《うわべ》は拒絶したものの、彼女の内面の好奇心がありありとうかがわれた。 「いやらしいことなんか少しもない。ここに書かれていることは、いちいち納得のいくことばかりだよ。この本の序文でこんなことを言っている。——男の前に無数の女がおり、女の前に無数の男がいる。そして男も女も、自分の前にいる無数の異性のだれとでも性的に適合できる。  神は人間に無数の異性と適合できるセックスをあたえながら、愛と社会秩序の名分の下に一夫一婦の組合わせの桎梏《かせ》をはめた。性は無限であり、愛は独占である。この二律背反を愛によって統一しようとしたところに性の悲劇が生じた。愛と性の曖昧《あいまい》な融合を切り放して、愛をいっそう深め、確かめることができる——どうだい、もっともな意見じゃないか」 「私はそうはおもわないわ。愛から切り放したセックスなんて不潔よ。動物と同じよ」 「肉体の行為と愛を混同してはいけないよ。それじゃあ聞くけど、おまえもし俳優のPがおまえと寝たいと言ってきたらどうする?」  峯岡は、妻の顔に視線を当てて聞いた。一瞬、尚子は眩《まぶ》しそうに夫から視線を背《そむ》けて、 「そんなことありっこないわよ」 「だから、もしと言っただろう」 「そんなこと決まってるじゃないの」 「どう決まってるんだね」 「もちろん、断わるに決まってるわ。あまり馬鹿馬鹿しいこと聞かないでよ」 「しかし、きみはぼくをPのつもりで受け容《い》れたじゃないか」 「あれはゲームだって、あなたおっしゃったでしょ」 「ゲームでもおれをPとおもったことは事実だろう。つまり心ではPと寝たんだ」 「変なことを言わないで、怒るわよ。あなただからこそ、そのつもりになれるのよ」 「それにしては、いつもより燃えたね」 「もう知らない!」  尚子はとうとう怒ってしまった。しかし、それは痛い所を突かれて、狼狽《ろうばい》を隠すための演技であったかもしれない。  峯岡は、妻の屈託を無視して本を押しつけた。その後さりげなく観察していると、どうやら隠れ読みをしている様子である。一週間ほどしてから、ころ合いよしと見て峯岡は探りを入れた。 「どうだい、あの本の感想は」 「あら、何の本?」  妻は、いちおうとぼけてみせた。 「この間買ってきたスワップの本だよ」 「ああ、あの本のこと」  今度はいやらしい本とは言わなかった。 「おもしろかったかい」 「ちょっと拾い読みしただけだから、よくわからないわ」 「いちおう開いてみたんだね」 「あなたが押しつけるんですもの」  尚子は、軽く流し目を送ってにらんだ。峯岡はその目の表情から妻がかなりの興味を抱きかけているのを悟った。 「意外とまじめな本だろう」 「そうね、でも体験記なんて、ちょっとインチキくさいわ。素人《しろうと》のひとの文章にしては上手すぎるわ。週刊誌のライターなんかがアルバイトに書いたんじゃないかしら」 「前書きに断わってあるだろう。体験者の録音テープやメモに基いていて、プライバシーを守るために名前や細部の描写に多少の変更を加えたって」 「だからインチキくさいのよ。プライバシーの名分でありもしないことを書いているみたい」 「フィクションだったら、これだけ具体的には書けないよ。この本はまず九十パーセント真実だ」 「本当だったらみんな凄《すご》いのね、私にはとてもあんなことできないわ」  尚子は、本の刺戟的な場面をおもい浮かべたらしく、頬《ほお》をうすく染めた。 「あんなことできないって、おまえ拾い読みにしては、よく読んでいるようじゃないか」 「意地悪!」  軽くにらんだ目の底に、欲情が萌《きざ》しかけているようであった。     2  峯岡は、少しずつ�調教�の笞《むち》を強めた。初めは頑《かたく》なに抵抗していた尚子も、彼の巧妙な調教によって、しだいに堀を埋め立てられている。  最近では、スワップの話題に以前ほど拒絶反応をしめさなくなった。峯岡はここで、H・F(ホーム・フレンドリー)の定期購読を申し込んだ。 「いやだわ、こんな本が毎月送られてきたら、配達の人に、いかにもうちがスワップの愛好者のように見られてしまうわ」 「どうしてスワップの愛好者と見られるんだね。包装の外から雑誌は見えないし、発行所はごくふつうの出版社の名前になっている」 「でもなんとなく恥ずかしいわ。本屋で買ってくればいいじゃないの」 「この雑誌はまだ店頭売りをしていないんだよ。都心の大きな書店へ行けばあるかもしれないが、探すのが大変だ」 「しようがないわね」  尚子はしぶしぶ認めたといった体《てい》であったが、雑誌が届くと、むしろ峯岡より熱心に読むようになった。峯岡はその妻の様を、内心ほくそ笑みながら、そっと観察している。魚はまさに鉤《はり》にかかりつつあった。  最近では、Pだけではなく、その夜の雰囲気によって心に浮かんだスターや歌手に適宜《てきぎ》�変身�した。想像のパートナーの範囲は外国のスターにまで拡大された。あるときは行為の最中に変身相手を替《か》えた。それは�想像乱交�である。妻は、そうすることによって、いっそう燃え上がるようであった。  H・Fを購読するようになってから、二号めか三号めのとき、峯岡はふと気がついたことがあった。 「尚子、このマークはおまえがつけたのか」  雑誌の交際申込欄の中に、鉛筆でうすくマークをつけた項がある。マークは数か所につけられていた。よく見なければわからない程度のごくうすい鉛筆の痕《あと》であるが、それはたしかにマークである。  峯岡に問われて、尚子は頸《くび》筋まで赤くなった。答えを待つまでもない明らかな反応であるが、峯岡は意地悪く、 「いったいどんなつもりでこんな印をつけたんだね」とにやにや笑いながら、質問を追加した。 「べつに変なつもりなんかないわよ。ただいたずらにつけてみただけ」 「ほう、変なつもりって、どんなつもりだい?」 「そんなに苛《いじ》めないでよ。わかってらっしゃるくせに」 「いや全然わからないね。どんなつもりかはっきり聞かせてもらいたいな」 「あなたってサディストの気《け》があるのね」 「きみが言わないんなら、推測するしかないな。このマークの申込者が、ぼくたちのスワップの候補者だろう?」 「ちがうわ、ちがうわ」 「どうちがうんだね」 「いたずらにちょっと考えてみただけよ。仮に……だったら、どんな人がいいかとおもって」 「それじゃあ、やっぱり候補者じゃないか」 「仮定だって言ったでしょ。私、実行するつもりなんかないわよ」 「なにもそんなにむきになることはない。仮定なんだから。しかし、ぼくたちが申し込めば先方もこっちにマークをつけるかもしれないな。そうしたら相思相愛ということになる」  峯岡は、ついに獲物が鉤にかかった手ごたえを感じた。あとは、糸を切られないように手繰《たぐ》り寄せるだけだ。 「実行しなくてもいいよ。仮定で考えてみよう。きみがマークをつけた中でワンカップル選ぶとしたら、何番がいちばんいいとおもう?」  峯岡はそろそろ糸を引きかけた。 「あくまで仮定の上よ。私は62番が、私たちにぴったりだとおもうけど」  魚は少しずつ手許へ引き寄せられている。 「そうかなあ、62番はちょっと老《ふ》けすぎているような気がするがね」 「最初は、私たちより年上の経験豊かなカップルがいいとおもうわ。年下で、私たち同様未経験者だと、かえってうまくいかないわよ」 「もちろん未経験者より、多少の経験のある人のほうがいいとおもうけど、悪達者なベテランより、一年ぐらいというところがいいんじゃないかな」 「そうねえ。すると43番ってところかしら」 「うん、しかしなんだか女性のスタイルがよくないなあ」 「あなたったら、私より若くてきれいな人とスワップしたいんでしょう」 「痛い! ああ痛い。見ろよ、こんな痣《あざ》になっちまったじゃないか。仮定の想像だって言ったのにひどいな」 「仮定だって、許さないわよ」  せっかく手繰り寄せた魚が、また少し遠のいた。 「どうだい、おもいきってぼくたちも申し込んでみようか」 「申し込むって、雑誌に載《の》せること?」 「掲載しなけりゃ申込みにならないだろう」 「だめよ。私たちだっていうことがわかっちゃうわ」 「わかりっこないだろう。名前は伏せてあるし、住所は都道府県名だけ書けばいいんだ」 「雑誌社にわかっちゃうじゃないの」 「雑誌社は秘密を守るよ。それによって成り立っている雑誌だもの」 「私、絶対、写真出さないわよ」 「写真は必ずしも出す必要はない。出さない申込者もたくさんいる」 「雑誌に載って、もしたくさんの交際申込みがきたら、どうするつもりなのよ」 「それはきたときになってから考えてもいいだろう。みんな断わってもいっこうにかまわないんだ。こちらに選ぶ権利があるんだからね」  夫婦交際の申込み方法には二種類ある。まず雑誌に掲載されている申込者に交際希望の手紙を出す(雑誌社経由)方法、次に雑誌に申込みのメッセージを掲載する方法である。申込みメッセージの掲載者は、自分の身許を伏せたまま交際希望者と連絡を取り合えるという優位《アドバンテイジ》をあたえられている。  峯岡は、妻をあくまでも仮定の上でのお遊びということで誘導して、ついに雑誌に申込みメッセージを出すことを納得させた。     3  ——新鮮な刺戟とより豊かなロマンを夫婦生活に求めてお便りすることにしました。私たちは三十代の健康な夫婦。二人ともに容姿は十人並以上の自信があります。夫婦交際は未経験ですので、経験一、二年の三十代から四十代前半の上品で教養豊かなご夫妻のリードによって軽いタッチプレイ程度の交際からはじめたいと存じます。当方、仕事柄、週末・祭日しか時間が取れません。身許確実で秘密厳守のできる方、身長、体重、年齢、住所、TEL明記、写真同封の上お便りください。右記の方にかぎり返事確実にいたします——  夫婦合議の上、以上のようなメッセージを投稿した。  峯岡としてはもっと直截《ちよくせつ》的なメッセージを投稿したいところであったが、この辺で折り合ったのである。  メッセージは幸いに掲載された。だが申込み希望の手紙がいっこうにこない。メッセージが掲載されてから、希望者が選んだ上、申込みの手紙は雑誌を経由して回送されてくるので、こちらへ届くまで一か月から一か月半はかかる。ところが、二か月しても申込み希望の手紙がこないのであきらめかけていた。 「こなければこないでいいじゃないの。どうせこっちはひやかしなんだから」  尚子は強がってみせたものの、内心残念がっている様子が読み取れた。だが峯岡は、あきらめたわけではない。時機をみてもう一度投稿するつもりである。メッセージの文章を工夫すれば、希望者を惹《ひ》きつけられるかもしれない。  そんなある日、学校から帰って来ると、妻が玄関先へ一枚の封書をひらひらさせながら、飛び出して来た。 「あなた! きたわよ。とうとう返事がきたのよ」うすく紅潮して声もうわずり、かなり興奮している模様である。 「えっ、きたのか」  あきらめかけていた矢先だっただけに、峯岡はおもわず声を弾ませた。  この手紙を皮切りに、翌日から合計十四通もきた。多い日は一日に数通も配達される。  峯岡夫婦は、夫婦交際の希望者が多いことを実感した。潜在的希望者はもっと多いであろう。 「それにしてもこの写真、みんな本物かしら」  同封された写真には、いずれもあかぬけた容姿の男女が誇らしげにポーズしていた。特に女がみな十人並以上の器量をしている。中には夫婦でヌードを送ってきた者もいる。尚子は、少しコンプレックスをおぼえたらしい。 「多少は化粧をしているかもしれないが、まさか別人の写真を送ってきたわけでもあるまい。会えばすぐにわかることだからね」  写真を見ただけで食指を動かされるような相手もいる。これらの相手は、すでにこちらの一方的意志によって、交際が可能なのである。「画に描《か》いた餠《もち》」ではなく、現実に食べられる馳走《ちそう》の見本であった。  峯岡はすっかり乗気になった。 「あなた、それでどうなさるつもり?」  妻が峯岡の顔を験《ため》すように見た。 「どうするって、返事を出さないわけにはいかないよ」 「だから何て返事を出すの?」  二人は、じっとたがいの目の奥を探《さぐ》り合った。夫婦は、ついにのっぴきならない所まで追いつめられたのを悟った。夫は妻を手繰り寄せ、妻は網の中に入れられるのを待っている。 「せっかく返事がきたんだ。この中から最もよさそうなのを選んで、�見合い�だけしてみないか」 「なんだか、恐《こわ》いわ」 「恐いことなんかないさ。会ってから、気に入らなければ、やめたっていいんだ」 「気に入ったら、本当に交際する気なの?」 「いま先のことを話しても仕方がないよ」 「私、お見合いだけよ。それ以上のことは絶対にいや!」 「よしよし。きみの言うとおりにするよ。新しい刺戟を得るためのお遊びさ、深刻に考えることはない」  峯岡は、この期《ご》におよんでも渋っている尚子を、女のずるさだとおもった。未知の冒険に対する好奇心で全身|脹《ふく》れ上がっていながら、冒険の海で難破したときの逃げ道を用意している。しかし船出してしまえば、こちらの舵《かじ》取りのままだ。女のこざかしい逃げ道などはなんの役にも立たない。  二人は、慎重な�書類選考�の末、一組のカップルを選び出した。     4  峯岡夫婦が選んだ相手は、  矢切孝久《やぎりたかひさ》三十八歳、悦子《えつこ》二十八歳、会社管理職、住所、中野区上高田《かみたかだ》一−十四−××チェリスナカノ、経験は二年、スワップを通して夫婦の相互理解を深めたと言っており、だれでも人間は一生の間に三組のカップルの仲人をする義務があるといわれているのと同様に、自分たちもこの素晴しい夫婦交際の世界に、少なくとも三組のご夫婦を自分たちがガイドになってご案内したいという趣旨の言葉が、いかにもその教養を偲《しの》ばせるような達者な筆蹟《ひつせき》で書かれてあった。相手夫婦の写真も好感がもてる風貌《ふうぼう》である。  峯岡は、矢切夫妻に交際希望受諾の返事を出した。ただし、受諾したからには、妻の言う�見合い�だけというわけにはいかない。夫婦交際の機関誌にメッセージを掲載し、申込者の中から選んで会うのであるから、いっしょにお茶を喫《の》んで別れるだけのデートでは、先方が怒ってしまう。  尚子は口では駄々をこねているが、会うからにはただのデートではすまないことを心の中で了解している。その了解の証拠に、彼女は、 「会う前に少し文通をしたいわ。先方のご夫婦のことをもっと知りたいのよ」 「そのためには、こちらのプライベートにわたることも知らせなければならないよ。相手のことばかり聞くわけにはいかないからね」 「それは仕方がないわね。先様にしても、私たちのことをよく知りたいでしょうから」  先方の住所がわかったので、連絡が以前より早く取れるようになった。電話もあったが、電話でいきなり対話して相手にこちらの住所を聞かれた場合、伏せきれなくなるだろう。メッセージ掲載者の優位にしても、先方が身許を明らかにしているのに、依然こちらはカーテンの背後に隠れての一方通行ではシラケてしまう。  しかし、まだこちらの身許を知らせるには不安がある。  峯岡は自分たちの夫婦生活をかなり具体的に書いて、矢切夫妻に送った。  ——べつに夫婦の愛が冷却したわけではない。いや冷えるどころか夫婦生活そのものは、二人の熟練と熟成によって新婚のころとは比べものにならないほど充実したものになっている。それでいながら、自分たち夫婦の間にはないべつのものを探すようになった。  結局、性における一夫一婦は、広大な性の宇宙の中の鎖国である。そこに二人だけのどんな素晴しい世界が達成されても、要するにそれは自閉されたものにすぎない。平穏無事な日常の繰り返しが、夫婦生活の中にいつの間にかマンネリの古気《こき》を澱《よど》ませた。自閉の殻《から》に窓をうがち、宇宙からの新しい風を呼び入れたい。それも新たな刺戟によって古い既成をこわすのではなく、マンネリのスモッグを追い払い、外界の洗礼を受けて夫婦を見つめなおすために。  自分たちにとって初めての窓として、よろしくご指導を乞うという趣旨で結んだかなりの長文をしたためた。  矢切夫妻から返事がきた。  ——お手紙ありがとうございました。お二人の結婚生活の歴史を、まだ一度もお会いしたことのない私たちに率直に語ってくださり、心が打ち震えるほどに嬉しく有難く、同時に、まだわが国では残念ながら異端の目で見られている素晴しい交際《スワツプ》の世界に、多少とも経験ある者としてご案内する責任の重さを感じております。  私たち夫婦も、二年前までは、峯岡様ご夫妻とまったく同様でございました。あのままマンネリの古沼の中にうずくまっていたら、私たち夫婦はどうにも身動きできなくなってしまったでしょう。まことに際どいところで私たちは、この果て知れない交際《スワツプ》の宇宙に脱出したのです。  私たちも脱出する前は、お二人同様、悩みためらいました。愛のないセックスなんてあり得ないとおもっておりました。でも、いまはそれが、人間の�肉体�を無視した神話であることがよくわかりました。私たちは永遠の愛、唯一無二の愛の神話の下《もと》に、肉体を圧殺してきたのです。その神話を侵《おか》す者は、性の獣とみなされました。  でも鎖から解かれた獣こそ獣の本来の姿であり、自由を得た獣が檻《おり》に閉じこめられていたときに課せられていた数々の禁忌《タブー》は、社会の規範が変ってしまえば、違法性を失ってしまう思想犯のように、もはやタブーではありません。  私たちを交際の世界に踏み切らせたのは、日本における夫婦交際のパイオニアともいえる津川幸三氏の次のような言葉です。 「夫婦の愛情とは肉体の独占を超えたところにある。なぜなら�肉体�はそれ自身のメカニズムによって逸走《いつそう》、暴走しやすい性質を内蔵する。たとえは穏当でないかもしれないが、川の氾濫《はんらん》をおさえるには堤防を高くして流路を規正しよう、流量の増加に耐えようという発想だけでは十分ではない。遊水池や放水路によって水を流れるままに流れさせる、ときには遊ばせるというダイナミックな配慮こそ、すぐれた治水家の思慮というものではないか。はげしい活動力をもつ獣には、ときには鎖を長くして行動圏をひろげてやるという飼育法があるように、欲望のエネルギーは狭い檻の中に閉じこめておくよりも、|一定の枠のなか《ヽヽヽヽヽヽヽ》で解放されるほうが建設的にはたらく。夫婦の場合にはその愛情に寄与する確率が高い。すくなくとも欲望の過失や暴発によって、心のつながりの基本まで破壊されるという愚かしい悲劇からだけはのがれられる。ただし|一定の枠のなか《ヽヽヽヽヽヽヽ》で、という条件が守られれば/中略/そこではルールこそすべて、と言ってもよいくらいです」  津川氏がその言葉の中で強調しておられるように、性の自由化といっても、そこにはあくまでもルールがあります。鎖のタブーから解放された獣は、新しいルールに従わなければなりません。  ルールといっても、なにも難しいことはありません。ほんの少々の交際経験者として申し上げますと、プライバシー、プロミス、ペイ、フィジカル・コンディションの「4Pの原則」です。プライバシーは説明するまでもありませんね。プロミスは約束、つまり交際における約束事は、いったん取り決めた後は、止《や》むを得ないとき以外は、みだりに変更しないことです。特に当日の変更は相手に大きな迷惑をあたえます。交際にとってなにより大切なことは楽しい雰囲気とたがいの信頼感です。これが損なわれますと、交際は成立しません。三番めはペイ、お金のことです。ホテルを利用するにしても、食事を共にするにしても、多少の出費があります。割勘が最もよい方法ですが、どちらかの都合によって変更したようなときや、そのデート地によって、その都度双方の話し合いで決めればよいとおもいます。平等互恵の原則に従って行動すればよろしいわけです。四番めはフィジカル・コンディション、つまり健康です。交際は相手あってのことです。自分の保健は、交際者の最小限《ミニマム》の責任です。  この四つのPが、交際のルールです。それは私たちが閉じこめられていた既成道徳の檻の数々のタブーに比べて、なんと軽やかで人間的なルールでしょうか。  お手紙を書きながら、お二人のような素晴しいご夫婦にめぐり会えたことを感謝し、お会いできる日が早くくるように心より願っております。当方は、比較的自由ですので、時間、場所等すべてそちら様のご都合に合わせます。——  だいたい以上の趣旨の文面であった。文章も文意もしっかりしており、相手の教養や人柄のほどを偲ばせた。 「この人たちだったら大丈夫だ」 「そうね」  峯岡夫婦は、勇気づけられた。スワップの門は、いま彼らの前に開かれていた。  峯岡夫婦は、仕事や家事の都合、および体調などを考慮して、翌々週の土曜日の午後を交際日として矢切夫妻に連絡した。出会いの場所は都心のホテルにした。二人部屋を二つ予約しておき、約束の時間にロビーで落ち合う。二組同時にチェックインをして交互にパートナーチェンジをして部屋へ入る。——という段取りである。  すれちがいのないように夫がH・Fの最新号をもっていくことにした。まだスワップ実践者は少ないので、雑誌から彼らの意図を周囲に悟られるおそれはほとんどない。また無関係の第三者に悟られたところで、どうということはない。  当日が近づくにつれて、夫婦の間の緊張は高まった。緊張に耐えきれずに、相手に取消しの手紙を書きたくなったほどである。  峯岡は、自分自身が望んで、妻をここまで誘導して来ておりながら、さて現実に妻を他の男に抱かせる日が目前に迫ってくると、その想像だけで胸の中が熱くなった。  もし彼女が、他の男に対して自分以上の反応をしめしたら? 未開の一襞《ひとひだ》もないと確信していた妻の躰の奥から、自分のまったく知らなかった官能のはらわたを、他の男によって引きずり出されたらなどとおもうと、嫉妬で自然に心身が沸騰してくるのである。  スワップを決意したときから、彼ら夫婦の間に新鮮な欲望がよみがえってきた。よく知っているはずの妻でありながら、どこかがちがってきた。独占の花園に他人を招き入れることにより、花園が姿を変えようとしている。丹精したお花畑を、いま他人の蹂躙《じゆうりん》に委《ゆだ》ねようとして、改めてその花の美しさを知ったのである。スワップの効用はすでに現われはじめていた。  交際日が近づくにつれて、峯岡は毎夜のように妻を抱いた。この妻を他人に委ねる前に、所有の刻印をできるだけ濃く焼きつけておくためである。尚子も同じ心理とみえて激しく反応し、対応した。  彼らにしてみれば、夫婦交際は、�他流試合�である。夫婦間に自閉されたセックスを、初めて他人と対決させるのだ。敗れてはならない。そのための防備を固める意識も働いていた。     5  ついに交際日がきた。峯岡夫婦は前夜よく眠れなかった。体調をととのえるために眠っておかなければと焦るほどに目は冴《さ》えわたる。  あまりの緊張にしめつけられて、翌朝相手になにかさしさわりでもあって中止か変更の連絡がくればよいとねがったりした。  しかし中止も変更の連絡もこなかった。二人は、まだ十分時間の余裕があるのに早々と起き出した。 「今日はパパもママもいつもより早いのね」と子供に言われて、夫婦は返答に困った。 「今日はパパとママ出かけますからね、夕方には帰りますから、おとなしくしているんですよ。学校から帰ったら昼食《おひる》はお弁当がつくってあります」  いつになく優しい声音で母親から言われて子供は、 「映画にでも行くの? だったら私も連れてって」 「いけません、ご用事ですからね。二人で仲良くお留守番していなさい。おみやげを買ってきてあげるわよ」 「二人で出かけておみやげなんて怪しいぞ。やいどこへ行くんだ、白状しろ」  中一の息子に迫られて、尚子は早くもしどろもどろになってしまった。ようやく子供たちを説得して学校へ送り出したものの、今日の外出の意図を悟られていたような気がしてならない。 「おまえの考えすぎだよ。子供たちが知っているはずがないんだ」 「やっぱりやめたほうがいいんじゃないかしら。子供たちのことを考えると、私、許されないことをするような気がして」 「まだそんなことを言っているのか。今日は子供のことを忘れるんだ。今日は私たちに新しいページが開く日なんだよ。夫婦生活から子供を切り放す日があってもいいじゃないか。いや、夫婦と子供の人生は、本来二つの独立したものなんだ。生活をいつまでもいっしょにするというより、子供たちのために親の生活を犠牲にするから、夫婦生活は速やかに鮮度を失ってしまう」  ここで妻に気を変えられたら、これまでの苦労が水の泡になってしまう。とにかく遮二無二�会場�へ連れ込み、相手カップルと見合いをさせてしまえば、もはや引くことはできなくなる。  今日は峯岡の担当授業はない。  峯岡は、妻を車に押し込んだ。土曜日なので都心方向へ向かう道路は空いていた。途中渋滞がまったくなかったので、会見場所のホテルへ、約束の時間よりだいぶ早くついてしまった。 「ああ、私、どうしよう」  ホテルの建物が車窓に見えてくると、尚子が胸を押えた。 「どうしたんだ」 「胸が苦しくなって、息ができないわ」 「いまからそんなことじゃ困るね。べつに鬼に会いに行くんじゃない。気を楽にするんだ」  と言う峯岡も、胸苦しいほどに動悸《どうき》が激しくなっている。  ホテルの周囲を走りまわって時間をつぶしているうちにようやく約束の時間が迫ってきた。駐車場に車をおいてホテルの玄関を入って行くとき、尚子は足がもつれた。  フロントの前を通りすぎた所がロビーになっている。ソファに十数人の男女がおもいおもいの形で坐《すわ》っている。みなそれぞれ人待ち顔であるが一見したところわからない。手にH・Fをかかえている人もいないようである。  何人かは峯岡夫婦にチラリと視線を向けたが、すぐに無反応に顔を元の位置へ戻した。 「まだ来てないみたいね」 「まだ来てないみたいね」  尚子がややホッとしたような声でささやいた。約束の時間には少し間がある。そのとき、二人は相手がなにかの都合で来られなくなることをねがっていたのである。 「あのう、峯岡さんですか」  彼らが、ともかく坐る場所を物色していると、背後から声をかけてきた者がある。はっとして振り向くと、写真で見おぼえのある顔が笑っていた。 「矢切です、初めまして。実は少し前に来たのですが、ロビーが混んでおりましたのでこの先のラウンジでお待ちしていたのです」  矢切は愛想よく初対面の挨拶をした。手紙では三十八歳ということであるが、一見したところ三十前後である。茶系統でかためた服装はピタリと身について、洗練されている。  スワップ希望者は、交際条件をよくするために自分の年齢などは多少サバをよむものであるが、三十前後で通る年格好を、三十八と告げた相手に、峯岡は自信と余裕を感じた。 「これはこれは奥さん。今日はようこそいらっしゃいました。お目にかかれて嬉しくおもいます」  峯岡の背後に隠れるようにして身をすくめていた尚子にも矢切は悪びれない態度で挨拶をした。こちこちになっている峯岡夫婦の緊張を柔らかく解きほぐすようなものなれた態度である。それでいて悪達者ではない。  尚子は、矢切の目と眉の間が迫りすぎているせいか、目つきが少し卑《いや》しそうに見えるのが気になったが、嫌いなタイプではないと咄嗟《とつさ》に判断した。さんざんためらったあげく、いまだに夫に対して良識の抵抗とやらを訴えながら、現実に姿を現わした相手をスワップの尺度で観察しているところに女のずるさと悪さがある。 「家内もラウンジで待っております。ここは少し騒がしいので、よろしかったら、あちらへお越しいただけませんか」  矢切は丁重に夫婦を誘導した。ラウンジへおもむくと、やや派手な仕立てのスーツを着たすらりとした女が立ち上がってきた。矢切夫人であった。写真で見るよりも、目鼻立ちがはっきりして見えるのは、化粧のせいかもしれない。峯岡は、密《ひそ》かに妻と見比べて、これなら交換しても損のない相手だと内心うなずいた。矢切夫人も笑みを含んだ目の奥から峯岡を素早く観察して満足した様子である。  四人は、ラウンジで向かい合った。初経験でぎごちなさのとれていない峯岡夫婦に対して、矢切夫婦は、きわめてスムーズに熟練した手さばきで誘導していった。雰囲気は徐々に醸成されていた。間もなくこの未知の夫婦と交わるのだとおもうと、峯岡夫婦の体の底からおののきが這《は》い上がってくるが、それは出会う前の抵抗とは異質の、スワップを前提とした体の淫蕩《いんとう》な部分のおののきであった。  峯岡夫婦は、矢切夫妻の巧妙な誘導によって、すでに会話の中でスワップを開始させられていたのである。 「それではそろそろまいりましょうか。部屋が二つ用意してあります」  会話が一区切りしたところで、矢切がさりげなく立ち上がった。 「奥さんも、どうぞ」と矢切がうながすと同時に、矢切夫人が媚《こび》を含んだ目顔で、峯岡にうなずいてみせた。峯岡の中でおののきが欲望に変化して脹《ふく》れてきた。     6  矢切はフロントへ行ってキイを二つ受け取ってきた。ボーイの案内を断わり、夫婦二組で部屋へ向かう。 「あいにく隣り合わせの部屋が取れなかったのですが、同じ階でいくらも離れていません。今日が初めてですので、隣り合っていないほうが、よろしいかもしれません」  エレベーターの中は四人だけだったので、矢切はかなり露骨な示唆《しさ》をしている。峯岡夫婦は、すでに初対面の十二|単《ひとえ》を完全に脱がされていた。 「見合い」だけという関所はとうに通過して、スワップの花園の中へ歩み入っていた。最初に提示しておいた「軽いタッチプレイ」程度からという留保条件が、どこまで守られるかわからない。守られなくとも仕方がないという暗黙の了解が成立していた。それは矢切夫妻との間だけではなく、峯岡夫婦の間にも了解されつつあった。  二人はついに�交際場�の前に立った。 「それでは午後五時に、さっきのラウンジでまた落ち合いましょう。それまで約四時間あります。食事はそれぞれルームサービスで適当に取りませんか。それじゃあごゆっくり」  矢切は、しごく当然のように尚子の腕を取った。 「あなた!」  尚子は、おもわず夫の方に救いを求めるような目を向けると、矢切は心得たように、 「奥さん、ご心配なく。私におまかせなさい」  と耳許にささやいた。一方、矢切夫人も、 「さ、私たちもまいりましょう」そっと峯岡の背中を押した。  矢切悦子といっしょに隔絶されたホテルの客室に入ると、峯岡は度胸が定まった。すでに自分の妻は矢切の手に預けている。自分がこれまで丹精した妻の肉体に、初めて他の男の鍬《くわ》が加えられようとしている。  峯岡は、中学の運動会のときにやった棒倒しをおもいだしていた。攻撃隊として敵の棒に取りついた峯岡は、味方の陣地の方をふと見ると、味方の棒も敵の攻撃にさらされて、危なげにぐらぐら揺れている。倒されるのは時間の問題である。味方がやられる前に、敵の棒を倒さなければならない。  スワップは棒倒しに似ている。敵を倒すためには、味方の棒を敵の攻撃にさらさなければならない。味方を守ってばかりいては、敵の棒を倒せない。  いったん取りかかった以上、逡巡《しゆんじゆん》してはならない。果敢に敵を攻撃しないかぎり、味方(妻)がやられる一方である。  しかし、棒倒しと様子がちがって、峯岡はとりあえず、どのように仕掛けてよいかわからない。 「お着かえなさったら」  矢切悦子が、きっかけのタイミングをつかもうとしている峯岡の心を読んだように、艶《つや》っぽく笑いかけた。 「風呂へでも入りましょうか」 「それがよろしいわ」  峯岡がバツの悪さをまぎらすために言った言葉が、最もその場に適《かな》っていたようである。  峯岡が、浴室に入ってシャワーを使っていると、カーテンが揺れて、空気が動いた。怪訝《けげん》におもったとき、カーテン越しに女の裸身がほの白く浮かんで、「入ってよろしいかしら」と矢切悦子の声が問いかけてきた。  まさかいきなり悦子が浴室へ入って来るとは予期していなかった峯岡は、咄嗟《とつさ》に対応できない。 「お邪魔かしら」  いたずらっぽい笑みを含んで、悦子がカーテンから顔を覗《のぞ》かせた。峯岡の答えも待たずに、すでに彼女の身体は、峯岡に密着せんばかりの距離にあって同じシャワーの湯を浴びている。子供を生んだことがないのか、弛緩《しかん》がまったく見られない見事なプロポーションである。  峯岡が衣服の外から想像したよりも、よく実り、均斉のとれた肉体であった。脂の乗った肌が湯を弾《はじ》き、湯気の中に桜色の身体が輝いて、峯岡を圧倒してきた。 「まあ正直、もうこんなにお元気になって」  実りきった下肢を峯岡の身体にそっと押しつけてきた矢切悦子は、誘うように、腰を左右に軽くよじった。峯岡は早くも耐えきれなくなった。 「奥さん!」 「あら、気が早いのね。時間はたっぷりあるのよ。ゆっくり時間をかけて楽しみましょう」  悦子ははやり立つ峯岡を軽くいなして、腰を引いた。シャワーを共に使ったことによって二人の間から隔壁《かくへき》がとれた。浴室から出た彼らはベッドへ直行した。  峯岡は初めて他の男の人妻と交わる興奮に身体が震えていた。そんな峯岡の心理を知りぬいているように矢切悦子は、 「いつも奥さんになさるようにしていいのよ。いまごろ彼女も主人にきっと、うふふ」  うすく含み笑いをした。別室で進行しているにちがいない妻に対する侵蝕の構図が、自分の前にとっている矢切夫人の痴態と重なり合って、峯岡の膨張しきった欲望は、臨界点に達した。 「あなたって素晴しいのね」  官能の余熱の中にしどけなく全身を委ねて矢切悦子は言った。 「奥さんこそ、素晴しい」  峯岡も完全に満足していた。それは新鮮で濃厚な肉食の宴であった。夫婦の間に堆《つ》み重ねられた熟練が、そのまま未知のカップルの間に移植されたような、完璧《かんぺき》な和合と達成が得られたのである。妻との間には決してない新鮮な味つけが施された未知の宴であっただけに、満足感はいっそう高い。 「このままずっとチェンジしていたいくらいだわ」 「本当に」 「これを機会によろしくね」 「こちらこそ」  二人は許し合った男女特有の親密な視線を交し合った。スワップであれ、行きずりのプレイであれ、あるいは売春であれ、体を交えた男女には、他人の男女の間には決してないなれなれしさがある。それは淫らな共犯意識といってもよい。  いま彼らは、官能の享楽という罪を分け合った。しかも初回に達せられた和合は、これからも同じ罪を累《かさ》ね合うだろうことを、たがいに予期している。それは楽しい予期であった。  彼らはようやくその罪の花園の入口に達したところである。これから二人手を取り合って素晴しい花園の渉猟《しようりよう》がはじまろうとしている。  言葉は少なく、余韻《よいん》は長く大きかった。余韻が長く尾を引いて退潮する前に、次の波を引き出してくる。  峯岡は、早くも次の潮が満ちかけてくる萌《きざ》しを体の奥におぼえていた。これも妻との間には決してなかった現象である。矢切悦子も忠実に反応している。  この機会をできるだけ貪婪《どんらん》に貪《むさぼ》らなければならない。尚子も同じ様に一つの|終了の《フイニツシユ》上に、新たな点火をうながされているのだろう。  負けてはいられない。——  自分の配偶者が、これまで自分とだけしか行なったことのない性行為を自分以外の異性と同時に行なっているという実感が、刺戟を強める。そこにスワップの心理的効果がある。これが同室で行なえば、刺戟はさらに高まる。いや別室であればこそ想像による誇張があるので、刺戟はいっそう強いのかもしれない。侵《おか》さなければ、侵される一方という意識が、欲望をかき立て、意地を汚なくさせていた。  彼らが新たな導入の構えを取り合ったとき、部屋のドアが激しく叩かれた。荒っぽく無作法な叩き方である。こんなノックをホテルの従業員がするとはおもえない。  二人は、一瞬ギョッとなって、ドアの方をうかがった。ドアはさらに激しく叩かれた。止むを得ず峯岡は、裸体の上にホテルの浴衣《ゆかた》を羽織ってドアの手前に歩み寄った。矢切悦子がベッドの上に無防備でいるので、すぐにはドアを開《あ》けられない。 「だれ?」  ドアの内側から身構えて誰何《すいか》すると、 「あなた、助けて。開けて、早く!」  妻の声であった。それもかなり切迫している。びっくりしてドアを開くと、ほとんど全裸に近い格好の尚子が走り込んで来るなり、峯岡に抱きついて泣きだした。 「いったいどうしたんだ? 矢切さんはどこにいるんだ」  驚いて質《たず》ねても、尚子は泣くばかりである。激しい嗚咽《おえつ》のためになにかを訴えたくとも言葉にならない様子である。 「弱ったな、さっぱりわけがわからない」  もはやスワップの雰囲気ではなくなった。 「電話して主人に聞いてみるわ」  ベッドの上に起き上がった矢切悦子が受話器を取り上げたとき、大|慌《あわ》てに身仕舞いをした体の矢切が駆け込んで来た。表情が別人のように険悪になっている。先刻の紳士の面《マスク》からヤクザの面につけかえたように、凶悪な表情であった。 「矢切さん、どうしたんですか」  峯岡は不吉な予感に耐えて聞いた。 「どうしたもこうしたもあるものか。この期《ご》になって、あんたの女房はいやだとぬかしやがる」  言葉遣いまでがヤクザそのもののようにくずれていた。眉との間の迫った目が凶器のような光をたたえて光っている。それはまさしくヤクザの目であった。峯岡は矢切のハイドのような変貌にむしろあっけにとられていた。 「そ、それはまたどうして?」 「そんなことをおれが知るか。まさかおまえら夫婦で、おれを|はめた《ヽヽヽ》んじゃあるまいな」  矢切は、凶暴な目で室内をにらむと、気配から峯岡と悦子が目的を達したのを敏感に悟ったようである。 「はめたなんて、そんな。尚子、いったいどうしたというんだ」  矢切の吹きつけてくるような凶暴な気配を避けるために、峯岡は妻に向かい直った。それは妻を楯《たて》にしてひとまず矢切の凶気を避けようとしたのである。それほど矢切はなにをするかわからないような凶暴性を全身に孕《はら》んでいた。  だが尚子は泣きじゃくるばかりで、いっこうに要領を得ない。 「どうしたっていうのよ。まるでオボコみたいにめそめそしてさ」  矢切悦子までが急に蓮葉《はすつぱ》な言葉になった。ベッドの上に立て膝をして煙草をくわえている。それは先刻までのコケティシュであったが、洗練された上流の雰囲気とはほど遠いものであった。  峯岡はそのとき、はめられたのは、むしろ自分たち夫婦ではないかとおもった。 「おい、悦子、おまえいいおもいをしたんだろう」矢切は妻の方へ向き直った。 「あんた、ここへなにしに来たのよう。そば屋へ入ってなに食ったかなんて聞くようなことを言わないでよ」  悦子は、煙草の煙を吹き上げた。 「峯岡さんよ、つまり、あんたは人の女房を只食いしたってわけだ。このオトシマエはどうつけてくれる」  矢切は、凶相を剥《む》き出して峯岡の方へ迫って来た。峯岡の背後で尚子は悲鳴をあげた。 「なんだよ、その声は、殺されるような声出しやがって」 「ま、待ってくれ。矢切さん、少し時間をくれないか。家内はこのようにおびえている。いま無理|強《じ》いしても、かえって逆効果になる。私がよく説得してみるから」  峯岡に取りすがられて矢切は少し気勢を抜いて、 「どのくらいの時間だ」 「二週間、いや一週間でいい」 「本当だな。嘘をついたら、ただじゃすまねえぞ」 「約束するよ」 「よし、あんたらの本当の住所をおしえろ。口で言っただけじゃだめだ。身分証明になるものを見せろ」  矢切は、完全に変身していた。  スワップは惨憺《さんたん》たる結果に終った。矢切夫婦と別れた峯岡夫婦は、ショックでしばらく口もきけなかった。  ようやく家の近くまで来たところで峯岡は妻に聞いた。 「なにがあったんだ」  矢切夫婦の変身ぶりも尋常ではなかったが、スワップの場に臨んで一方の妻だけが拒んだら、相手の男が怒るのは当然である。 「急に恐くなったのよ」  尚子は、ポツリポツリ話しはじめた。 「恐いって、なにか特別なことでもしたのか」  いきなりサディスティックな行為でも仕掛けたのなら、スワップの条件を相手が破ったのであるから、拒んでも理由が立つ。 「いいえ」 「じゃあどうして?」 「ただなんとなく恐くなったの」 「それじゃあ理由にならない」 「あなただってわかったでしょ。あの人普通の世界の人じゃないわ。きっとヤクザよ」 「急に態度が悪くなったけど、きみに土壇場で断わられたもんだから逆上したんだよ」 「いくら逆上したってあんな風には変らないわ。それにあの人背中にひどい傷痕があるのよ。まるで刀で斬られたような。奥さんだってまるであばずれになっちゃったじゃない」 「うん、おれもあれには驚いた」 「あなた、あんな女を本当に抱いたの?」 「だって、そのために行ったんじゃないか」 「不潔だわ。よくそんなことができたものね」  矢切が怒ったのと同じ心理が、いま尚子に働いていた。夫婦了解の上でスワップの場に臨みながら、夫だけが目的を果たしたことを怒っている。しかも自分が不首尾に終ったのは、自らの意志によるものである。 「仕方がないだろう。おまえがそんな風になったとは知らないんだから。それでおまえ本当に矢切になにもされなかったのか」  矢切の激昂《げつこう》を見ただけでは、ホテルの密室の中で男と女がしばらく二人だけの時間をもった後に、なにもなかったとは信じられない。 「必死に抵抗したのよ。押え込まれてもうだめかとおもったけど、相手の急所を蹴飛ばして逃げ出して来たの」 「一時間は経《た》っているぞ。よくそんな長い時間抵抗をつづけられたね」 「あなた、私を疑っているの。矢切が欲望を遂げていれば、あんなに怒らないわよ」 「そりゃまあそうだが、しかしこのままじゃすまないぞ。あの男必ずなにか言ってくる」  峯岡は妻が無傷なのにホッとしたものの、これからややこしいことになりそうな気がしきりにしていた。 「私、絶対にいやよ。だれがあんな男と。あなた、自分の妻があんなヤクザみたいな男に抱かれてもなんともおもわないの」 「そりゃあできることならぼくだってきみにそんな真似はさせたくないさ。しかし、これは双方納得ずくの上ではじめたことじゃないか」 「私は、納得なんかしていないわ」 「でも、矢切と部屋へ入ったろう」 「そこまでするつもりはなかったわ。メッセージにも軽いタッチプレイ程度からはじめたいと書いたじゃないの」 「いまさらそんなことを言ったって、矢切には通用しないよ」 「通用しようとしまいと、私はいや。あなたが矢切の妻を抱いたのは、あなたの勝手よ。その代償に私が矢切に抱かれるなんて、まっぴらだわ」 「わかったよ。矢切には少し金をやってあきらめてもらおう。さあもう家だ。今日のことは忘れよう」  峯岡夫婦は、自宅が見える所まで来てから、子供たちに約束したみやげ物を買ってくるのを忘れたことに気がついた。     7  峯岡は、いちおう妻に追従したように見せたが、矢切がわずかな�示談金�で引っ込むような相手でないことを直感的に悟っていた。  あの男には普通の市民にはない凶悪な雰囲気がある。峯岡は初対面の仮面に騙《だま》されたが、矢切と密室の中で向かい合った尚子は、それを悟って怖気《おじけ》づいたのである。  峯岡は、翌日から金で示談にしてもらうために矢切に電話をかけた。しかし、何度ダイヤルしてもコールサインが鳴るだけで、応答しない。H・Fを経由して手紙を送ったのでは期日に間に合わない。 「きっとそこに住んでいないのよ」 「前はこの住所で連絡がついた」 「それじゃあ旅行でもしているのかしら」 「そのうちにきっと先方からなにか言ってくるよ」 「あなたもう一度会いたいんでしょ」 「なんだって?」 「だいぶ矢切の細君《ヽヽ》とはうまくいったようじゃないの。先方からの連絡を心待ちにしているんじゃないかしらね」 「なにを馬鹿なことを言ってるんだ」 「あのとき先方もまんざらではない顔をしていたわよ」 「本当に怒るぞ」 �会見日�から五日ほど後の夜、峯岡夫婦が寝支度をしかけていたところへ電話がかかってきた。  こんな遅い時間に電話をかけてくる者はめったにないので、峯岡夫婦は顔を見合わせた。いやな予感が胸を走った。 「ぼくが出よう」  峯岡は半腰になりかけた妻を抑えて、電話口に出た。聞きおぼえのある声が話しかけてきた。 「峯岡さんか。奥さんは元気かね。そろそろ約束の期日が迫ってきたので、忘れているといけないとおもって確認の電話を入れたんだ。悦子があんたのことを忘れかねているらしいぜ」  矢切は、いやらしい含み笑いをした。 「そのことであなたに連絡をとっていたんだよ。話したいことがあってね」 「話したいこと? おれにはべつになにもないよ。あんたの奥さんを提供してくれればいいんだ。貸し借りなしの五分と五分になれる」 「実はね、あれから家内を説得したんだが、どうしてもいやだと言うんだよ」 「なんだと!?」  矢切の声がたちまち凶悪の気を帯びた。 「まあ最後まで聞いてくれ。スワップを一方的に終らせたのは、申しわけないとおもっている。しかし、いやだという家内に無理|強《じ》いはできないんだ。それでものは相談だが、示談金を出すから、それで折り合ってもらえないだろうか」 「示談金だと」  相手の言葉が停滞した。少し興味をもった様子である。 「あなたの奥さんを一方的に抱いてしまったお詫《わ》びの印もある。どうだろう、それでかんべんしてもらえないかな」 「示談金とはおもしれえ。いくら出すつもりだね」 「しがない教師だから、大した額は出せないが」 「いやいや、××高校の教務主任なら立派なもんだよ。住居もなかなか豪勢なものだ」 「きみ、私の身分と家を知っているのか」 「住所をおしえてくれただろう。どんな家に住んでいるのか、そっと拝見に行ったよ。近所の商店で聞いて、あんたの職業もわかった。学校の先生ではトルコにも行き難いだろうな」  峯岡は、単なるスワップの相手と考えていた矢切が、こちらの身許に必要以上の関心を寄せて調べている様子に、無気味なものをおぼえた。 「それはスワップのルール違反じゃないのか」  交際夫婦は相手の身許を詮索《せんさく》しないことになっている。 「ふん、ルール違反はどっちだ。あんたこそおれの女房を只乗りした」 「だから示談金を出すと言っている」 「金額を聞こうか」 「二十万でどうだろう」  峯岡は、相手はスワップのベテランだからこのくらいで十分だろうと踏んだ。 「峯岡さんよ、あんたふざけてんのかね」 「真剣だよ」 「じゃあ額をまちがえているんじゃないのかね」 「不足なのか」  どうせ素直には折り合わないだろうとおもっていた。 「人の女房を抱いてそんな端金《はしたがね》ですむとおもってんのか」 「いくら出せというんだ」 「桁《けた》がちがうよ、桁が」 「まさか二百万とは!」 「ふふ」 「無茶だよ」 「早合点するな。おれは一桁とは言ってないぜ」 「じゃあ二千万! そんな馬鹿な」  峯岡は悲鳴をあげた。 「なにが馬鹿なだ。あんた、おれの女房をそんなに安く踏んでたのかね」 「スワップするほどの細君じゃないか。二千万なんてめちゃくちゃだ」 「スワップという意味をよく知らねえな。交換だよ、女房の交換。つまりあんたの女房にも二千万の値打を認めたってことだよ。二千万出すのがいやなら、あんたの奥さんを抱かせろ。そうすれば鐚《びた》一文いらねえよ」 「そんな大金はない」 「嘘言いなさんなよ。その家を抵当に入れれば、二千万くらいわけなくひねり出せる。土地と合わせて六千万の値打はある家だぜ。あんたの信用があれば、掛け目六割ぐらいまで貸すよ」  矢切は、峯岡の財産状態まで調べている。峯岡は、いま自分が向かい合っている相手が、ただのねずみではないことを悟った。 「二千万なんて、なんと言われても無茶だ。この家はまだ完全に自分のものになっていない。七所《ななとこ》借りしてようやく買った家なんだよ」 「そんなことおれの知ったことか。その家を抵当に入れれば、どこの銀行でも二千万ぐらい喜んで貸すよ」 「おねがいだからまじめに話を聞いてくれ。二十万で不満なら、多少色をつけてもいい」 「おれはこれ以上はないくらいにまじめだぜ」 「スワップの代償に二千万よこせなんて、どう考えても非常識だ」 「あんたはまだよくわかっていないらしいな。二千万というのは、おれがあんたの奥さんにつけた値段と同じだよ。あんたがどうしても払わないと言うなら、それでもいいんだぜ」  矢切の声が凄《すご》んだ。このような相手から凄まれたことがないだけに、峯岡はすくみ上がった。 「ど、どうするつもりだ」 「ちょっと手荒な真似をするかもしれない」 「警察に訴えるぞ」 「どうぞ。おれはあんたがおれの女房を強姦したと訴えるね」 「そんな馬鹿な! あれは双方合意の……」 「おれは合意なんかしていないよ。女房もそう言うよ。名門高校の先生が人の女房をホテルに連れ込んで強姦したとなれば、これはきわめつけのスキャンダルだ」 「ホテルに従《つ》いて来て強姦もないものだ」 「騙されて連れ込まれたんだよ。ホテルでもモーテルでも強姦は成立するさ。それにあんたにとってはそんな破廉恥な罪の疑いをかけられるだけで、身の破滅じゃないのかね」  H・Fに問い合わせれば、�合意�に基いていることはわかるし、争う手段はいくらでも残されていたが、峯岡にとっては争うこと自体が危険である。  矢切は、完全に峯岡の足元を見ていた。  結局、峯岡は談合の末、三百万円で折り合った。矢切もその程度で折り合うつもりで、二千万円と吹っかけてきたのであろう。それにしても一介の教師にとって三百万円とは法外な大金であった。しかし、それを出さないと、なにをされるかわからない恐ろしさが矢切にはあった。それも単なる脅しではない、闇の世界に生きる人間のみがもつ迫力が、峯岡を圧倒したのである。  峯岡は、夫婦生活のマンネリに活を入れようとして手痛い傷をうけた。しかし、三百万円支払っても妻を矢切のような男から守れたのは、不幸中の幸いと言うべきであっただろう。結局峯岡は矢切悦子の身体を三百万円で買わされたのである。  恋の獲物     1 「ヒロちゃん、おねがい! もっと冷静になってちょうだい」  永瀬雅美《ながせまさみ》は、妹の広美《ひろみ》の肩を揺さぶるようにして言った。 「私は、この上ないほどに冷静よ。お姉さんこそ取り乱しているわ」  広美は蔑《さげす》むように雅美を見た。この世に二人だけの姉妹である。かつて妹が姉をこのような目をして見たことはなかった。 「ヒロちゃんには、男の正体がよくわかっていないのよ。あなたをオモチャにしているだけなのよ。目を醒《さ》ましてちょうだい」  雅美は必死に訴えた。 「平沢《ひらさわ》さんをそんな風に言わないで! あの人はそんな人間じゃないわ」 「あの人、妻子があるのよ。年も三十以上もちがうし、ヒロちゃんと結婚する気なんかないわ。あなたは騙《だま》されているのよ」 「そんなんじゃないったら! 私たち愛し合っているのよ。出会って愛し合ったら、たまたまその人に奥さんや子供がいたというだけじゃないの。愛に変りはないわ。愛し合えば年齢差なんか関係ないわ」 「あの男には、ヒロちゃんのために、妻子を犠牲にする意志なんかないわ。愛という旗印をかかげて、ヒロちゃんの躰《からだ》が欲しいだけなのよ」 「お姉さんってどうしてそんな下品な考え方しかできないの。男の人には、どうしても選択できない場合があるのよ。それは新しい女ができて、古い奥さんとどんどん離婚していけばコトは簡単だわよ。でもそういう男は、同じことを何度でも繰り返すわ。平沢さんはどんなに私を愛していても、男としての責任から奥さんと子供を捨てられないのよ。すぐ離婚しないのは、あの人の誠実な証拠よ」 「あなたに対する責任はどうなるのよ。それでもあなたに対して誠実だと言えるの? あの男は、ただ自分の欲しいものを全部手に入れようとしているだけにすぎないわ」 「お姉さんは人を愛したことがないから、そんな風にしか考えられないのよ。それとも恋人がいないので、私に嫉妬《しつと》しているんじゃないでしょうね」 「ヒロちゃん!」  雅美は絶句した。これがあの優しく聡明だった妹とはとうていおもえない。恋に逆上して、まったく別人になってしまったようである。  永瀬雅美と広美の姉妹は、幼いころ災害と病気で両親を失い、二人でたすけ合いながら生きてきた。両親の死後、母方の遠い親戚《しんせき》に預けられた二人は、その家の子守り手伝い代わりに使われながら、ともかく歯を食い縛るようにして高校を出た。まがりなりにも高校を出られたのは、死んだ親が多少の不動産を残してくれたおかげである。  親戚は、姉妹の養育費と学費と称して、その不動産を取り上げてしまった。高校在学中からもはや親戚に頼れないと悟って、美容の勉強をはじめていた雅美は、卒業後、新聞の求人広告を頼って、東京の美容院に住み込んで働きながら美容師の資格を取った。資格取得後店に来るお客の紹介でテレビ局の美容部員《メーキヤツプ》となった。この仕事は通称「メークさん」と呼ばれ、テレビ出演者の化粧を担当する。  本番中の衣装がえの場合などには、スタジオの中で時間と競争しながらの仕事となるので、機転のきく臨機応変のタイプでないとつとまらない。またスタジオの都合やロケの天候待ちなどで待ち時間が多いので、忍耐も要する。出演者のメーキャップだけでなく、こまごました身のまわりの世話もしなければならない。明るく、神経の行き届いた雅美は、だれからも愛され、彼女を指名する有名出演者が多くなった。  雅美は時機を見はからってフリーになった。独立しても指名を多くつかんでいたので、仕事は順調に発展した。  独立してどうにか生活の目処《めど》がついたところで妹を呼んだ。広美は英語が好きで、高校では英語研究部のリーダーをつとめていた。在学中に英語検定一級を取り、卒業後、姉の許に身を寄せて通訳養成所に入り、通訳ガイドの資格を取った。この試験はいちおう短大卒程度の学力を標準にしているが、単に語学力だけでなく、歴史、地理、政治、文化などの幅広い知識を要求され、合格率三パーセント程度の狭き門である。  この資格があると、日本観光通訳協会に所属して顧客を紹介してもらえる。日本を訪れる外人観光客に付き添って日本滞在中の通訳と旅行案内をするのが仕事であるが、資格を取っただけでは、なかなか依頼がこない。たいてい大手の旅行エージェントの専属か社員となってガイド業をするのが常であるが、広美は自営を希望した。  最初はまったく依頼がなく、どこかのエージェントに身売りしようかとおもったこともあったが、春秋観光シーズンのガイド不足の時期にこぼれ落ちてきた依頼客の評判がよく、徐々に客が増えてきた。広美のソフトな人あたりと万人好みの容姿がうけて、観光シーズンには依頼をこなしきれないこともあった。  呼吸一つするのも憚《はばか》るような長く屈辱的な食客生活に別れを告げて、姉妹にようやく自立の春がめぐってきたようであった。だが運命の神は、まだ彼女らを完全に解放していなかった。一つの檻《おり》から脱け出たとおもったら、またべつの檻に入れられていたのである。  広美が通訳になってから二年ほど後、東京都と神奈川県の境に近い都下N市がアメリカ・カリフォルニア州のP市と姉妹都市縁組みを結んで、P市から市長はじめ有力者を招いた。  そのときN市から日本観光案内の依頼をうけたのが、広美であった。広美の評判はよく、P市から来た客は満足して帰国して行った。  ここまではよかったが、この仕事はおもわぬ後遺症をひいたのである。その際、P市の客の接遇いっさいの現場指揮にあたったのが、N市秘書課長平沢|敏也《としや》であった。平沢と広美は、P市の客が滞日した十数日間ずっと行動を共にした。京都、奈良、日光などへもいっしょに行った。その間に二人は親しくなり、別れ難い間柄になっていた。  平沢は五十二歳、妻と、大学生と高校生の子供がいたが、完熟した男っぽさと、女の心の襞《ひだ》までを柔らかい泡で包み込むような優しさが、父親を早く失った広美を強くとらえた。腕のいいガイドとして、外人客の人気を集めていても、男に対する免疫のまったくできていなかった広美は、いったん平沢に傾くと、たちまち溺《おぼ》れこんでいった。平沢の老巧なテクニックによって、広美の生硬な身体は、速やかに拓《ひら》かれていった。メンタルな要素の中に、麻薬のような官能の愉悦を移植されると、理性や計算は駆逐されて、恋の炎の燃え狂うままに心身を委ねなければならない。  こうなると、どんな忠告も諫言《かんげん》も耳に入らない。だが姉として、妹がみすみす男の食い物にされているのを黙って見ているわけにはいかなかった。燃えかすにされてからでは遅いのだ。  男は、すでに初老の五十二歳である。その完熟した男の味に惹《ひ》かれたのであろうが、三十歳もの年齢差はどうちぢめようもない。  市役所の課長では大した財産も経済力もあるわけではなく、五十二歳では間もなく肩を叩《たた》かれる年齢である。広美は、いまは恋に狂っているが、彼女の将来はこれからどのようにも開く。老境にさしかかった男に、開いたばかりの新鮮な花を預けるわけにはいかない。  しかも男は、後半生をかけてその花を預ろうとする意志すらない。人生の後半に入って、はからずも手に入れた咲きたての花の最も美味《うま》い蜜《みつ》だけを吸い取ろうという心算《つもり》なのだ。  雅美がにらんだとおり、平沢は広美と新しい人生をスタートするために、これまでの生活を清算するとは決して言わなかった。女は恋だけに盲目になれるが、世俗の知恵をたっぷりと蓄わえた五十男は、恋のために生活を犠牲にしない。これまで背負ってきた人生のさまざまな荷を、そう簡単に下ろせるはずがないのだ。  そんな単純なことが、逆上している妹には見えない。さんざん男に吸い取られて、ボロかすのようにされて放り出されるのは、目に見えている。  雅美が諫《いさ》めれば諫めるほど、広美は救いようもなくのめっていくようである。  広美はついに、雅美と別れて暮らしたいと言いだした。 「別れてどうするつもりなのよ」 「どうしようと、私の勝手よ。私もうおとなよ。お姉さんにいちいち干渉される筋合いはないわ」 「べつに干渉なんかしていないわ。私たち二人きりの姉妹でしょ。あなたの身を案ずるのは、あたりまえじゃないの」 「それはお姉さんには有難いとおもっているわよ。ガイドの資格を取れたのも、お姉さんの援助があったおかげだわ。でももう私も自分一人の判断で生活できる年齢なのよ。このままいつまでもお姉さんといっしょに暮らすわけにはいかないのよ。お姉さんだって、いつか結婚するんでしょ」 「だからってなにもそんなに急に別れなくたっていいじゃないの」 「前からおもっていたの。言いだすきっかけを待っていたのよ。私、平沢さんと新しい生活をはじめるんです」 「結婚するの?」 「結婚なんて形式にすぎないわ。私たちいっしょに生活することが必要なのよ」 「それじゃあ同棲《どうせい》じゃないの!」  雅美は悲鳴のような声をあげた。 「お姉さんて、どうしてそんな言い方しかできないの。愛する二人がいっしょに生活をする。それで十分じゃないの」  広美は、突き放すように言った。広美は自由な新世界に羽ばたくつもりで、男の檻の中に�獲物�としてとらえられたのであった。     2  広美は、雅美の部屋から出て行った。これまで扶《たす》け合い励まし合って生きてきた姉妹が、一人の男の介入によって初めて離反した。  広美は、新しいアドレスをおしえていったが、すぐには訪ねる気にもなれない。どうせそこには、男がいるにちがいない。妹を誑《たぶらか》し、その初めての貴重なものを奪い、邪《よこし》まなる官能の迷路の中に引きずり込んだその男が憎い。  顔を合わせれば、無事にはすまないことがわかっているので、当分敬遠することにした。そのうちに広美のほうがなにか言ってくるにちがいない。ある日、熱からさめたようにケロリとして帰って来るだろう。これまでの姉妹の絆《きずな》は、そう簡単に切れるものではない。  しかし二か月経っても、妹からはいっこうになにも言って来なかった。雅美はしだいに不安になった。  いかに恋狂いとはいえ、二か月以上もまったく音信《いんしん》を絶っているのは、おかしい。それとも仕事で旅行をしているのだろうか。それにしても、あんな別れ方をした後であるから、電話か葉書一本ぐらいくれてもよさそうなものである。こちらから電話してもいつも留守である。  雅美は、ついに不安に耐えかねて、妹の住所へ訪ねて行った。広美の新住所は中野区のレンタルマンションであった。  だがいくらコールブザーを押しても、応答がない。ドアハンドルにうすく埃《ほこり》が積もって、長い間人が出入した形跡がなかった。留守にしていても、人が住んでいるときは、生活のにおいがあるものだが、それがまったく感じられない。  隣室のドアが開いて、三十前後の男が顔を覗《のぞ》かせた。 「お隣りさんは留守のようですよ」  雅美のコールブザーが、隣人を呼び出してしまった。 「いつごろから留守でしょうか」 「さあ、ぼくもまだあまり親しくしていただいていないのですが、かれこれ一か月くらい気配を聞かないようですね」  隣室の男は、長い髪をかき上げながら言った。身体から高雅な香水の香りがかすかににおった。ラフなスタイルをしているが、相当の伊達《だて》者のようである。 「まあ一か月も!」 「いや、私も留守がちですから確かなことは言えないのです。管理人に聞かれてはいかがですか」 「管理人さんはどちらに?」 「一階の101号室です。ご案内しましょうか」 「いえ、自分で探しますから」  雅美は親切な隣人に感謝して一階へ下りた。 「ああ永瀬さんですね、私も変におもっていたんですよ。入居して一か月ぐらい後の夕方に、スーツケースを下げて出かけるところを見かけたのですが、一週間ほど旅行に出かけるということでした。ところがその後、帰って来た気配がないので、どうされたのかなとおもっていたのです。まあむこう三か月分の家賃《レント》は保証金として預かっておりますがね」  管理人は、雅美を観察しながら言った。 「旅行へ出かけると言ったんですね」 「そうです」  ガイドだから、旅行は仕事である。 「連れがいましたか」 「ええ、中年のサラリーマン風の男がいましたよ」 「中年? 五十前後の男ではなかったですか」 「もしかするとそのくらいかもしれませんね、若造りでしたから」  それが平沢にちがいないと心にうなずいて、雅美は、 「その男の姿は、よく見かけましたか」 「部屋を借りるとき、いっしょに見えましたよ。最初はご夫婦かとおもったのですが、そうでもなさそうでした。まあこの界隈《かいわい》のマンションはわけありの方が入居することが多いですからね、私どももあまり詮索《せんさく》しないことにしております。お見うけしたところご姉妹のようですが」 「私の妹なんです」 「ああ、それはまた……」  管理人は、ご愁傷《しゆうしよう》さまとでも言いたげな顔をした。 「あのうちょっと部屋の中を見させてもらえませんでしょうか。ちょっと気がかりなことがあるものですから」 「ごきょうだいでしたらよろしいでしょう」  管理人はうなずいた。彼自身も、一週間で帰って来ると言いおいて出かけた入居者が、いまだに帰った気配のないことが気になったようである。  マスターキイでドアを開いて中へ入ると、広美が着けていたらしい淡い香水のにおいが澱《よど》んでいた。体温のない残香である。何日も無人だった証拠である。内部は2DKの広さで、若い女性の部屋らしく小ぎれいに整頓《せいとん》されている。一見したかぎりでは、男の持ち物は見当たらないが、テラスに面した洋間におかれたダブルベッドが、その部屋の性格を物語っていた。 「だいぶ長い間留守にしている様子ですな」  管理人が言った。雅美はふと気がついてダイニングキチンにおかれてあった冷蔵庫を開いてみた。ビールが数本と生鮮食料品が多少入っている。女が長く留守にするときは生鮮食料品を始末していくはずである。  広美は、管理人に言ったとおり、一週間で帰って来るつもりだったのだ。それが一か月以上経っても、帰って来ていない。不安が雅美の胸の中で確実に脹《ふく》れていた。  室内には、雅美も見おぼえのある広美の衣類や小道具がそのまま残されている。  雅美の知るかぎり、これまで広美が最も長く家を空《あ》けたのは、平沢と知り合うきっかけとなったアメリカのP市の客を案内《アテンド》したときだけである。念のために広美が所属している通訳協会に問い合わせたところ、この二か月ほどの間彼女に仕事を斡旋《あつせん》していないということであった。 (平沢の動向を見れば、広美の消息もわかるはずだわ)  雅美は、最も適切な解決策におもい当たった。  雅美は、まだ平沢に正式に紹介されていない。広美の行動に疑惑を抱いて問いつめたところ、初めて平沢との関係を打ち明けられたので、会ったこともなかった。  もし平沢が広美と行動を共にしていれば、勤め先を欠勤し、家にも帰っていないはずである。雅美はN市役所の電話番号を調べて、早速電話した。 「秘書課長の平沢さんはいらっしゃいますか」 「はい、そちら様は?」  一瞬ためらってから、名乗ると、 「おつなぎいたします」  と交換手がいともあっさりと言ったのでうろたえた。まさか平沢が勤め先にいるとはおもっていなかったからである。 「ちょっと待ってください。平沢さんはそちらにいるのですか」 「はいおります」 「あのういるというのは、出勤しているということですか」 「そうですけど」 「平沢さんはここのところずーっと欠勤されていたということはないでしょうか」 「あなたは平沢にどんなご用件なのですか」  電話交換手の声が不審と警戒の響きを帯びた。 「いえ、よろしいんです」  雅美は一方的に電話を切った。胸の動悸《どうき》が高くなっている。  平沢は勤め先にいる。これはどうしたことなのだろうか? 平沢と広美はいっしょではなかったのか。いやいやそんなはずはない。彼ら二人がいっしょに出かける姿を管理人に見られているのである。  それとも管理人が見かけた男は、平沢ではなかったのか。しかし管理人は、広美が入居するとき、その男が同行して来たと言っている。広美と夫婦と見まちがえられるような親しい男が他にもいたとは考えられない。  すると、二人はいっしょに旅行に出かけたが、途中から別行動をとったことになる。それにしても、男だけ帰って来ているというのに、広美が一か月も消息を絶っているのは解《げ》せない。姉に離反してまで男の許に走った妹が、男といっしょの旅行へ出て、別行動をとるということがあるのだろうか。  いったいどうなっているのか。考えれば考えるほどわからなくなった。  ——一人で考えていても仕方がないわ。平沢に会ってなにがあったのか、彼の口から直接聞いてみよう——  雅美は、ようやく結論を出した。     3  雅美は、翌日N市役所に平沢を訪ねて行った。受付で名乗ると、用件を聞かれたので、「永瀬広美の姉がちょっとおたずねしたいことがあって来たと伝えてください」と言った。  これでどんな仕事をかかえていても飛んで来るはずである。案の定《じよう》、待つ間もなく、五十前後の厚みのある男が怪訝《けげん》な表情をしてロビーに下りて来た。仕立てのよい茶系統の背広がピタリと身についている。いかにも若い女に好かれそうな渋いルックスと雰囲気をもった男であった。先入観がなければ管理人が見たようにもっと若く見えるかもしれない。 「永瀬広美さんのお姉さんですか」  平沢は、顔の相似から見当をつけて、声をかけてきた。こちらの訪意がわからないので、応接の態度を決めかねているといった体である。 「永瀬雅美と申します。妹がいつもおせわになりまして」  雅美は相手の目にじっと見入りながら、精々皮肉をきかした挨拶《あいさつ》をした。平沢はまぶしげに視線をはずして、 「平沢です。ここではなんですから、どうぞこちらへ」と用件も聞かずに先に立って歩きだした。二人は市庁舎を出ると、近くの喫茶店で対《むか》い合った。用事も聞かずに市庁舎の外の喫茶店へ誘い出したところに、平沢の弱みが感じられる。 「それではご用件をうかがいましょうか」  平沢は改めて対い合うと、白々しいことを言った。用件をあらかた予測していたから、なにも聞かずにここまで誘い出したのであろう。 「妹が帰って来ないのです」  雅美は、どんな微細な反応も見逃さないように平沢を真《ま》っ直《すぐ》に見た。 「広美さんが帰らない……」  平沢は、それが自分にどんな関係があるのかというような顔をした。 「平沢さん、あなたは妹といっしょに出かけたんでしょう」 「ぼくが……どこへですか」  平沢は、当惑の色を面に浮かべていた。 「どうぞおとぼけにならないでください。妹からあなたとの関係は聞いております。一か月ほど前、中野区の妹のマンションからあなたが妹と連れ立って旅行に出かけたところを見ている人がいるのです」 「そんなことを急に言われても困るな」  平沢は五十男の鉄面皮でとぼけ切ろうとしているようであった。 「なんだったら、あなたを見たという人を連れてまいりましょうか」 「妹さんと親しくしていたことは事実ですが、すべての行動にわたって知っているわけではありませんよ」 「あなたといっしょに出かけたまま帰って来ないのですよ」 「いっしょに出かけたことはあったかもしれませんが、途中で別れたんです」 「どこで別れたのですか、妹はどこへ行ったのですか」 「そんなこといちいちおぼえていません。妹さんは旅行するのが仕事でしたから、マンションに訪ねての帰り、仕事に出かける妹さんと連れ立って出たところを見られたかもしれません。妹さんが旅行へ出たとしても、私がいっしょに行ったとはかぎりませんよ」  雅美は詰まった。管理人は妹が旅行へ出かけたとき、中年の男がいっしょにいたと言っただけで、彼がその後ずっと妹と行動を共にしたかどうか知らないのである。 「妹は、仕事に出かけるときは、旅行するとは言いません。旅行と言ったのは、仕事外という意味です。通訳協会でもここのところ仕事の斡旋をしていないということです。仕事以外のプライベートな旅行だったら、必ずあなたが同行していたはずです」  雅美は、辛《かろ》うじて立ち直った。 「どうして、そのように決めつけるのですか。仕事か仕事以外か、第三者にはわかりません。ごきょうだいのあなたにはそのように言い分けていたかもしれないが、第三者の目には見分けがつきませんよ。お客から直接に依頼があったのかもしれないし、それに私が言うのもなんですが、プライベートな旅行だったら、人に隠すんじゃないでしょうか」  平沢は、ある程度広美との仲を認めたうえで開き直ったようである。ということは、妹との秘密の関係を露《あら》わしても、旅行に同行したことを隠し通したいと考えられなくもない。 「それでは妹とは途中で別れたとおっしゃるんですね」 「いつのことかはっきりおぼえていませんが、途中で別れたことはあります」 「いまから一か月ほど前です」 「そんなことがあったかもしれません」 「その際、妹はどこへ旅行するとも言ってませんでしたか」 「べつに聞きませんでした」 「あなたは妹と親しくしていたとおっしゃいましたが、一か月も連絡がなくて心配なさらなかったのですか」 「そんなに定期的に会っていたわけではないのです。それにここのところ私も忙しかったものですから、心にかけながらも、つい連絡を取らずにおりましたので」 「ずいぶん冷たい恋人ですのね」 「そうおっしゃられると、返す言葉がありませんが、私は、本当に知らなかったのです」 「警察に捜索ねがいを出すつもりです」 「それがよろしいでしょう」 「あなたも調べられるとおもいます」 「し、しかし、ぼくは関係ない……」 「関係ないとは言えないでしょう。妹が親しくしていた唯一の男性で、彼女の姿を最後に見かけた人が、そのときあなたもいっしょにいたと言っているのです」 「そんな! 私が彼女と親しくしていた唯一の男性とは決められないでしょう。私がたまたま彼女といっしょにいたときが、彼女の最後の消息とはかぎらない。だれも姿を見なかったというだけで、実はほんの数日留守をしているだけかもしれない」 「広美には、あなた以外に親しくしていた男の人はいません。それはいっしょに生活してきた姉の私がよく知っております。いずれにしてもあなたを調べてもらいます」 「迷惑な話だ」 「当然のことでしょう。妻子ある身で若い未婚の女といいおもいをしたのですから。警察はきっとあなたの一か月ほど前の勤務状態を調べるとおもいます。本当にあなたが妹と旅行をしていなければ、アリバイがあるはずですものね」 「アリバイだって!」  ふてぶてしく構えていた平沢の顔色が動いた。雅美はなにげなく言ったつもりだったが、意外な平沢の反応に、ラッキーパンチが命中《ヒツト》したような気がした。ここに平沢の弱みがある。平沢には�アリバイ�がないのだ。  蒸発した駆け落ち     1  平沢は、広美の失踪《しつそう》にからんでいる——という心証を雅美は彼に会って得た。雅美がなにげなく漏らした「アリバイ」という言葉に顕著《けんちよ》な反応をしめしたのは、平沢にアリバイがないからである。つまり、彼は広美の�旅行�に同行している。そして彼一人がなんらかの理由で帰って来たのだ。  なぜ広美だけが帰らないのか。そして平沢はどうして広美との旅行を秘匿《ひとく》しているのか? 雅美に対して広美との関係を認めたのであるから、彼女との旅行を隠す必要はないはずである。  それにもかかわらず隠したのは、その旅行に平沢が同行した事実がわかってはまずい事情があるからだ。まずい事情とは、平沢が広美の失踪に関与していることである。 「失踪に関与」とは、彼が広美を帰れないような状態にしていることだ。  平沢にとって広美は、はからずも手中にした美肉《うまにく》の獲物だったであろう。もはや手に入れることはかなわぬと遠方から指をくわえて眺《なが》めているだけであった獲物が、自分のほうから平沢の網の中に飛び込んで来た。  平沢は、生涯二度と手に入れることのない獲物に舌なめずりをして、貪婪《どんらん》な食欲を発揮した。しかし、食欲がいちおう充たされると、獲物が重荷になってきた。平沢にとっては、一時のつまみ食いの対象にすぎない獲物のために家庭を犠牲にするつもりなど毛頭ない。  だが、いったん牙《きば》を立てられた獲物は、手負いとなって必死にしがみついてくる。振い落とそうとしても簡単には離れない。広美は平沢に妻と別れて自分と結婚しろと迫ったかもしれない。こうなると、どちらが獲物にされたのかわからなくなる。平沢は身の危険を感じて、広美を始末した。不倫の男女の悲劇的な末路である。  雅美の平沢に対する疑惑は膨張し、確定した。  雅美は、広美の居所を管轄する中野署に捜索願いを出した。事情を聴いた同署防犯課では、いちおう家出人手配として受理したが、「犯罪の被害者となっている疑いのある行方不明者」として刑事課にも連絡した。  最近、蒸発が大きな社会問題となり、年間約一万人の蒸発者がある。この内、八千人は所在が確認されるが、残る二千人は行方不明のままである。行方不明者の中には、殺人事件の被害者となっている者も混っている。  人知れず殺されて、死体を山中に埋められたり、海に沈められた者が、行方不明者として警察のファイルに永久に綴《と》じ込まれるのである。昭和四十年代後半からこの死体|隠蔽《いんぺい》殺人事件が増加する傾向にあり、警察では、捜査強化月間をもうけて捜索願いを出されたものの中から、殺人事件の被害者になっているおそれの強いものを洗っている。  防犯課から連絡をうけた刑事課は、永瀬広美が殺人の被害者となっている可能性が大きいというカンを得たので、捜査員が内偵をはじめた。その結果、永瀬広美と関係があった平沢敏也は、先月十五日から中の日曜を含めて二十一日まで休暇を申請し、三日休んだだけで、十八日から出勤している事実を突き止めた。  平沢が休暇を取ったのは、中年男と広美がマンションの管理人に姿を見られた翌日の十五日からである。彼らは連れ立って一週間の予定の旅行に出かけ、平沢のみ四日めにはもう帰っていたという状況である。それ以後、永瀬広美は失踪をつづけている。  警察は、平沢に会って事情を詳しく聞くことにした。平沢は緊張した表情で捜査員を迎えた。警察から調べが来ることを予期していた様子である。 「あなたは、永瀬広美さんと特殊な関係にありましたね」  中野署から来た笠原《かさはら》という刑事は、うすい色のついた眼鏡越しに平沢の表情をうかがった。 「親しくしておりました」  平沢は止むを得ないという体でうなずいた。 「親しいということは、男女関係があったと考えてよろしいのですな」 「まあ、そういうことです」 「その永瀬広美さんが先月十五日正確には十四日夜から、あなたといっしょに旅行に出かけたまま、消息を絶っているのですが、あなたは彼女の行方について知りませんか」 「その件については先日広美さんの姉さんが見えたので申し上げましたが、私は途中で彼女と別れたので、どこへ行ったのか知らないのです」 「途中でというとどこで別れたのですか」 「マンションを出ると間もなく彼女は車をつかまえ、私は中野駅まで歩いて行って電車に乗りました」 「ほう、彼女は車に乗った。どこへ行ったのですか」 「それが、聞かなかったのです」 「それは少しおかしいんじゃないですか。それぞれ行先のちがう二人が連れ立って出て、途中で別れるときは、自分はどちらの方角へ行くからそれじゃあこれでというようなことを言って別れるのが普通だ。まして、あなたと彼女は特に親しい関係にあった。彼女がどこへ行くのか、興味があったとおもうのですがな」  笠原は、じりじりと詰め寄って来た。同行して来た鈴木《すずき》という刑事がかたわらで黙然とメモを取っているのが無気味である。 「し、しかし、本当に聞かなかったのです。親しい間柄だからこそ、いちいち相手の行先を聞かないこともあります」  平沢は、必死に言い逃れた。 「なるほど。それではあなたはその夜彼女と別れた後、どうしましたか」  笠原はひとまず質問の鉾先《ほこさき》を変えた。 「新宿へ出て、小田急線で家へ帰りました」 「お宅は都下N市でしたな」 「そうです」 「その夜お宅に帰られたことを証明できますか」 「家内が知っています」 「いや、ご家族以外の人がいい。近所の人と会ったとか、電話がかかってきたとか」 「夜遅かったですからね、だれにも会わなかったし、電話もかかってきません」 「それでは、あなたが彼女と別れた後、お宅に帰ったことを知っているのは奥さんだけですか」 「どうして家内だけではいけないのですか。そんな夜遅く帰宅するのに、いちいち証人なんかつくれません」  平沢は必死に切り返してきた。 「それではうかがいますが、あなたはその翌日から一週間の休暇を申請している。そして休暇を全部消化しないうちに四日めには出勤している。永瀬広美さんが旅行に出かけたまま消息を絶っているのは、偶然の一致でしょうか。しかもあなたは休暇が始まる前夜、彼女といっしょにいたところをマンションの管理人に見られている」 「そ、それは、偶然そうなっただけだ」 「その三日間どこでなにをしていました」 「家で休養していたんです」 「その間、どこへも出かけず、だれにも会わずに、電話もなかったと言うんじゃないでしょうな」 「たまの休暇だったので、家に閉じこもってゆっくり静養したんだ」 「そのたまの休暇をなぜ三日で切り上げたんです」 「それは、そのう、飽きちゃったんだ。いつの間にか仕事中毒になっていて、三日休んでいたら、たまらなく仕事がしたくなった」  平沢の言葉遣いがくずれてきた。 「平沢さん、嘘《うそ》を言っては困りますね。そんな言い訳が我々に通るとおもってるんですか。永瀬広美さんは、先月十四日夜あなたと旅行へ出かけたまま帰って来ていない。あなた一人がそれから三日休暇を費《つか》っただけで帰って来た。広美さんと別れてから、帰って来るまでの時間を差引いても、あなたは少なくともまる二日間ぐらいは彼女といっしょにいたはずだ。  いいですか、妻子ある男が未婚の若い女といい仲になった。初めのもの珍しい間は楽しかったかもしれないが、妻子ある身に彼女はしだいに重荷になる。つまりあなたは、彼女に蒸発してもらいたい状況にあったわけだ」 「そ、そんな! 言いがかりだ」 「まあ、最後まで聞きなさい。ここで若い女がおあつらえむきに蒸発してしまった。これでは警察ならずとも、男を疑う。つまり、男が邪魔になった女を始末してしまったのではないかとね。我々は永瀬広美さんを殺人事件の被害者となっている疑いの強い行方不明者として見ている。そして、あんたが、その最有力容疑者に据《す》えられているんだ」笠原は一気にたたみかけた。 「とんでもない言いがかりだ」 「これを言いがかりだと言うなら、三日間の休暇の間どこでなにをしていたか証明するんだね。大の男がこの狭い日本で三日間もだれにも見られずに生活できるはずがないんだ」  平沢はついに追いつめられて言葉につまった。 「あんたの立場はすこぶる深刻なんだよ。本当のことを言ったらどうかね」  笠原に詰め寄られて、平沢の身体がグラリと揺れた。笠原は、経験からそれが相手のオチる直前の徴候であることを知っていた。     2  平沢の供述によると、  ——広美といっしょに一週間ほど那須、日光を経て上信越高原方面をドライブ旅行するつもりでレンタカーを借りて出かけたのだが、十六日の夜、日光戦場ケ原で車が電気系統の故障で動かなくなったために、広美を車に残したまま平沢がもよりの旅館へ救いを求めに行って帰って来たところ、広美の姿が見えなくなっていたという。 「彼女が、あんたの留守の間にいなくなったというと、車ごとどこかへ行ってしまったということなのかね」 「いえ、車は残っていました」 「すると、彼女が一人で歩いてどこかへ行ってしまったと言うのか」 「一人であの寂しい夜の高原の中をどこへも行けるはずがないのです」 「そんな寂しい原っぱの中へ女一人を残したのか」 「雨が降っていましたし、旅館の灯が見えたので、私一人で行ったのです」 「それじゃあ、あんたがいない間にだれかが誘拐したとでも言うのか」 「そうとしか考えられません」 「いったいだれが彼女を誘拐したと言うんだ」 「そんなことわかりません。でもとにかくだれかが誘拐したんです」 「そんな話が通るとおもってるのか」 「でも本当なんです」 「それじゃあなぜ探さなかったんだ」 「探しました。近くのホテルや旅館の人にも応援を頼んで手分けしてそのあたりを探してもらったのですが、見つからなかったのです。あの地域の旅館に問い合わせてもらえば、嘘じゃないことがわかります」 「見つからないのにどうして警察に届けなかったんだ」 「人目を隠れた旅行なので、あまり騒ぎを大きくしたくなかったからです。それにもしかしたら、通りすがりの車に乗せてもらって先に帰ったかもしれないとおもったんです」 「男と女が秘密のドライブ旅行に出かけて来て、女だけが無断で先に帰るということがあるもんかね。それに彼女が帰宅していないことはすぐわかったはずなのに、どうして届け出なかった」 「申しわけありません。恐くなったのです」 「恐くなっただと?」 「そうです。刑事さんがただいまおっしゃったように彼女が突然蒸発すれば、私の立場はまことに深刻になります。旅行先で突然姿が消えたなどと言っても、だれにも信じてもらえないとおもいました。彼女と私がいっしょに旅行へ出たことは、だれにも知られていないはずです。彼女も私が同行することはだれにも話していません。マンションの管理人に出かけるとき見られましたが、私がいっしょに行くとは言っていません」 「それでとぼけ通そうとしたのか」 「申しわけありません。もしかしたらそのうちに帰って来るかもしれないと毎日密かに様子をうかがっていましたが、いっこうに帰って来た気配がないので、ますます届け出にくくなってしまったのです。もし彼女の失踪に関して変な疑いをかけられたら、身の破滅ですから」 「十分疑いはかかっているよ」 「私はなにもしていません。私自身、広美が急にいなくなって途方に暮れているのです。私は約三十年間まじめに勤めてきました。このまま何事もなく行けば、助役か収入役になれます。どうかこの度《たび》のことはご内聞におねがいします」  平沢は、自分の保身しか考えていなかった。笠原は、小役人の小ずるさと五十男の恋の正体を見たおもいであった。恋人が、アベック旅行先で行方不明になったというのに、ろくに探しもせずに、一人だけ先に帰って来て、ひたすら保身に腐心している。こんな男に自分の青春と、新鮮な肉体を捧《ささ》げていたことを永瀬広美が知ったら。 「あまり虫のいいことを言うもんじゃないよ。あんたの話の裏づけはまだなにも得られていないんだ。日光戦場ケ原となれば、死体を埋める場所は豊富にあるからな」 「私は、そんなことはしておりません。彼女を愛していたんです。旅館の従業員に聞いてください。先月十六日の夜、私といっしょにあの辺一帯を捜索したことをおぼえているはずです」 「愛していたとは恐れ入ったね。旅館の従業員がなんと言おうと、そんな言葉はなんの役にも立たない。あんたがどこかに彼女を隠してから、いかにも誘拐されたように見せかけることだってできるんだからな」 「私じゃないったら! 私はなにもしていない」  平沢は、とうとう泣きだしてしまった。  平沢の取調べはいちおうそこまでにしておいて、彼の申し立てた旅館に問い合わせたところ、たしかにそのような事実があったことを認めた。旅館では警察に届けるように勧めたのだが、本人が騒ぎを大きくしたくないと主張して、もしかしたらべつの車に拾われて帰ってしまったかもしれないと言うので、心ならずもそのままにしておいたということである。 「鈴木君、どうおもう?」  笠原は、相棒の鈴木刑事に質《たず》ねた。度の強い眼鏡をかけ、一見もっさりして見えるが、嗅覚《きゆうかく》抜群の相棒である。 「おれは平沢はシロだとおもうね。もし彼が永瀬広美をどうかしていれば、旅館の従業員を引っ張り出して探させるメリットはなにもない。犯行現場や時間まで特定させてしまう」 「他の場所のべつの時間の犯行を隠すための陽動作戦とは考えられないか」 「それにしても、平沢本人をクローズアップさせてしまう。危険が大きすぎるよ」 「同感だな。すると、平沢の申し立てどおり、だれかに誘拐されたことになる」 「まず流しの仕業だとすれば、性的な目的だね」 「寂しい高原の真ん中でエンコした車の中に、若いきれいな女が一人で乗っているのを見たら、狐《きつね》が化けたとおもうだろう」 「そして、狐でないと知って劣情をもよおした」 「それだったら、劣情を遂げた後、解放してもいいはずだが」 「女が抵抗したので、ついカッとなってということも十分考えられる」  想像はしだいに不吉な方へと傾いていく。 「とすると、これまで消息のない彼女は、望みがないね」 「もう一つ、流しの犯行でないとすれば、初めから彼女を狙《ねら》っていたことになる」 「なんのために?」 「彼女に片想いをしていたやつが追いかけて来たか……」 「いまどきそんな純情なやつがいるかね」 「いないとは言いきれないだろう。あるいは彼女に不都合なことを知られた者がいて、その口を塞《ふさ》ぎに来た」 「不都合なことってなんだろう」 「そんなこと、おれにもわからないよ」 「そうだ、永瀬広美がだれかにとって不都合なことを知っていたとすれば、平沢に漏らしているかもしれないな」 「それはいい所へ目を着けたよ。男と女は寝物語りで口が軽くなる」  不明になった目撃     1  改めて平沢に事情が聴かれた。 「そう言えば、広美はあのマンションに移って来てから妙なことを言ったことがあります」  平沢も自分の疑惑を晴らすために、協力的になっていた。 「どんなことだね」 「広美の部屋のテラスから、隣りのマンションが見えるのですが、その部屋の一つで男が女の首を絞《し》めているのを見たと言うのです」 「それはいつごろのことかね」 「入居して間《ま》もなくでしたから、三月の末ごろだったとおもいます」 「それでどうしたんだ」 「チラリと見えただけで、死角に入ってしまったので、その後どうなったかわからないと言うので、SM趣味の男女がプレイしていたのだろうから、放っておけと言っておきました」 「それは隣りのマンションのどの部屋か知っているかね」 「おぼえています。でもそれ以後いつもカーテンが閉まっていて、中の様子がうかがえません」 「彼女、それ以外になにかあんたの気になるようなことは言ってなかったかね」 「さあ、あとは特におぼえていませんね」  平沢から聴いた話を二人は検討した。 「もし、永瀬広美が窓越しに目撃した光景がSMプレイでなかったとしたら、おもしろいことになるね」 「プレイでなければ本物だというのかね」 「そうだよ。そして犯人は、広美に見られたことを悟ったとしたら……」 「なるほどね。しかし、チラリと見られたくらいで目撃者を消してしまうというのも、気が早い話だな」 「犯人に著しい特徴があるとか、あるいは、彼女が犯人を知っていたとすれば、べつに気が早いこともないだろう」 「もし、彼女が殺人を目撃したとすれば、死体はどこに隠したのだろう」 「ともかくその隣りのマンションというのが、気になる。いちおう調べてみるか」 「そうだな、そのこと以来、カーテンが引かれたままだというのも、ちょっと引っかかるね」  二人の刑事は、平沢に案内させてふたたび広美のマンションへやって来た。管理人に事情を話して彼女の部屋に立ち入らせてもらう。多少の間隔をおいて東側にこちらより一回り大きなマンションが立っている。二つのマンションはV字が開いた形に建てられているために、位置によってそれぞれの窓がたがいに覗き込める。  この地域は中野署と野方署の管轄が複雑に入り組んでいる。 「あの窓ですよ」  窓際に立って、平沢は隣りの二階層ほど下の窓を指さした。厚地のカーテンが引かれているが、窓が開いていれば、ちょうどこちらの部屋が覗き込むに都合のよい俯角《ふかく》の位置にあるので、かなり奥の方まで視野に入るにちがいない。 「広美さんがSMシーンを見たというのは何時ごろのことかね」 「時間ははっきりしませんが、夜遅かったと言ってます」 「窓を開けてプレイをやっていたのだろうか」  三月末といえばまだ暑いという季節でもない。 「なんでもその夜は昼間から馬鹿陽気で、五月ごろの気温だったそうです」 「あんたはそのときここにいたのかね」 「いいえ、後で広美から話を聞いたのです」 「SMごっこのようなことをやっていた男女についてなにか言ってなかったか。たとえば名前とか、よく見かける顔だとか」 「いいえ、べつになんにも」  笠原と鈴木は、とにかく隣りのマンションの件《くだん》の部屋を調べることにした。そのマンションは中野区上高田一−十四−××チェリスナカノである。まず一階の管理人室を訪ねると、その部屋は五階の506号室で、入居者名義は矢切悦子というそうである。 「その女性の職業は何ですか」 「私どもの居住者名簿には、�会社員�となっていますが、夜のお勤めらしいですよ。最近姿を見かけないようですね」 「家賃はどうなっていますか」 「うちは貸マンションじゃありませんよ」 「これはどうも。女の細腕でこれだけのマンションを買ったということは、かなり稼ぎのいい人のようですな」  笠原はそれとなく屋内を見まわした。環境も悪くないし、建物の造りも諸事豪華である。 「一昨年から売り出して、一年でほぼ全室入居しましたが、最多価格帯が二千五百万でしたから、かなりの経済力のある人でないと、入れないでしょう」 「矢切悦子さんという人には、スポンサーはいませんか」 「時々、男の人が出入りしていた様子ですが、プライベートなことは詮索《せんさく》しませんのでね。まあうちクラスのマンションに一人で住んでいる女性には、たいていだれか付いていますね」  管理人の言葉が、矢切悦子の身上に関しておおかたの推測をつけさせる。 「矢切さんの部屋にいっしょに来てくれませんか」 「矢切さんがどうかされたのですか」 「ちょっと気になることがあるのです」 「ここのところお留守のようですが」 「留守にしては長すぎるような気がしませんか。それとも外国へでも長期間出かけるというようなことを聞きましたか」 「いいえ、そのようなことはべつに」  管理人は、にわかに不安をそそられてきたようである。管理人を先頭に立てて、彼らは矢切悦子の部屋の前へ行った。コールブザーを押しても応答はない。室内に人の動く気配もない。 「新聞はとっていないようだな」  ドアのメールドロップはなにもくわえ込んでいない。 「新聞は取らないまでも、ガス、水道や電気料金なんかどうなっているのかな」 「おそらく銀行に自動振替えの口座をつくってあるんだろう」 「もう何か月も人が出入りしていない様だな、見ろよ、ドアに蜘蛛《くも》の巣が張っている」 「管理人さん、マスターキイで開けてくれませんか。どうも気になる」  これで令状云々と言われると、無理|強《じ》いできなくなるが、不安と好奇心に駆られていた管理人は、いとも素直にキイをキイホールに差し込んだ。室内に入ると、澱《よど》んだ饐《す》えたような空気のにおいが長期間の無人を物語っていた。 「しかしまあ、よくこれだけ散らかせたもんだねえ」  刑事たちは、足の踏み場もないような部屋の乱雑さに驚いた。キチンの流しには、汚れた食器が山積しており、流しの隅の生まごみ入れには食物の残渣《ざんさ》やらインスタント食品の包装やらがいっしょくたに詰め込まれて腐敗し、その上を黒い虫が這《は》っている。|屑入れ《トラツシユ》も�満杯�で、中身が床にあふれ出している。内部は2LDKの広さとなっており、テラスに面して八畳の洋室と、六畳の和室となっている。洋室のほうにダブルベッドがおいてある。そのベッドにしても、たったいままで人が寝ていたかのように寝具が乱れている。床には汚れた下着が脱ぎ捨てられ、小物の家具や雑誌が散乱している。 「これだけ散らかしたまま、出かけたとなるとよほどルーズな女性と見えるな」  笠原は、むしろ呆《あき》れ果てたといった表情であった。 「この窓から覗《のぞ》かれたんだな」  鈴木は六畳の和室の窓際へ寄ってカーテンを開いた。そこから右斜め上方に、永瀬広美の部屋のテラスが仰ぎ見られる。 「この部屋でSMプレイをしているうちに興が乗って、八畳のベッドの方へ行くと、永瀬広美の部屋からは見えなくなるね」 「ベッドのある洋間は、テラスに面して少し引っ込んでいるので、外からは覗き込めない」 「ベッドは、まるで�つわものどもが夢の跡�だね」  そこでもたれた情事の激しさを物語るように、シーツには皺《しわ》が寄り、掛け布ははねのけられ、床にずり落ちている。情事のにおいがまだそのままこもっているようであった。 「しかし女が、自分の部屋をこんなに取り散らかしたまま長いこと留守にできるものかね」  笠原はどうも解《げ》せないという体で首を傾けた。 「出かけたとすれば、無理矢理に連れ出されたのかな」  鈴木もあまりに乱雑な部屋の様子から、女の心理として無理があるようにおもったらしい。 「それにしてもひどい臭いだね」 「生まごみが腐っているんだ」  そのとき二人は同時に生まごみの腐臭の中に�異臭�を嗅《か》いだ。生まごみの臭いにまぎれていたが、それとは異質の臭いがどこからか漂ってくる。捜査係の彼らは、その異臭に記憶があった。  一瞬ギョッとなって顔を見合わせた彼らは、次に異臭の源へ溯《さかのぼ》りはじめた。  まさかとはおもいながらも、不吉な予感が脹《ふく》れている。異臭は六畳の和室の押入れの方から来る。 「開《あ》けるぞ」  笠原は、身構えて押入れの襖《ふすま》に手をかけた。鈴木がうなずく、と笠原は襖をさっと引いた。閉じこめられていた異臭の塊《かたま》りが出口を見出して、彼らの鼻面に殺到した。二人はおもわず悲鳴をあげて後じさった。  彼らは鼻を押えて、ひとまず隣室に避難した。異臭の源は押入れの中に白い毛布をかけられてこんもりと盛り上がっている。もはや毛布の下になにがおかれているか、ほぼ正確に推測がついている。 「管理人さん、あなたは外へ出ていてください」  及び腰で覗き込んでいる管理人を追い出した二人は、覚悟を定めて毛布を取り除いた。 「やっぱり」 「かなり日数が経っている」  とりあえず現場を保存した彼らは、本庁と所轄署に第一報を入れた。一見して他為の痕跡《こんせき》が歴然たる死体であるから、鑑識が来るまでは、捜査係刑事といえどもみだりに手をつけられない。  間もなく所轄署と本庁から応援部隊が駆けつけて来た。第一発見者が所轄の捜査員であったので、現場は発見時《オリジナル》のまま保存されている。  死体は、管理人によって、その部屋の主、矢切悦子と確認された。頸部《けいぶ》に腰ひもが二回りしたまま残され、押入れの中に膝をかかえ込んだような形で押し込められていた。  検視の第一所見では、死後経過二、三か月、死因は腰ひもで頸《くび》を絞《し》められての窒息とされた。室内は乱雑をきわめていたが、抵抗した痕跡はなく、被害者と面識のある者の犯行とみられた。死体は、ネグリジェを着ているだけで、下着はなにもつけていない。現場の状況から犯人と情交後、隙《すき》の生じたところを襲われた模様である。頸部の索溝《さくこう》(ひもで絞めた痕《あと》)以外には、体表面に特に創傷は認められない。  室内および周辺が厳密に検索されたが、犯人の遺留品らしきものは発見されなかった。死体の死後変化から推定しても、永瀬広美が矢切悦子の部屋の窓に見たという、女が男に首を絞められていた光景は、SMプレイではなく、そのとき、悦子の殺害が進行していたものであろう。  検視の後、被害者は司法解剖に付すべく搬出《はんしゆつ》された。捜査員は、とりあえず現場観察班と、聞込み班に分れて、捜査を開始したが、犯行日からかなりの日数が経過していることと、マンション住人の相互無関心のために、ほとんど収穫はなかった。 「永瀬広美は、やはり、矢切悦子殺しの犯人の姿を見たために消されたのだろうか」  第一発見者として、現場観察班に残った笠原と鈴木はささやき合った。降って湧《わ》いた殺人事件にまぎれていたが、彼らは本来、永瀬広美の行方を追って来たのである。 「永瀬広美と矢切悦子の部屋の距離はかなりある。犯人の顔まではっきり見えないとおもうよ」 「犯人は、そうはおもわなかったんだろう。あるいは望遠鏡で覗かれたと勘ちがいしたかもしれない」 「同一犯人の仕業となると、永瀬広美も消されている確率が大きいな」 「連続事件の疑いありとして会議に出そう」  二人がささやき合っていると、遠方で消防のサイレンが聞こえた。 「また放火か」 「ここのところちょっと鳴りを静めているとおもったんだが」 「春の赤魔の仕業だろう」 「春の赤魔の仕業にしては、今年は執念深いじゃないか」 「五月の末ごろまで跳梁《ちようりよう》することがあるよ」 「若い女が行方不明になったり殺されたりしているかたわらで、連続放火魔か、いやな世相だね」 「ぼやかない。それだけおれたちが頼りにされている世の中だよ」  三年前の春先ごろから中野区内に連続放火事件が発生した。中野駅周辺の繁華街、および同区内の上高田、新井《あらい》、野方《のがた》地域の住宅街にあいついで原因不明のボヤが起きた。ゴミ集積所のポリバケツ、ダンボール、紙袋、住宅の郵便受け、板塀、物置き、夜間無人になる学校や作業小屋などから深夜にわかに火を発する。いずれも発見が早く、大事に至らないうちに消し止めているが、怪火が発したのは、バー、一杯飲み屋、雑居ビル、小住宅などの密集地帯である。春の南風の吹き荒れる乾燥しきった空気の中では、どんな大火災になるかわからない。  火を消した後には、放火をした跡が歴然と見られた。この連続放火事件が初めて発生したのは、三年前の三月七日の深夜で、中野駅近くのレストランの裏口板塀が急に燃え上がった。何者かが板塀にダンボールを積み重ねて火を放《つ》けていったものであった。  これを皮切りに、おおむね週末の午前一時ごろから未明にかけて多い夜はつづけて三、四件の放火があいついだ。放火対象は、雑居ビルの階段踊り場、塀、ドア等に貼《は》られたポスター、掲示用紙、ゴミ集積所の可燃物、作業場の木屑《くず》、紙屑などで、短時間の内に連続して近接地域を狙う。現場を綿密に検索しても、マッチの燃えかすが発見されないところから、ライターを使う同一犯人の犯行と見られていた。  犯行は、例年三月初旬から五月中〜下旬にかけて発生するために、「春の赤魔」と呼ばれて、この地域を管轄する中野、野方両警察署、事件発生地域毎の自治会や町内会が合同して対策を協議するとともに、機動捜査隊の応援を得て、厳重な警戒体制をしいていた。  地域によっては、自警団を結成して、警戒している所もある。これら官民一体の捜査警戒網をくぐって、春の赤魔は、今夜も現われたらしい。サイレンがこちらの方角へ近づいて来る。必死の警戒の裏をかいて、毎週末、人もなげな犯行を繰り返した春の赤魔は、六月に入るとピタリと鳴りを静めてしまう。  犯人がなぜ三月上旬から五月下旬にかけてのみ行動するのか、不明であった。 「近いようだな」 「五月も残り少ない。今月中に捕えないと、また来年に持ち越すぞ」 「来年まで持ち越しとなると、安心して眠れないね」二人は、うんざりした目を見合わせた。  翌日解剖の結果が出た。  ㈰死因、腰ひもを首に二周して頸部を圧平しての窒息。  ㈪自他殺の別、他殺。  ㈫死後経過時間、五十〜七十日。  ㈬膣《ちつ》内に腐敗した精液の貯留を認める、血液型の判定不能。  ㈭死体の血液型、B型。  以上であり、検視の所見をうらづけたに留まった。ここに殺人事件と断定されて、中野署に捜査本部が開設されて本格的な捜査がはじめられたのである。     2  聞き込みと並行して矢切悦子の身上調査が進められた。登記簿を調べたところ、彼女が住んでいるチェリスナカノ506号室の所有名義人は、港区|芝西久保琴平町《しばにしくぼことひらちよう》にある三栄物商の社員|大江伸也《おおえしんや》で、現在ニューヨーク支社詰めをしている。三栄物商に照会したところ、大江は一昨年初めにチェリスナカノの同室を購入したが、間もなくニューヨークに転勤となったために、矢切悦子に留守の期間同室を貸した模様である。なお大江がどのようなコネクションから矢切に部屋を貸したか知らない、したがって矢切の身上に関してもいっさい知らないという答えであった。  管理人は、矢切悦子の入居後に来たもので、入居者名簿から単純に彼女がその部屋の持ち主と判断したのである。  念のために大江のニューヨーク連絡先を聞いたところ、本年二月、仕事上の不手際があって引責退社した後、消息が不明になっているという。 「日本に帰って来たのでしょうか」 「さあ、帰国していれば、自分のマンションへ帰っているんじゃないんですか」  三栄物商では罷《や》めた人間には用がないと言わんばかりの木で鼻をくくったような返答である。 「大江氏が罷めた理由の仕事上の不手際とはどんなことなのですか」 「今後当社と彼はいっさい関係ないと業界に触れ書きを回されるようなことです」  三栄物商では、大江について多くを語りたくない様子であった。  矢切悦子は、区役所に住民登録もしていない。いちおう会社員ということになっているが、勤め先は不明であるし、どこにも勤めていた模様はない。その名前がはたして本名であるかどうかもわからない。  以上のデータを踏まえて、当面の捜査方針が次のように打ち出された。  一、被害者の異性関係、  二、被害者の職業関係、  三、被害者の身上、  四、殺害動機、  五、現場付近の目撃者、  六、現場付近の御用聞き、集金人、セールスマン、新聞、牛乳、郵便物その他の定期配達人等の出入り関係者、  七、現場付近の暴力団員、素行不良者、前歴者、不審者(定職のない者、トルコ嬢、ホステス等との同棲者、年齢不相応な派手な生活をしている者、アパートの中で孤立している者等)  などの捜査。  および右(四)に関して、永瀬広美の行方不明事件との関連の有無の捜査である。  永瀬広美の行方を探した�副産物�として、矢切悦子の死体を発見した笠原と鈴木にとっては、広美の行方不明の捜査がほんのつけ足しのように加えられたことが不満であったが、本部開設の目的が矢切悦子殺しの解明にあるのであるから止むを得ないことであった。     3 「あなた、大変よ」  その朝、峯岡尚子は顔色を変えてまだ寝床の中にいる夫を揺りおこした。 「もう起きる時間かい」  峯岡正吾は渋い目をこすった。 「矢切の細君が殺されたのよ」 「矢切の細君?」  寝起きの意識がまだはっきりしない。 「矢切悦子よ、あなたとスワップをした」 「なんだって!?」  峯岡は半身を床の上に起した。 「これを読んで。写真も出てるわよ」  峯岡は、妻の手から新聞を引ったくった。「中野区のマンションで女性の死体発見、被害者は矢切悦子、中野区上高田一−十四−××チェリスナカノ、そうだ、あの女だ」  新聞の記事に目を走らせた峯岡から眠けが完全に吹っ飛んでいる。 「殺されたのは五十日から七十日前と書いてある。警察は、被害者の異性関係を洗っている——か」 「あなた、矢切のことが一言も書いてないけど、あの男はどうしたのかしら」 「本当だ。夫は疑惑の対象にならないのかな」 「新聞によると、矢切悦子はマンションに一人で住んでいたように書いてあるわよ。それに五十〜七十日も以前に殺されたのなら、その間矢切はどこへ行ってしまったのかしら」 「妻が殺されて、夫が行方不明になっていたら、異性関係を洗う前に、夫が真っ先に疑がわれるはずだ」 「それなのに矢切の名前が全然出ないというのはおかしいわ」 「あの二人、本当は夫婦じゃなかったのではないのかな」 「夫婦を偽装して私たちにスワップを申し込んできたというの?」 「可能性はあるだろう。婚姻届けを見せてもらったわけじゃないんだから」 「それじゃあ矢切が犯人よ。五十〜七十日前に殺されたとすれば、あなたが矢切に三百万渡した前後でしょう。その金の分配をめぐって争いとなり、矢切が悦子を殺しちゃったのよ」 「あの男ならやりかねないな」  峯岡は、スワップに失敗したとき豹変《ひようへん》した矢切の凶相をおもいだした。 「警察へ届け出たほうがいいわよ」 「届け出るってなにを?」 「矢切のことをよ。矢切孝久という名前もきっと偽名にちがいないわ」 「そんなことをしたら、ぼくたちがスワップしたことがバレちまうじゃないか。おれたちには関係ないよ。どうせろくなことをしてなかった人間にちがいない。かかり合わないほうがいい」 「かかり合わずにすませられるかしらね」  妻の言葉がなにかを含んでいるように聞こえたので、 「それはどういう意味だ」 「あなたも矢切悦子と関係のあった�異性�に入るのよ」 「お、おれはなにも……」 「関係ないとは言えないわ。ましてあなたは�矢切夫婦�に恐喝されて三百万円取られているんだから、あの二人に怨《うら》みを含んでいたとおもわれても仕方がないわ。事実、私たち虎の子を取られてあの二人を怨んでいるわよ。殺されて可哀想《かわいそう》だとは決しておもわないわ。ということは警察に言わせれば、殺す動機があるということにならないかしらね」 「そんな馬鹿な! いくら口惜《くや》しくても、そんなことで人を殺すもんか」 「でも警察はそうはおもわないわよ、きっと。私たちスワップの実施に先立って、何度か文通しているでしょう。もしあの手紙を見つけられれば、警察は真っ先に私たちの所へ来るわよ」 「まだ来ないじゃないか」 「それは手紙をまだ見つけないからよ。あるいは矢切孝久が恐喝の証拠物件を残さないように始末してしまったのかもしれないわ」 「きみは届け出たほうがいいとおもうか」 「警察に目をつけられる前に届け出たほうがいいとおもうわ。それにもし矢切孝久の存在が現われれば、彼の口からどうせ私たちのことも出るわよ」 「よしわかった。これから早速行こう」  都下M市の住人峯岡正吾夫婦から、被害者には「矢切孝久」という�夫�がいるはずだという情報を提供されて、捜査本部は色めき立った。これまで捜査線上にそんな�夫�は浮かんでいないのである。  本部は、峯岡夫婦から矢切孝久の人相、身体、特徴等について詳細に聞き出した。 「するとあなた方は、矢切孝久がヤクザのようだったとおっしゃるのですな」 「あれは尋常の世界の人間じゃありませんね、妻が見たのですが、背中に凄《すご》い刀傷のような痕があったそうです」 「ほう、背中に刀傷? 背中のどの辺ですかな」  彼らに応対した笠原という刑事は、峯岡尚子に向かい直ってその傷の部位や形状を詳しく聞いた。  峯岡夫婦から情報を提供された捜査本部では、矢切孝久がもし暴力団員であれば、前歴《マエ》があるはずだとにらんだ。前歴があれば警察庁の犯罪|情報管理《コンピユーター》システムに記録《フアイル》されている。  捜査本部は、早速コンピューターに犯歴照会した。しかし、回答は「該当者なし」であった。  矢切孝久には前科がない。たとえその名前が偽りであっても、峯岡夫婦が提供してくれた資料があれば、なにかが引っかかるはずである。まったく該当《ヒツト》しないということは、矢切はコンピューターにとらえられていないということである。  同時に、夫婦交際の機関誌「ホーム・フレンドリー」もあたられた。峯岡の証言によって�矢切夫婦�がスワップのベテランらしいことがわかったので、同誌に彼らのなにかの資料が残っている可能性があった。  だが、せっかくの着眼も徒労に終った。彼らは同誌上にメッセージも掲載したことがなかった。同誌を購読していて、誌上のメッセージに対して、申込みの手紙を出していただけなのであろう。結局、「ホーム・フレンドリー」には、峯岡夫婦が提供してくれた資料以上のものはなかった。  こうなると、矢切悦子の身辺に矢切孝久を見た者は、峯岡夫婦だけということになる。  前科もなく、名前も虚偽となると、矢切孝久を追う手がかりは、まったくない。矢切悦子の身許も確認されていない。捜査は早くも行きづまりの気配を見せた。 「単なる体のつながりだけの男女が、夫婦に化けて、スワップをしていたとは、ずうずうしい話だな」 「しかし、そういう相手がいるなら、なにもスワップなんかしなくともいいとおもうんだが」 「いや、そうとはかぎるまい。スワップは、本来マンネリになった夫婦生活に活を入れるために行なうというが、マンネリ情事を新鮮な情事と取りかえっこするつもりなら、なんの抵抗もないだろう」 「情事の取りかえっこねえ。マンネリになるほど情事を重ねたんなら、男の痕跡が残っていてもいいのにな」 「荷物になってきたので、いずれ女を消すつもりで自分の痕跡を時間をかけて消していたんだろう」  捜査員たちから意見が出たが、それは矢切孝久の行方に少しもつながっていかない。  囮《おとり》にされた情事     1  永瀬雅美は、新聞で、矢切孝久という容疑者が浮かんだことを知った。情報提供者の名前は伏せられていたが、タレコミがあった模様である。  矢切孝久は、被害者の�夫�というふれ込みであったが、被害者は住民登録をしていない幽霊都民なので、戸籍上どうなっているかわからない。矢切孝久の行方はわからないという。  雅美は、そのとき都会という�人間の海�のもつ恐ろしさを実感した。夫婦として生活していた男女の中の女が殺され、男の行方は杳《よう》としてわからない。一方、被害者も住民登録をしていないので、身上が確かめられない。  人間が、人間の海の中に埋没して、一人ぐらい殺されようと消えようと、海で泡が消えたようなものだ。�矢切夫婦�が本名かどうかも定かでないそうである。こんなことが実際にあるものだろうか。  だが、妹の広美の行方を追っていくうちに遭遇した殺人事件のほうに警察は熱くなって、広美の捜索が忘れられてしまったようである。笠原という所轄の刑事は、そんなことはない、矢切悦子殺しの犯人の追及が結局、広美の捜索につながると言ってくれるのだが、どうも迂遠《うえん》な気がしてならない。  平沢の話によると、広美が矢切悦子の殺害シーンを目撃したために、犯人がその口を塞いだということになるらしいのだが、それならばどうして広美の体を隠す必要があるのか?  悦子の死体はマンションに置き去りにしておきながら、目撃者の広美だけ隠してしまったというのもおかしい。  それとも人里離れた所(日光?)で襲ったものだから、結果として隠したような形になったのであろうか。いずれの場合にしても、雅美はまだ平沢の嫌疑を解くべきではないとおもった。  平沢は、矢切悦子の死体が転がり出て来たものだから、自分の疑いはすっかり晴れたとおもったらしく、何事もなかったかのように勤めに出ている。広美がいなくなって肩の荷を下したような清々した顔つきをしていた。 「あなたは、それですんだつもりでしょうけれど、そうはいかなくってよ」  雅美は平沢に言った。 「それはどういう意味だね」  平沢の面におびえの色が走った。 「広美はまだ行方不明をつづけているのよ。あなたには広美を探し出す義務があるわ」 「そ、そんな!」 「なにがそんなよ。あなたが旅行に連れ出しておいて、当然のことじゃないの」 「しかし、もうぼくには探しようがないよ」 「真夜中の山の高原で姿が消えてしまったのに警察にも届けないで、探しようがないもないもんだわ」 「それについては申しわけなかったとおもっている。しかしあの場合は……」 「言いわけ無用よ。とにかく妹が現われなければ、あなたの奥さんにすべてを話すわ。もちろん勤め先の方にも公けにするわよ」 「永瀬さん、それだけはかんべんしてくれ。本当に私はなにもしていないんだよ。それは、妻子のある身で広美さんとそういう仲になったのは悪いとおもっている。しかし、これはおたがいに納得ずくのことだったんだ。広美さんだって、おとなだ。自分の意思で行動していた。警察もそれを認めて、要するに男女間のプライベートな問題として理解してくれたんだよ」 「それだったら、奥さんや勤め先に表沙汰《おもてざた》にしても困ることなんかないでしょ」 「本当にどうしたら許してもらえるんだね、多少の慰謝料なら払ってもいいが」 「馬鹿にしないでよ!」  雅美は、もう少しのところで平沢の頬《ほお》を張りかけるところであった。それほどの金をもっているわけでもないのに、居心地のよいポストと家庭を失いたくないという保身が、小商人のような、ソロバンを弾かせていた。 「お金が欲しくってこんなことを言ってるんじゃないわよ」 「それじゃあ、いったいどうしたらいいんだね?」  平沢は、泣きそうな顔になった。 「そうだわね。私といっしょに広美を探してちょうだい」 「いっしょに広美を?」 「そうよ。広美はあなたとの旅行先で消えてしまったのだから、あなたが探し出す責任があるのよ」 「そんなことを言われても、ぼくは刑事や探偵じゃないんだから」 「私に協力してくれればいいわ」 「協力ってどんな風に?」 「囮《おとり》になってもらいたいのよ」 「囮に?」 「いまふっと考えついたことなんだけれど、広美は犯行シーンを見たと言ったんでしょ」 「だから犯人から狙《ねら》われたんだろう」  平沢は、なにをいまさらという顔をした。 「ということは、犯人が広美に見られたのを悟っていたことになるわね」 「当然そういうことになるね」 「でも、矢切悦子の部屋と広美の部屋の間はかなり距離があるし、向う側から見れば広美のマンションの窓がたくさん並んでいる中で、どうして広美だけに覗かれていたことがわかったのかしら」 「それは、広美の姿が窓にうつったからだろう」 「それなら、広美以外にも、彼女の部屋に居合わせた人間に見られたかもしれないじゃないの。異常な光景を見つけた広美が窓際に引っ張って来て……たとえそのだれかは窓際で犯人から姿を見られなくとも、犯人の姿を見た可能性はあるわよ」 「ところが、そのとき広美しか居なかったんだよ」 「だから居たように見せかければいいじゃないの」 「居たように?」 「あなたが居たように見せかけるのよ。犯人にしてみれば広美にだけ目撃されたとおもい込んでいるかもしれないけれど、自信があるわけじゃないわ。ところがそこにもう一人目撃者が居たということを知ればなにか行動をおこすかもしれなくってよ」 「その囮にぼくになれと言うのか」 「そうよ。犯人はすでに一人殺しているわ。自衛のためにもう一人ぐらい殺すかもしれない」 「はは、やっぱり女の浅知恵だね。犯人は、ぼくのことを知らないんだよ。それにどこにいるかもわからない犯人に、どうやってそんなことを知らせるつもりなんだ」 「広告をするのよ」 「広告!?」  平沢はギョッとした表情になった。 「あなたが、あのとき私も目撃していたと広告を出して犯人に呼びかけるのよ。犯人は事件の捜査経過に興味をもっているわ。事件の報道の最も熱心な読者は犯人だわよ。そこへ自分も目撃者だと広告すれば、必ず犯人の目に留まるわ」 「ば、馬鹿な! そんなことをすれば、犯人の目に留まる前に警察からマークされてしまう。それでなくともぼくはにらまれているんだ」 「警察には事後承諾を取ればいいわ。どうこの囮作戦は」 「冗談じゃないよ。もしその囮作戦が的中すれば、ぼくが犯人に狙われるじゃないか」 「そのための囮でしょ」 「ぼくはそんな役目は真っ平だね」 「そう、それだったら、すべてを表沙汰にするまでだわ」 「きみは、脅迫《きようはく》するつもりか」 「人聞きの悪いこと言わないでよ。リクエストしているだけよ。あなたはそのリクエストに答える責任があるだけよ」 「そんな囮作戦を警察が許すはずはない」 「やってしまえばこちらのものよ」     2  永瀬雅美の提案した囮《おとり》作戦に対して警察側はなんの意見もしめさなかった。やりたければやってもよかろうという傍観の態度をとった。強《し》いて反対もしないが、期待もしないという態度である。 「まあ、我々としては、そんな囮に犯人が引っかかるとはおもいませんがね。犯人が見ればすぐに囮だと見破るでしょう。だいたい警察側の了解もなくそんな広告を出せるはずがありませんからな」  笠原は眼鏡の奥ではなはだ懐疑的な目をした。 「必ずしもそうとはかぎらないでしょ。広告主は警察に無断で広告することもできます。平沢の名前は、まだ表沙汰になっていないのですから、犯人にはまったく正体がわかりません。犯人にしてみれば、突然、第二の目撃者からの呼びかけが無気味この上ないでしょう」 「あなたがそうおっしゃるなら、強いてとめませんが、我々としては、囮になる平沢に目を配る余裕はありませんよ」 「私たち二人でやりますわ」 「まあ、あまり冒険はやらないでください。妹さんの行方は我々も探しておるのですから」  笠原は、仕方がないというようにうなずいた。  警察側の反対をねがっていた平沢は、その消極的了解が得られたものだから、いまさらいやだとは言えなくなった。断われば、広美との情事および彼女の行方不明に関して自分に据えられた疑いを公けにされてしまう。平沢はそのとき、自分の首根をがっちり押えた永瀬雅美という娘のしたたかさを実感したのである。  ——私もあのときチェリスナカノ506を見ていた。心当り乞連絡——という広告が大手各紙に載《の》った。広告主として平沢の名前と勤め先の電話番号を出したので、もし犯人が引っかかれば、なにかの反応を見せるはずである。 「犯人は、どう出て来るだろうか」  平沢はおびえていた。雅美に押されて広告を出したものの、激しく後悔しているのがわかる。 「大丈夫よ、まさか殺しはしないわよ」 「一人すでに殺しているから、なにを仕掛けてくるかわからないと言ったじゃないか」  どうせ殺されるくらいなら、広美との仲を表沙汰にされたほうがよかったという後悔がうかがえる。 「いきなりそんなことはしないわよ。まず犯人としては、あなたがどの程度見ているか確かめにかかるとおもうわよ。それからこちらの意図を探ろうとするでしょうね」 「ぼくには意図なんかなにもないよ」 「あなたは私の案山子《かかし》よ。でも犯人にはそんなことわからないわ。警察の罠《わな》なのか、それともあなたが犯人と直接取引きしたがっているのか。どちらにしても犯人にとってあなたは無気味な存在になるわね。当分、一人で寂しい場所へ行かないことね。戸じまりにも注意したほうがよろしいわ」 「あまりおどかさないでくれ」 「もし犯人らしい者がなにか言ってきたら、すぐ私に連絡してちょうだい。いいこと、今日から私たち共同戦線を張ってるのよ」 「わかった。すぐに連絡する。きみのほうも留守にするときは連絡先がわかるようにしておいてくれ」  平沢は、いまや完全に雅美の傀儡《かいらい》になっていた。ここまできてしまった以上、雅美に協力せざるを得ない。いや、雅美がいないことには心細くてならない。雅美から脅迫されて仕方なくはじめたことだが、いまは彼女がただ一人の味方のような気がした。     3 「あなた、変な広告が出てるわよ」  土曜日の朝、のんびり髭《ひげ》を当たっていた夫に峯岡尚子は言った。土曜日は「自宅研究日」に当てられているので、夫婦水入らずでゆっくりできる。これが日曜日だと、子供たちがいるので、こうはいかない。 「なんだい? 変な広告って?」 「ここを読んでよ、——私もあのときチェリスナカノ506を見ていた——ね、おかしいでしょう」 「うん、まあ変な広告文だけど、これがどうかしたのかい」  夫は剃《そ》りたての顔を新聞に寄せたが、まだピンとこないらしい。 「チェリスナカノ506に記憶はない?」 「そう言えば聞いたような気がするなあ」  夫は記憶をまさぐるような表情をした。 「矢切悦子の住所じゃないの」 「な、なんだって!」  夫は愕然《がくぜん》とした。それは忘れられない名前である。 「ちょっと確かめてみるわ」  尚子は立ち上がってメモを開いた。 �矢切夫婦�から来た手紙は、証拠資料として警察に提供してしまったので、住所だけがメモしてある。 「あなた、やっぱりまちがいないわよ。中野区上高田−十四−××チェリスナカノ506号室」 「この広告主は、矢切の住居になにを見たというんだろう」 「|あのとき《ヽヽヽヽ》というのが気になるわね」  夫婦はたがいの目の奥を見合った。 「きみは、殺人を暗示していると言うのか」 「チェリスナカノ506では殺人が行なわれたのよ。そこでなにかを見たと言えば、殺人が最大のイベントだとおもうわ」 「それじゃあこの広告は犯人に対する呼びかけじゃないか」 「その可能性は大きいわね」 「なんだって犯人に呼びかけるんだろう。殺人を見ていたんなら、さっさと警察に言えばいいじゃないか」 「警察に言ったんじゃあ、お金にならないわよ」 「金だって?」 「この平沢という人、お金が欲しいんじゃないかしら。だから独自に犯人と接触して取引きしようとしているような気がするわ」 「犯人を知っているんなら広告なんか出す必要がないだろう」 「顔を見た程度で、身許まではわからないのよ。犯人にしてみれば、顔を見られただけでもまずいから、取引きに応ずるかもしれないわ」 「この広告を警察に見られたら、取引きできないよ」 「そうだわ、もう一つ忘れていたわ。これは警察の罠ということもあるわね。警察が広告スポンサーで、犯人を誘い出しているのよ」 「警察がそんな罠を張るものかね」 「まあ警察らしからぬ発想だけど、可能性の一つには数えられるわよ」 「警察に確かめてみようか」 「警察がそんなことに答えるはずがないでしょ」 「ぼくにも一つ気になることが出てきたよ」 「なあに?」 「私|も《ヽ》あのとき見たと書いてあるだろう。|も《ヽ》というからには、この平沢という人以外にも見ていた人間がいるということじゃないか」 「そうね、でもそんなに深刻に考えることないんじゃないかしら。目撃者がそんなに大勢いたら、犯人はとっくに捕まっているわよ」 「それもそうだな。そうだ、尚子」  峯岡は、ふとなにかおもいついたように声の調子を上げた。 「どうしたの?」 「おまえ、矢切が憎くないか」 「憎くないはずないでしょ。私たちの虎の子を根こそぎ奪っていってしまったんだから」 「もし矢切が犯人でこの広告に反応したら、広告主に接触していくかもしれないね」 「そうね」 「平沢という人がどんな人物で、どんな意図からこんな広告を出したのか、はっきりしないが、平沢をマークしていれば、矢切が現われるかもしれないぞ」 「矢切が現われたところで、仕方がないでしょ」 「どうして仕方がないなんて言えるんだね、矢切をとっつかまえれば、三百万円取り返せるかもしれない」 「あなた!」 「おれは、あの金をあきらめきれない。三百万|七所《ななとこ》借りして集めたものだから、首がまわらなくなってしまった。ここのところ休みでも外へ出ることがない。おまえにも子供たちにも可哀想だ。この耐乏生活をあと十年はつづけなければならないんだぜ」 「あなた、矢切に近づくのは危険よ。あいつはヤクザの上に人殺しよ。なにをするかわからないわ。私たち貧乏には馴れているわよ。借りたお金返すのに十年なんてかからないわ。私たちにとってはこの幸せが大切なのよ。危険を冒《おか》してはいけないわ」 「危険なんか冒さないよ。ただ矢切を捕えてやりたいだけだ」 「それが危険なのよ。矢切のことは警察にまかせておけばいいのよ。私たちの出る幕ではないわ」 「おれは口惜《くや》しいんだよ。あんなやつに騙《だま》されたのが」 「そりゃあ私だって口惜しいわよ」 「どうだろう、平沢の正体だけでも探ってみたら」 「おやめなさいったら」 「電話をかけるだけだったら、べつに危険はないだろう」 「あなたって人は!」  と尚子は言いながらも、彼女自身、広告主の正体に強い興味を寄せていた。  ——もしもし平沢さんですか—— 「そうです」  ——××日付の広告を出した人はあなたですか—— 「そうですが、あなたは」  ——名前はちょっと申し上げられないのですが、あなたがあのときチェリスナカノ506に見ていたものとは、なんのことですか—— 「あなたはなぜそんなことを聞くのだ」  ——容疑者の矢切孝久という男についてちょっと心当たりがあるものですから—— 「矢切に心当たり!? あなたはだれなんだ?」  ——広告を出した意図をおしえてくれませんか—— 「そうかわかったぞ、あんたが矢切なんだな。あんたが隣りのマンションで矢切悦子を殺した」  ——私は犯人なんかじゃありませんよ。ただ矢切孝久についてちょっと心当たりがあるので、あなたの広告の意図を聞きたいだけだ—— 「名前も言わない相手に意図を言えない」  ——あなたは、金が欲しいのか—— 「やっぱりあんたは犯人で取引きを申し出て来たんだな」  ——取引き? あなたは犯人の顔を見ていたんですね—— 「おれは、本当は知らないんだ、頼む、おれを殺さないでくれ。おれには妻子がいる」  ——なにか勘ちがいしているようですね。あなたが知らなければ、なんだってあんな広告を出したんです—— 「おれは出したくなかったんだ。永瀬雅美に脅《おど》されて仕方なくやったことだ。おれは関係ない。本当だ、信じてくれ」  ——まあ、ちょっと落ち着いてください。そのナガセマサミとはだれですか。そしてあなたとは、どういう関係ですか—— 「広美の姉だよ。もういいだろう。いいね、おれは絶対に関係ないんだよ。狙うんなら雅美をやってくれ。迷惑なんだ」  ——ヒロミってだれですか——  電話はここでどちらが切ったともなく切れた。発信者のコイン不足か、交換手の手ちがいか、平沢が切ったのか、いずれともわからないが、再《セカンド》コールはなかった。 「平沢はなにかにおびえていたようだったわね」  峯岡といっしょに受話器に耳を寄せていた尚子が言った。 「ナガセマサミという女に脅《おど》されて仕方なく広告したと言っていた」 「ヒロミという女の姉だとも言っていたわね」 「どうやらナガセマサミという女が黒幕で、平沢を操《あやつ》って犯人をおびき出そうとしていたようだ」 「だから平沢はあなたを犯人と早合点して、おびえたのよ」 「おびえるくらいなら、広告を出さなければよいのに」 「ナガセマサミにきっと弱みを握られているのよ」 「ナガセマサミとは何者だろう」 「平沢は、ちょっと気になることを言ったわね」 「なにを?」 「隣りのマンションで矢切悦子を殺したと」 「そんなことを言ってたね」 「ということは、平沢が矢切のマンションの隣りに住んでいたことになるわ」 「そうか、隣りのマンションの住人だったら、矢切悦子の部屋の中を覗き込めたかもしれない」 「チェリスナカノに隣接しているマンションに平沢やナガセマサミ、ヒロミという居住者を探せば、スポンサーの正体がわかるわ」 「せっかく犯人らしい人物から電話がかかってきたというのに、相手の身許はまったくわかっていないじゃないの」  平沢から電話のいきさつを聞いた雅美は怒った。彼は隠していたが、おびえたあまり、雅美の名前を口走ったことを彼女が知ったら、もっと怒ったにちがいない。 「なにか相手の手がかりになるようなことは聞き出さなかったの?」 「それがすっかり慌ててしまったものだから」 「男のくせにだらしないのね。それでどんなことを話したの?」 「広告の意図はなんだと言うから、その前に名乗れと言ってやったんだが」 「名乗るはずがないわよね。それで矢切孝久のようだった?」 「そんなことわからないよ。ただ矢切について心当たりがあると言ってた」 「本人なら、心当たりがあるのはあたりまえね。他にはなにか言ってなかった」 「あなたのことを聞いていたよ」 「私のことを?」 「永瀬雅美とは何者だって」 「どうして私の名前を知っているのよ」  慌てて口を塞いだが遅かった。雅美の顔色が変った。 「あなた、私の名前を漏らしたのね」 「す、すまない。つい口が滑《すべ》ってしまって」 「ちょっと待って」  どんな大嵐になるかと首をすくめていた平沢の前で、雅美の目が宙を模索《もさく》して、 「そこであなたはなんて答えたの?」 「それがそのう……」 「はっきり言ってちょうだい」 「広美の姉と言った」 「そうしたら?」 「広美ってだれだとさらに聞いた」 「たしかに広美ってだれだと言ったのね」 「たしかに言ったよ」 「おかしいわね」 「…………?」 「犯人なら、広美のこと知ってるはずでしょ」 「あ、そうか! しかしとぼけたのかもしれない」 「とぼけていたように聞こえた?」 「べつにそんな風には聞こえなかったけど」 「犯人なら、広美に犯行シーンを見られたと悟って彼女の身許を探り、日光まで追いかけて行ってどこかに隠してしまったのだから、当然知っていたはずだわ。私の名前を言ったとき、永瀬という姓ですでに心当たりがついてもいいはずよ。相手は永瀬雅美とは何者だって聞いたんでしょ」 「まったくあなたのことを知らない様子だった」 「その電話の主は、犯人じゃないみたい」 「犯人じゃないっていうと、いったいだれが」 「まだよくわからないけど、犯人以外に矢切悦子が殺された事件に興味をもっている人間がいるみたいよ」 「何者だ、そいつは」 「そんなこと私にもわからないわよ。でもあなたは私の名前を相手に漏らしたんでしょ」 「すまない、ついうっかりして」 「もしかすると、相手は私に接触してくるかもしれないわ」 「きみに? でもどうやって? ぼくは名前だけできみの住所なんか言ってないよ」 「馬鹿ねえ。広告になんと出したの。——私もあのとき見ていた——チェリスナカノ506号室を覗き込めるのは、隣りの広美のマンションでしょ。望遠鏡を使えば、ひょっとして遠方から見えるかもしれないけれど、最も手近で絶好の覗き場所は、広美のマンションよ。そこを調べられれば、直ちに永瀬広美という居住者がいたことがわかるわ。広美をたぐって私を探り当てるのに、そんなに手間はかからないわよ」 「それできみどうするつもりだね」 「どうするつもりって、相手が近づいて来たら、その正体と意図を確かめるわよ。私たちの広告に興味をもったということは、あの事件に関係のある証拠ですもの」  アンコール・スワップ     1  ——きみ、あの広告を見たか。  ——見ました。  ——どうおもう。  ——さあ。  ——さあじゃないよ。  ——目撃者がいたとなるとコトだぞ。  ——そんなに深刻にうけ取ることはないんじゃないですか。広告を出したということは、こちらの所在を知らない証拠ですから。あるいはまったくべつのものを見たのかもしれない。  ——チェリスナカノ506号室と言ってるんだ。べつのものではあり得ない。  ——じゃあどうしようと言うんです?  ——広告主の正体と意図を確かめたい。  ——それは危険です。罠《わな》かもしれない。  ——警察の罠だと言うのかね。  ——その危険性は大いにあるでしょう。  ——もし罠でなければ、気味が悪いじゃないか。  ——私は放っておくべきだとおもいますね。罠か、罠でないか、どちらにしても我々に対する手がかりがないものだから、こんな広告を出してこちらの出方をうかがっているのです。引っかかってはいけない。  ——広告主の身許だけでも探ってくれないか。電話をかけるだけなら、危険はないだろう。  ——電話をかけるのは、私でしょう?  ——きみの危険は、私の危険だ。  ——仕方がない。少しつっついてみますか。     2  チェリスナカノに隣接するマンションを当った峯岡夫婦は、その管理人から永瀬広美という入居者がいたことを聞き出した。四月半ばから旅行に出かけたまま、消息を絶っているということである。 「現在、そのお部屋はどうなっておりますか」  と質ねると、 「永瀬さんがいつ帰って来るかわからないので、お姉さんが代りに住んで待っています」 「お姉さん、その人、マサミさんという人じゃありませんか」 「そうです。よくご存じですね」  峯岡夫婦は、顔を見合わせてうなずくと、 「その永瀬さん姉妹の近くに平沢さんという男の人はいないでしょうか」 「名前までは確かめていませんが、妹さんのスポンサーに中年の男の人がいましたよ。私よりも、永瀬さんに直接聞かれたほうがよろしいでしょう」  管理人がかたわらのインターフォンを取り上げたので、 「永瀬さんはいまここにいるのですか」 「今日はまだ出かける姿を見ていないから、たぶんおられるとおもいます」 「ちょっちょっと待ってください」  峯岡夫婦は慌てて管理人を制止した。 「実はね、永瀬さんのお姉さんから頼まれていたんです。近いうちに、永瀬さんや平沢という人についていろいろ聞込みに来る人がいるかもしれないから、来たら連絡してくれって」  と管理人はニヤリと笑って電話口に応答した気配の相手に、 「おっしゃったとおり、来られましたよ。お名前はまだ聞いてません。こちらにお待たせしておきますから、すぐ下りて来てください」  と告げた。峯岡夫婦は逃げるに逃げられなくなった。どうやら永瀬広美の姉と管理人の間に、峯岡夫婦が来るのを見越して打ち合わせができていた様子である。管理人は二人を逃がさないように、それとなく構えている。  峯岡夫婦は観念した。この機会を利用して平沢や永瀬姉妹の正体を確かめてみよう。二人は目顔で了解し合った。  間もなく広美の姉が下りて来た。彼らは初めて顔を合わせた。たがいに身構えていたが第一印象はどちらも悪くなかった。たがいの肚《はら》の内がわからないので、探り合いの視線を交したが、どちらも常識の世界の住人であることを直感した。しかし、まだ警戒の鎧《よろい》は脱がない。 「永瀬雅美です」  雅美に先に名乗られて、峯岡夫婦も仕方なく名乗った。 「あなた方が、平沢さんに広告についてお電話した方ですか」  雅美は、峯岡に一直線に視線を当てて聞いた。峯岡が止むを得ずうなずいた。雅美はすでにこのカップルが犯人ではないと直感していた。しかしどこかで事件とつながっている。 「どうして電話をしたのですか」 「その前になぜあの広告を出したのかお聞かせねがえませんか。平沢さんはあなたに脅《おど》されて仕方なく広告を出したようなことを言っていたが」 「そんなことを言っていたのですか。あなた方は矢切孝久に心当たりがあるそうですね」 「実は私たちは彼の行方を探しているのです」 「その理由をうかがう前に、広告の意図をお話ししなければならないようですわね」  雅美は、二人を悪い人間ではないと判断した。どちらかが先に話さなければ、堂々めぐりをするだけである。 「そういうご事情があったのですか」  雅美の話を聞いて、峯岡は初めて納得のいった表情をした。今度は峯岡が話す番になった。 「それでは私たちおたがいに矢切孝久の被害者ですのね」 「そういうことになりますね」  彼らはようやく同じ岸にいることを悟った。しかし、彼岸にいる矢切孝久の行方は依然としてわからない。 「まあ私たちの三百万円は身から出た錆《さび》のようなところがありますが、妹さんはご心配ですね」  峯岡は、同じ岸辺にいると言っても、被害の質がちがうことを指摘した。被害者同士がめぐり会っても、加害者に対する戦力の増強にならなければ意味がない。 「あなた方だけが矢切孝久に会っています。妹の行方は矢切が知っているとおもうのです。どんな些細なことでもけっこうですから、矢切について知っていることがあったら、おしえていただけませんか」 「そうおっしゃられましてもね。警察でも彼の行方を探しているのですが、まだつかめないのです」 「もう一度矢切に会えばわかりますか」 「よほど巧みな変装でもされないかぎり、指摘できます。とにかく三百万円恐喝されているのですからね、忘れることはありません」 「でもそんな悪いやつがどうして見つからないのでしょう」 「前科がないので、警察の記録にまったく乗っていないのです。矢切という名前も偽名かもしれないし、きっと変装しているのでしょうね」 「矢切悦子の身許も確認されていないそうですね」 「そのようです。しかしそのうちにどこかで必ずシッポを出すにちがいない」 「それまで待っていられないのです。妹はいったいどこへ行ったのかとおもうと」 「本当にお気の毒です。私たちでなにかお役に立てることがあるといいのだが」 「そうだわ」  雅美がなにかをおもいついた表情をした。 「どうかしましたか」 「妹は、犯人の顔を見たので消されたのかもしれないと申し上げましたわね」 「はあ」 「すると、矢切が犯人なら、犯人の顔を直接しかもなん度か見ているお二人にはどうしてなにも言ってこないのかしら?」 「そ、それは!」  峯岡夫婦は、雅美の言葉の示唆《しさ》する恐しい意味を悟って愕然《がくぜん》とした。 「妹よりも、あなた方お二人の存在のほうが危険だとおもうのですけど」 「それはきっと、私たちが矢切を疑っていることを知らないのでしょう」 「そんなことはないとおもいます。矢切悦子が殺されたことが大きく報道されて、その写真が出れば、あなた方ご夫婦が反応することは矢切としては当然予測するところでしょう。現にあなた方が警察に届け出たので、矢切の存在が浮かんだのです。すると矢切にとってはお二人だけが彼の実体と素顔を知っていることになります」 「矢切が私たちになにか仕掛けてくるとおっしゃるのですか」  峯岡夫婦がにわかにおびえた表情になった。 「しないという保証はないとおもいます。その危険があるので、警察も矢切の存在を届け出たあなた方のことを伏せているのではないでしょうか」 「まさか」 「矢切悦子に矢切孝久という�夫�がいたことを知っていた人間が、あなた方だけだったとしたら、矢切は、警察への情報提供者はあなた方だと直ちに悟るでしょうね」 「そ、そんな!」 「だから私言ったでしょ。三百万円はあきらめて、矢切のことは警察にまかせましょうって」  半ベソをかいた峯岡を細君が詰《なじ》った。 「なに言ってるんだ。最初に警察へ届けるようにと勧めたのはきみじゃないか」  夫婦げんかになりかけたところへ、雅美が割って入り、 「いまそんなこと争っていてもなんにもなりませんわ。私たちで共同戦線を張りましょう」 「共同戦線?」 「そうです。警察でも矢切の行方を探しているでしょうが、私たちも私たちなりに力を合わせて探すのです。矢切がなにか仕掛けて来る前に彼を探し出して、警察に渡してしまえば安全でしょ」 「でも警察にも探し出せないものを私たちがどうやって?」 「矢切から手紙がきたそうですね」 「警察に提供してしまいました」 「その手紙でなにか気がついたことはありませんか」 「そう言われても、べつに」 「どんなことでもけっこうです。文章のくせとか、言葉遣いとか」 「そう言えば、とても手馴《てな》れた文章でした」 「手馴れた?」 「達者というのかな。文章を書きなれた人のようでした」 「でもヤクザみたいだったんでしょ」 「だから、すっかり騙《だま》されちゃったんです」 「人に書いてもらったのかしら」 「そうかもしれません。正体を現わしたとき、とてもあの手紙の主とはおもえませんでした」 「それでは正体を現わす前は、手紙の主に見えたのですか」 「ええまあ、それは」 「それじゃ本人が書いた可能性も捨てきれませんわ。文章なんて、人柄に関係なくいくらでも造れます。その手紙、あなた方ご夫婦宛のものですから、警察も用がすめば返してくれるんでしょう。それまでとりあえずコピーだけでももらえないかしら」 「なにか役に立つのですか」 「わかりません。でもとりあえず、それ以外に手がかりがないようです」 「あなた、もう下手《へた》に動かないほうがいいわよ」  妻の尚子が、峯岡の袖を引っ張った。 「しかし黙っていても、矢切からなにかされる」 「そんなことわからないわよ。私たちなんの関係もないのよ。三百万円はあきらめましょ。命あってのものだねだわ」  せっかく張られつつあった共同戦線に尚子が水を差した。ちょうどそのとき管理人室の電話が鳴った。 「永瀬さん、ええ、いまちょうどここにおられますよ」  管理人は、電話に応えて、雅美の方を向いた。 「永瀬さん、平沢さんという方からお電話ですよ」  雅美が管理人から受け取った受話器から平沢のおびえたような声が話しかけてきた。 「ああ、雅美さんか、たったいま変な電話がかかってきたんだよ」 「変な? どんな電話なの」 「例の広告について聞いてきたんだ。どんな意図からあの広告を出したのかって」 「だれから?」 「名前は言わなかった。声をわざと変えていたので、年齢もよくわからない。男の声だった」 「矢切じゃないかしら」 「たぶんね。もういいかげんにかんべんしてくれないか。私には家族がいるんだ」 「いまさらなにを言うの。広美はどうなるの。もう後へは退《ひ》けないのよ。今度も私の名前を言ったの?」 「なにを言う暇もないうちに切っちゃったよ。まるで逆探知されるのを恐れていたように」 「それきっと矢切だわ。こちらの肚《はら》を探ってきたのよ」 「おれはどうしたらいいんだ」 「じたばたしないで相手の出方を待つのね」  平沢との通話をすますと、傍聴していた峯岡夫婦が心配そうに質《たず》ねてきた。 「矢切がなにか言ってきたのですか」 「あなた方以外に、あの広告に反応をしめす者は、矢切でしょうね」 「なんと言ってきたのです」 「あなた方と同じです。広告の意図と広告主の身許調べですわ。いずれ私の所へアプローチして来るでしょう」 「警察へ届けたほうがいい」 「なんと言って? 矢切と決まったわけじゃないのよ。矢切にしても、まだなにもしていないわ。それよりあなた方もう逃げられないわよ」 「それはどういう意味だね」 「今度矢切が接触してきたら、あなた方が警察に情報を提供したことを言ってやるわ」 「そ、そんな!」 「ひどいわ」 「だったら私に協力してください」 「脅迫するのか」 「おねがいしているのです。私が話さなくても矢切はあなた方が警察に密告したことを悟るでしょう。こちらがおとなしくしていても矢切のような人間は、追いつめられればなにを仕掛けるかわかりません。いわばこれは自衛のための戦いです。手紙のコピーを警察からもらってください。それからもし矢切からなにか言ってきたら、必ずおしえてくださいな」  峯岡夫婦は永瀬雅美に完全にイニシヤチブを取られた形になった。  数日後、峯岡が下校して来ると、妻の顔色が変っていた。 「あなた、恐かったわ」 「どうしたんだ、矢切からなにか言ってきたのか」  峯岡は、妻のただならぬ気配にドキリと胸を衝《つ》かれた。 「そうなのよ。すぐ学校に電話したんだけど、連絡がつかなくて」 「今日は、一日外にいたんだ。矢切がなにを言ってきたんだ」 「これを読んで」  尚子は一通の封書を渡した。差出人を見ると矢切孝久となっている。 「手紙をよこしたのか」  便箋《びんせん》を開いてみると、次のような文章がしたためてある。  ——メッセージ拝見いたしました。当方、三十八歳と三十一歳の容姿十人並以上のきわめて健康な仲良し夫婦です。この道をはじめて二年ですが、性がこんなにも奥深く味わい深いものであることに新鮮な感動と驚きをおぼえております。幾組かの素敵なご夫婦と出会い、その度に新しい地平線が開かれたおもいです。あなた方の文章を×月号のH・F誌上に見つけて、なんとなくフィーリングが合うように感じました。きっと素晴しいご交際ができるとおもいます。当方も勤め人ですので、交際日は週末か休日を希望します。私たちには子供がありませんので、おさしつかえなければ、自宅を提供してもけっこうです。お返事楽しみにお待ちしております。  渋谷区|広尾《ひろお》三−四−××ドルミールヒロオ35 矢切孝久、昌子—— 「いったいこれはどういうことだ?」  峯岡は読み了って唖然《あぜん》とした。 「私が聞きたいわ」 「矢切孝久がまたスワップの申し込みをしてきた」 「でも妻の名前と住所がちがうわ」 「筆蹟《ひつせき》もちがうようだな」 「べつの人に書かせることもできるわ」 「夫の名前を出しておいて、なんだって妻の名と筆蹟を変えたんだね。それに矢切ならうちの住所を知っているはずなのに、H・Fの編集部経由で手紙をよこしている。なぜだろう?」 「わかんない。でもこれが矢切の仕掛けじゃないかしら」 「仕掛けって、永瀬雅美が言ってたようにおれたちが矢切の存在を警察に届けたことに対するか」 「そうよ。私たちをおびき出すための罠かもしれないわ」 「すると、永瀬雅美がしゃべったのかな」 「彼女はまだしゃべらないわよ。とにかく共同戦線を張る約束をしたんだから。ねえ、あなたどうしましょう」 「どうしましょうって、警察へ言ったほうがよいだろう」 「永瀬雅美には?」 「もちろん彼女にも連絡するよ。なにせ共同戦線なんだからな」 「私、あの女《ひと》、恐いわ」 「妹の行方を熱心に探しているだけだよ」 「あなた、若いきれいな女となるとすぐ甘くなるんだから。私が恐いと言った意味にはそういう意味もあるのよ。彼女との共同戦線を楽しんでいるんじゃないでしょうね」 「馬鹿な! そんなんじゃないよ」 「そんなにむきにならなくてもいいわよ。でもこれが矢切の仕掛けだとしても、どうして堂々と名前を出したのかしら」 「まったくもってわからないね」 「これで矢切がやっぱり私たちをマークしていることがわかったわ。こうしている間にもあいつどこからか私たちを見張っているのよ」  尚子は、おびえたように外の気配に耳を澄ました。     3 「警察にはもう話したのですか」  とりあえず永瀬雅美に連絡すると、反問してきた。 「これから話すつもりだが」 「警察への連絡はちょっとひかえたほうがいいとおもうけど」 「なぜですか」 「もしこれが矢切の罠だとすれば、あまりにも幼稚なような気がするのよ。警察が矢切の行方を探していることは、当然知っているだろうし、スワップを種に三百万円|帥《むし》り取ったあなた方に、また同じ誘いをかけてものこのこ出て来るはずがないのに、臆面《おくめん》もなく誘ってきたわ。あまりに人を食ったやり方だとおもいません?」 「そう言えばそうだけど」 「住所や筆蹟が変っているというのも気になるわ。どうかしら、おもいきってうけてみたら」 「うけるって、またスワップしろと言うのですか!?」 「うける振りをするだけよ。誘われる振りをして、こちらが先方を誘い出すのよ」 「そんな危険は冒したくないね」 「いまは逃げても、いずれ逃げきれなくなるわよ。矢切はあなた方をマークしているんだから」 「だから警察へ届けて……」 「警察が出張って来たら、姿を現わさないわ。そうなったら、闇《やみ》の奥から一生つけ狙《ねら》われるわよ」 「脅かさないでくれ」 「べつに脅してなんかいません。いまが矢切と対決する唯一のチャンスだとおもうのよ。大丈夫、私が後ろから見ているわ。少しでも危険があれば、すぐに警察を呼んであげるわよ」 「きみがいっしょに来るというのか」 「共同戦線でしょ。私一人じゃ頼りないでしょうから平沢さんも引っ張っていくわ」 「私、いやよ」  尚子は一言のもとに拒《は》ねつけた。 「いまさらいやだなんて、ぼく一人じゃスワップに行けないよ」  峯岡は困惑しきっていた。 「いまさらなにを言うの。私はあんな恐しい経験は真っ平だわ」 「しかし、永瀬雅美に約束したんだ」 「あなたが勝手に約束したことでしょ。私は知らないわ」 「そんな冷たいことを言わないでくれよ。ぼくたちの共通の敵じゃないか」 「その敵も、あなたがいやがる私を無理矢理にスワップなんかへ引っ張って行ったからつくっちゃったのよ」 「過ぎたことをいまさらとやかく言ったところで仕方がない。いま矢切と対決しなければ、一生暗闇から狙われるかもしれないよ」 「私は警察にまかせたほうがいいとおもうけど」 「警察が出張って来たら、逃げてしまうと言ってただろう。大丈夫だよ。人目のある所で会えば、危険はない」 「なんと言われても私はいや。どうしても対決するとおっしゃるなら永瀬雅美と行けばいいでしょ」 「永瀬雅美と? 夫婦でもないのにどうして彼女とスワップに行けるんだ?」 「夫婦を偽装すればいいじゃないの。矢切だって本当の夫婦だったかどうか怪しいもんだわ」 「矢切はきみを知っているよ」 「矢切本人が現われるとはかぎらないでしょ。彼だって警察から手配されていることは知っているでしょうから、そんなに簡単に姿を現わすとはおもえないわ。あの鉄面皮な手紙を見ても、なにか魂胆《こんたん》があるにちがいないわよ」 「そうか、永瀬雅美と夫婦を偽装するという手もあったな」  峯岡は、妻から触発された着想に傾いた。こちらの写真は渡してない。先方も矢切の替え玉であれば、雅美が妻の替え玉であることに気がつかないだろう。年齢も若づくりということにすればごまかせる。スワップの相手が若いのに文句を言う男はいない。そうすれば妻に危険を冒させずにすむ。雅美のような若く魅力的な娘を相手に夫婦を演技するのも悪くない。 「あなた、まさか本気でそんなこと考えているんじゃないでしょうね」  尚子は、自分が言いだしたことでありながら、峯岡の真剣な表情に心配になったらしい。 「本気だよ。きみが協力してくれないのだから、そうする以外にないだろう。スワップには一人では行けないんだから」 「いけないわ。バレたらどうするつもりなの。相手は、普通の人間じゃないのよ」 「そんなことわかってるよ。だからこそこの際対決するんだ。きみの考えいい線いってるとおもうよ。ぼくとしても永瀬雅美に後ろ備えを頼むより、きみに固めてもらったほうが安心だからね。いざというときになって永瀬雅美がぼくらを捨てて逃げ出さないという保証はないんだ」 「そう言えばそうだわ」  共同戦線とは言っても連帯の鎹《かすがい》は脆《もろ》いのである。峯岡夫婦のほうがより大きな危険を冒そうとしている。雅美にも相応の危険を負担させるべきだと悟った。     4 「奥さんがいやだとおっしゃるなら、私がやります」  永瀬雅美は、意外にあっさりとうなずいた。後ろ備えは、尚子と、平沢がつとめることになった。  万一、矢切本人が来れば、その場で警察を呼ぶが、替え玉が現われた場合でも、部屋まで行かないことを申し合わせた。個室に入ってしまうと、どんな危険が待ち伏せているかわからないし、妻としては夫に対する�別種の危険�が不安であるらしい。その点に関しては永瀬雅美も同意した。彼女も個室に引き入れられては助けが駆けつけて来るまでに蹂躙《じゆうりん》されてしまうかもしれない危険を考えたのであろう。とにかく少しでもおかしな気配があれば、直ちに警察を呼ぶ。四人で打ち合わせてから、矢切の申込みに承諾の返事を出した。スワップ実施の時間と場所は前回と同じ土曜の午後、同じ都心のホテルということにした。先方も同意して、ここにいよいよ、矢切夫婦?と�再会�することになった。  対決日がきた。峯岡夫婦は、初めてのときよりも緊張しているのを悟った。ホテルに入る前に平沢と永瀬雅美の二人と落ち合い、最後の打ち合わせをすますと、峯岡と雅美が連れ立ってホテルへ入った。 「あなた、気をつけてね」  背後から心配そうに声をかけた尚子は、対決の危険だけを案じているのではなさそうである。平沢が元気づけるためか、余計なことを言った。 「お二人ともなかなかお似合いですよ」  指定の待ち合わせ場所も、前回と同じロビーだった。たがいの�認識マーク�も小脇にかかえたH・F誌である。ロビーのソファには、数組の男女が腰を下ろしていた。みな待ち合わせらしい。  峯岡と雅美が入って行くと、一様にチラリと視線を向けた。その中の一対の視線が固定して、中年の長身の男がソファから立ち上がった。手にH・F誌をもっている。 「峯岡さんですか」  男は、愛想よく問いかけた。かたわらに三十前後のコケティッシュな女が寄り添うようにして立った。矢切ではなかった。やはり替え玉を送ってきたのか。峯岡は、身構えを解かずに、 「そうです。矢切さんですか」  と相手に観察の目を向けながら反問した。男女共に抑《おさ》えた趣味のよい服装をしている。男は長身、痩《や》せ型で一見鋭い風貌《ふうぼう》だが、目は柔和である。女は、グラマータイプで、ややしまりのなさそうな表情をしている。それが内なる好色と善良さを暗示しているようであった。  どこにもヤクザっぽい雰囲気は感じられないが、前回のデートで見事に騙された峯岡は外見を信用しない。この善良な市民の仮面の下にどんな凶相を隠しているかわからないのである。 「そうです、初めまして。こちらは家内です。今日はお会いできて嬉しくおもいます」 「わあ、想像したとおりのお方だわ。初めまして。矢切の家内です」 �矢切夫人�は頬をうすく上気させて初対面の挨拶《あいさつ》をした。演技しているようにも見えない。  雅美が進み出て挨拶をした。心身を鎧《よろい》で固く包んでいるはずであるが、そんな素振りは感じられない。峯岡は、内心大した役者だと感嘆していた。  矢切と名乗った男は、す早い観察の目を雅美に投げかけたが、明らかに満足した様子が見てとれた。�矢切夫婦�は、本当にスワップを目的で来たかのように、振舞が自然である。峯岡は、少し迷ってきた。しかし彼らは矢切夫婦ではあり得ないのだ。初対面のぎごちなさを解《ほぐ》すために、ロビーのソファに坐《すわ》ってさりげなく世間話を交したが、なかなかボロを出さない。それとなく周囲の気配に注意しても、こちらをうかがっている者はなさそうである。  尚子と平沢が少し離れたものかげに待機しているが、ロビーの他の人影にまぎれて目立たない。敵の一味も、ホテルの客の中にまぎれ込んでいるのかもしれない。 「それではそろそろまいりましょうか。部屋が二つ用意してあります」  ころあいよしと見たのか、�矢切�が腰を浮かしかけた。その手順といい、タイミングといい、前回のコピーのようであった。このまま行けば、本当にスワップに移行しかねない雰囲気になった。パートナーを交換して、それぞれ個室へ引き取ったところで敵が正体を現わす仕組みになっているのかもしれない。  峯岡は、このまま�矢切夫人�を擁して部屋まで行ってみたい誘惑に駆られた。どんな危険が待ち伏せていても、彼女にはそれだけの性的魅力があった。  しかし客室内に入ることは、�申し合わせ�違反になる。 「さあ、まいりましょう」 �矢切夫妻�は、はっきりと立ち上がった。もはやこれ以上時間を稼《かせ》げなくなった。 「ちょっと待ってください」  峯岡は、言葉を押し出した。 「なにも心配することはないのですよ。家内も私も馴れていますから」 �矢切�は、この期《ご》におよんで峯岡がスワップに臆したと釈《と》ったような口のきき方をした。 「あなたは、本当に矢切孝久さんですか」  いきなり質《たず》ねられて、�矢切�は面喰《めんくら》った表情をした。 「ええ、そうですけど」  彼は、峯岡の質問の意図をはかりかねているようである。 「実は、私は以前あなたと同姓同名の方に会ったことがあるのです」 「そうですか。まあそういうこともあるでしょうね。私の名前は、それほどありふれてもいないが、特に珍しいというほどでもありませんから」 「しかし、その矢切孝久ご夫妻とですね、まだそれほど以前のことではなく、このホテルでスワップしたのですよ」  峯岡は、切り札を突きつけるようなつもりで、言った。 「な、なんだって!?」  激しい驚愕の色が、峯岡と雅美の視線を集めた�矢切�の面に現われた。�矢切夫人�のほうも同様である。 「たしかにこのホテルです。この場所で待ち合わせていたのです。スワップが流行してきたとは言え、まだまだマイナーの存在です。そんな少数派のスワップ愛好家の中に同姓同名の人がいるものでしょうか」 「それは本当ですか」  最初の愕《おどろ》きから立ち直ったらしい�矢切�が、反問した。 「本当です。二月の半ばごろです、そのときのスワップを種に、私は矢切孝久から三百万円恐喝されたのです」 「私が三百万円を恐喝! じょ、冗談じゃない」 �矢切�の表情が硬直した。 「いやあなたがじゃない。矢切孝久と名乗った別人がです」 「それであなた方は、恐喝犯人を捕えるためにここへ来たというわけですか」 �矢切�は、ようやく納得のいった顔をした。 「そうです」 「私は正真正銘の矢切孝久ですよ。恐喝犯人とまちがえられては迷惑だ」 「すると、だれかがあなたの知らないところであなたの名前を騙《かた》ったとおっしゃるのですか」 「同姓同名でなければ、そういうことになりますね」 「しかし、まったく赤の他人があなたの名前を騙ったとはおもえない。スワップという共通項があるのですからね」 「私には心当たりはない。私たちはただ純粋にスワップを楽しんでいるだけです。それを悪事に利用しようなんて考えは毛頭ない。スワップ愛好者にそんな悪人はいませんよ。みな中流以上の人たちで、この新しい性風俗を楽しんでいるのです」 「我々は現に三百万恐喝された」 「それは不心得者がまぎれ込んだのです」 「そう、外部から邪《よこしま》なる者がまぎれ込んだのにちがいない。そしてまぎれ込むにあたって、あなたの名前を騙った。ということはどこかであなたの名前を知ったのでしょう。心当たりはありませんか」  峯岡は第一の矢切孝久の特徴をおもいだせるかぎり描写した。 「さあ、そう言われても」 「女のほうは、矢切の姓でマンションまで借りていたのです。新聞を読まなかったのですか。中野区のマンションの一室で女が殺されていた。その女が矢切悦子といって、矢切孝久の妻ということになっています」 「そんなニュースは気がつきませんでした。とにかく毎日人が死んでいるご時世ですからね」 「あなたは、殺人容疑者、および恐喝犯人として手配されているんですよ。よく今日まで引っかからなかったもんだ」 「冗談じゃありませんよ、私が殺人容疑と恐喝だなんて、まったく身におぼえのないことだ」  もはや、スワップの雰囲気など吹き飛んでしまった。このときには、峯岡も雅美も、矢切が、何者かに名前を騙られた被害者であることを信じていた。 「ねえ、あなた。もしかしたらあの人じゃないかしら」  矢切夫人が、ふとおもいついたように夫の袖《そで》を引いた。 「なにか心当たりがありましたか」  峯岡と雅美が夫人の方にすがるような目を向けると、 「去年の八月ごろだったとおもうのですけど、H・Fから探り出したらしく、私たちの所へ週刊誌の記者が取材に来たのです。なんでも新しい性のパイオニアという見出しでスワップの特集をするとかで」 「その記者の特徴が似ていたのですか」 「似ていたような気がします。一見、三十前後でなかなかのハンサムでしたけど、目と眉の間が狭くて、ちょっと油断ならない感じの人でしたわ」 「そうだ! それです。その男にちがいない」  模索していた手先にようやく手応えがあって、峯岡は、気負い込んだ。 「私、あんまり話したくなかったんだけど、とても聞き上手で、結局しゃべらされちゃったわ。そのとき、主人の名刺を見て自分にも矢切という知り合いの女性がいると漏らしたんです」 「その女性が殺された矢切悦子にちがいない。あなた方から取材したスワップの知識を悪用して、ご主人の名前を騙り、矢切悦子と夫婦を偽装して私たちにスワップを申し込んできたのです。その記者の名前はなんというのですか。どこの週刊誌ですか」 「あまり聞いたことのない週刊誌だったわ。あなたおぼえていらっしゃらない」 「そう言えば、そんなことがあったなあ。はて、なんという名前だったっけ」 「名刺を交換したんでしょう」 「もう処分しちゃったとおもいますよ。そうだ、�週刊バイスロイ�だ。男性向けの娯楽週刊誌です」 「�週刊バイスロイ�なら私も時々覗《のぞ》くことがあります。それで記者の名前はおもいだせませんか」 「そうですねえ、矢切同様ありふれてもいないけど、特に珍しい名前でもなかったなあ。おもいだせませんねえ」  矢切夫婦から得られた収穫はそれまでであった。だが週刊バイスロイを当たれば、第一の矢切の足跡が残っているはずである。 「あなた、これはきっと正解よ。矢切からきた手紙、なかなか達者だったでしょう。週刊誌で文章を書き馴れていたのよ」  尚子もおもわぬ収穫に気をよくしていた。 「ここまで追って来たんだから、あとは警察にまかせようか」  第二の矢切からのスワップ申込みが罠ではないとわかったのであるから、これ以上素人が踏み込むのは、危険である。  永瀬雅美も同意した。  容疑者の奇禍     1  峯岡夫婦から報告をうけた警察は、「週刊バイスロイ」を当たった。だが矢切孝久という社員も社外《フリー》の記者もいない。矢切が偽名ということが考えられるので、昨年の八月ごろ同誌のスワップ特集に携《たずさ》わった人間に的を絞って、聞込みを進めたところ、デスクの一人がそれは和村《わむら》のことじゃないだろうかと言いだした。 「和村とは何者ですか」  ようやくかえってきた手応えに笠原刑事は膝《ひざ》を乗り出した。 「だれの紹介で来たのかちょっとおもいだせませんが、三月ごろまでうちの仕事を手伝っていた男です。その男にちょっと特徴が似ているようですね」  その言葉に勢いを得て、笠原はさらに矢切の特徴を細かく描写すると、 「背中の傷までは見ませんが、多分和村にまちがいないでしょう。なかなか筆が立って、いい嗅覚《きゆうかく》をもっていたので、時々特集物の取材に使っていました。ここのところ姿を見ませんね」 「和村の住所はどこですか」 「住所と電話番号はわかっていますが、連絡がつかないのですよ。頼みたい仕事もあって、私も探したのですが、ここのところさっぱり消息がつかめない。私どもへ来るようなフリーの記者には、風来坊が多いものですからね。また忘れたころになって顔を出すでしょう」  デスクは、あまり熱意のない表情で言った。  週刊バイスロイ自体が、神田の裏町の古ぼけた貸ビルの一角にある三流週刊誌である。そこらへ「草鞋《わらじ》を脱ぎに来る」もの書き屋は、ジャーナリズムのジプシーのような存在で、使う出版社や雑誌社も、彼らをよく把握していない。一流所《いちりゆうどころ》を食いつめたライターや、文学中毒に取り憑《つ》かれて、いつの間にかマスコミの底辺に迷い込んで来たような人たちが、包丁一本で渡り歩く職人のように、ペン一本をもって渡り歩いている。  トルコ風呂、主婦や高校生の売春、ピンクキャバレー、ハントバー、あるいは××族の生態など風俗色濃いルポや特集読物は、このようなライターによって支えられていると言ってよい。  一流所の社外記者は、一社に専属して、準社員の待遇をあたえられるが、二流三流となると、渡りの記者を、その場かぎりに使うことが多い。  週刊バイスロイのデスクから浮かび上がってきた和村|丈二《じようじ》もそんな渡り記者の一人だったらしい。しかし、和村の紹介者はだれだかついにわからない。社外記者は、おおむね、社員とのコネクションや記者同士のつながりから引っ張って来るケースが多い。おそらく和村も、一時週刊バイスロイにいたことのある記者の口ききで来たのであろう。  同誌には、和村の履歴書すら残っていなかった。 「べつに現金を扱う商売じゃないし、要するに、記事さえ書いてくれればいいのですから」  週刊誌のデスクはシレッとした顔で言ったものである。デスクからおしえてもらった和村の住所は中野区新井四−十×番地志沢ハウスである。電話番号もあるが、ダイヤルしてもだれも応答しない。  刑事たちは早速、志沢ハウスへおもむいた。それはプレハブの中級アパートである。刑事は、和村の住居が、矢切悦子の住んでいたチェリスナカノにきわめて近いことが気になった。それは歩いて行ける距離なのである。  志沢ハウスへおもむくと、案の定和村の部屋は、長期間人の出入りがない模様である。管理人を訪ねると、彼は、いともあっさりと、 「ああ、和村さんですか、あの人は交通事故で怪我をして入院していますよ」と言った。 「入院!? いったいどこの病院ですか」  刑事は、意外な反応に、むしろ驚いていた。 「ええと、なんでも中野の方の病院でしたな。メモがあるはずだが、ちょっと待ってくださいよ」  管理人は重そうに身体を動かして、隣りの部屋でメモを探す気配をたてていたが、 「ああ、ありました。東方第一病院です。中野一丁目の大久保通りに面しているそうです。家内が一度見舞いに行きました」 「まだそこに入院しているのですか」 「こっちへ帰って来ていないから、入院しているはずです。大学生に追突されましてね、ひどい笞《むち》打ちになったということです。まあ相手が金持の息子だったので、たんまり賠償金をもらったそうです」  管理人は、むしろ羨《うらや》ましげに言った。 「それはいつごろのことですか」 「もうだいぶになりますな。たしか三月ごろだったかな。病院の方からうちに通知がありましてな。ちょうど私が留守していたときで、家内が飛んで行きました。ああ、家内はいま美容院に行っております。いまさらめかしこんだところでどうということはありませんのに」  刑事たちは、さらにその足を東方第一病院へのばした。大久保通りに面した、入院患者の経済力を見せつけるようなデラックスな外観の病院である。 「やっこさん、金持の車にぶっつけられたのをこれ幸いに、病院に隠れていたのかもしれないな」 「いくら病院に隠れていても、住居から手繰られたら、なんにもならないだろう」 「警察がここまで追って来るまいと見くびっていたか、それとも……」 「それともなんだね」 「それとも本当に身動きできないほどの重傷なのかもしれない」  笠原と鈴木は臆測《おくそく》し合った。ここまで追って来られたのも、警察の調べの結果ではなく、峯岡夫婦の情報提供のおかげである。 「事故をおこしたのが三月というのも気になるね」 「矢切悦子を殺して逃走中に起こしたというのか」 「殺人直後の動転でついぼんやりしていて」 「和村は被害者だよ」 「ぼんやりしていて、躱《かわ》せるべき事故を躱せなかったということもある」 「とにかく本人に対決すればわかることだ」  笠原と鈴木は、まず受付で身分を明かして、和村の状態をたずねた。病院の話では、和村の症状はかなり重く、追突されたときに頭を車体に打ちつけたために頭部の笞打ち運動とともに脳や脳幹部の症状が加わっているということであった。  現在は頭部を固定するポリネックなどははずされたが、依然として脳症状が消えないので油断できないそうである。  交通事故を奇貨として、病院に隠れているわけでもなさそうであった。刑事が面会を求めると、あまり長い時間でなければという条件つきで許可が出た。     2 「最近は、こちらにお住まいのようですね」  スーパーを出たところで永瀬雅美は三十前後の細身の長髪の男に突然声をかけられた。以前どこかで会ったような顔だがおもいだせない。身体からかすかに香水の香りが漂っている。その香りにもうすい記憶があるようだ。職業がらいろいろな人間に会う機会が多いので、どこかで名刺ぐらいもらっているかもしれない。そうだとすればあまり素気《そつけ》なくもあしらえない。雅美が一瞬応対の仕方にためらっていると、 「もうお忘れでしょうね。妹さんのお隣りに住んでいる武石《たけいし》です」 「ああ、あのときの」  先方から名乗られて、雅美はようやくおもいだした。連絡を絶った広美を初めてマンションに訪ねて来たとき、管理人の部屋まで案内しようと申し出てくれた隣室の住人であった。  あのときと同様に計算したラフなスタイルで、手にスーパーの紙袋を無造作にかかえている。そんな格好がサマになっている。男にはむしろ気障《きざ》な香水の香りを漂わせているが、それも振りかけたものではなく、身体に沁《し》みついたような香りである。 「あのときは、いろいろとおせわになりました。妹の代りにお隣りへ越して来たのに、まだご挨拶もいたしませんで」  雅美は、いささか慌て気味に頭を下げた。 「いえ、こちらこそ留守が多いものですから失礼してしまって」  雅美は移転後、二度ほど隣家のブザーを押したが、応答がなかったのをおもいだした。  帰る所が同じなので、二人はなんとなく肩を並べて歩く形になった。 「管理人から聞きましたけど妹さんは、ご心配なことですね」  武石は、うすうす事情を知っているようである。 「はい、いったいどこへ行ってしまったのか」 「私は、そのうちに必ず帰って来るとおもいますよ」 「妹のことでなにか気がついたことはございませんか」  雅美は、この隣人に対する聞込みを怠《おこた》っていたことに気がついた。平沢といっしょに出かけた旅行先で消息を絶ったために、平沢の追及に集中したが、隣人なら広美の私生活についてなにか知っているかもしれない。平沢以外の妹のプライバシーがなかったとは言いきれないのである。それを確かめようとして二、三度訪ねるには訪ねたが、いつもすれちがっていた。 「さあ、お隣りと言いましてもね、ほとんどおつき合いがなかったものですからね。あのマンション、わりに壁が厚いので隣りの気配が聞こえ難いでしょう。時々、男の人が訪ねて来ていた様子ですが、どんな人か見たことはありません。なにせ、私も帰って来るのは、週に二、三度ですので」  雅美も、こちらへ来てから、仕事が重なって出ていることが多かった。 「お仕事、お忙しそうですのね」 「忙しいというより、チョンガーでしょ。家にだれも待っている者がいないので、つい会社の方に泊まり込んでしまうのですよ。たまに帰って来ても、このように食料品の買い出しからはじめなければなりません」  武石は空いている片手で風に乱れた長髪をかき上げると屈託のない声で笑った。またかすかに香水の香りがした。 「匂うでしょう」  武石が、雅美の顔を覗き込んだ。 「はあ?」 「香水の匂いです。どんなに体を洗っても沁みついてしまったんですよ。男のくせにとおもわれるといやでね」  武石はテレたように笑った。そんな表情はひどく稚《おさな》い。 「香水関係のお仕事ですの」 「こういう仕事をしています」  雅美の質問を待っていたように、武石はさっと名刺を差し出した。それには「美粧堂調香室、香水デザイナー・武石|静也《しずや》」と刷られてあった。 「香水デザイナー」 「聞いたことがありますか。注文者の個性とムードに合わせて、さまざまな香水を調合《デザイン》してその人独自の匂いをつくる仕事です」 「まあきれいなお仕事」 「見かけだけはね、しかし、自分独自の香りをもちたがる人は、おしゃれの中でも特におしゃれで、うるさい人ばかりですから、神経を使いますよ」  話しながら来るうちにマンションへ着いた。それぞれの部屋の前で別れるとき、武石は、 「それじゃあまた。今度、あなたのための香水をデザインしてあげましょう」と言った。  雅美はそれを外交辞令とうけ取った。     3  突然刑事たちの訪問をうけた和村丈二は、彼らがなにも聞かない先に表情を引き攣《つ》らせた。それは顕著な反応であった。 「あなたは、矢切悦子という女性をご存じのはずだが」  反応をしかと見届けたうえで、笠原はおもむろに切り出した。 「知らない。そんな女性は見たことも、名前を聞いたこともない」  それでも和村は、土俵際で踏みとどまった。 「峯岡正吾と尚子という夫婦に会ったことは?」 「ない。そんな人たちは全然知らない」 「それでは、峯岡夫婦に会ってもらおうかな」  和村は、蒼白《そうはく》になって全身を小きざみに震わせはじめた。 「どうした、どうしてそんなに震えているのかね。和村、いいかげんにとぼけるのは止めろ! おまえが矢切孝久という偽名を使っていたことはわかっている。そして矢切悦子を殺したんだ」 「おれは、おれは……」  和村は、言葉に詰まった。刑事は、和村がクロの心証を得た。医者からあまり興奮させないようにと言われていたので、いったん追及を止めて、和村がひとまず平静になるのを待ってから、 「なぜ矢切悦子を殺したのか、その点から説明してもらおうかね」と再尋問をはじめた。 「殺すつもりはなかったんです」 「殺すつもりはなかった?」 「悦子には少しマゾッ気がありまして、行為のときに首を締めてやると喜ぶのです。それであの夜も、三月三十日でしたが、ひもを首に巻きつけてマゾプレイをやっていたのです。彼女がもっと強く締めろと言うので、手に力を入れると、ぐったりしてしまいました。びっくりして人工呼吸などをしたのですが、息を吹き返さないので、逃げ出したのです」 「どうして、救急車を呼ぶとか、病院へ連れて行くとかしなかったのだ」 「恐くなったのです。ひもで首を締めたのですから、マゾプレイをしていたと言っても信じてもらえないとおもって」 「そのときなら信じられたかもしれないけれど、いまとなっては信じられないね。あんたは悦子を殺した後、現場から自分の存在をしめすようないっさいの資料を持ち去っている。いまさら殺すつもりはなかったなどという言い抜けは通らない」 「悦子とは、一年半ぐらいになるが、彼女の住居へ行ったのは二回しかない。たいてい彼女の方から私の家へ来るか、あとはモーテルで会っていたんだ」 「夫婦を偽装してスワップをするほどの仲でありながら、そんなことを言ってもだめだよ」 「スワップのことは、私が取材した週刊誌の記事を悦子が読んで、おもしろそうだから二人で夫婦の振りをして申し込んでみようと言いだしたのだ。その際悦子の姓を使うことにしたが、以前に取材した人の中に矢切孝久という男がいたことをおもいだして、おれはその名を隠れ蓑《みの》に利用した。偽夫婦になっても、悦子は私との関係を絶対に秘密にするように言って、それをつき合う条件にしていた」 「なぜ秘密にするんだ?」 「わからない。私の知らない所で彼女がどんなことをしていたのか、私にはまったくわからない」 「あんたはその偽せ妻をタネに峯岡正吾から三百万円恐喝したんだろう」 「ギャンブルで負けがこんで仕方がなかったんだ」 「悦子は恐喝に噛《か》んでいたのか」 「百万やった。そのために恐喝の分け前のことで争いになって殺したと疑われるとおもったんだ」 「事実その通りだったんだろう」 「ちがう。悦子はどこから収入を得るのか、ゆったりした生活をしていた。これまでにも何度か彼女から金を借りて急場をしのいだこともある。百万は、分け前と言うより、これまでの借金の返済なんだ」 「悦子を殺して逃げる途中で、交通事故に遭《あ》ったのか」 「そうだ。中野通りで右折しようと停まっていたところをいきなり追突された。かなりの衝撃で、頭を車体のどこかに打ちつけて意識を失った。気がついたときは、救急車の中だった。まだ頭痛や吐き気が取れない。警察がいつ来るかと、気が気でなかったけど身動きできなかったんだ」 �変更�された死体     1 「矢切悦子を殺した前後の模様を、はじめから詳しく話してみろ」  刑事は、緊迫した表情で追及した。 「午後十一時ごろ、和室の畳の上でマゾプレイをしていたのだけど、悦子がそこだと隣りのマンションから覗かれるようで気になると言いだしたので、洋室のベッドの方へ移った」 「殺した後、死体を押入れの中に隠した」 「そうだ」 「どうして押入れへ移した」 「深くは考えなかった、ベッドの上に残していくと早く発見されそうな気がした」 「そして死体に毛布をかぶせたんだな」 「毛布ではなかったとおもうよ」 「なんだと?」 「あれはタオルケットというのかな。かけ布団の代りに肌に直接かけるバスタオルの大きいようなのがあるだろう。あれが押入れの中にあったのでかけたんだ」 「それは本当か」  刑事たちは愕然《がくぜん》とした。 「本当だよ。こんなこと嘘《うそ》ついてもはじまらないだろう。毛布をかぶせようとタオルケットをかけようと、罪に変りはないだろうからね」  だが刑事たちにとってこれは重大なちがいである。  矢切悦子はたしかに毛布をかけられて死んでいた。毛布とタオルケットは明らかにちがう。和村の供述に偽りがなければ、悦子は死んだ後、タオルケットと毛布をかけ替えたことになる。そんなことをするはずがない。 「どんなタオルケットか詳しく言ってみろ」 「黄色のタオル地にオレンジや青の花模様がプリントされてあったとおもう」 「いや死体には白の無地の毛布がかけてあったはずだ。あんたの記憶ちがいじゃないのかね」 「白の無地の毛布と黄色地に花模様のついたタオルケットをまちがえないよ」 「しかし、現場にはそんなタオルケットはなかったぞ」 「そんなことおれが知るもんか。とにかくおれは、白の毛布なんかかけていない」  刑事たちは、現場の状況と和村の証言の食いちがいをどう判断すべきか当惑した。考えられる可能性はただ一つ、だれかが和村の立ち去った後、悦子の部屋へ入って来て、死体を被《おお》っていたタオルケットを毛布とかけ替えて持ち去ったことである。  なぜそんなことをしたのか? まず死体を発見すれば警察へ通報するのが普通である。それをせずにただタオルケットと毛布を交換して立ち去ったのは発見者に警察を敬遠しなければならない理由と、タオルケットを現場に残すと不都合な事情があったと考えられる。  これはもしかすると事件にまったくべつの照明をあてることになるかもしれない。  永瀬広美に関しても質《たず》ねたかったが、そろそろ�制限時間�が切れかかっていた。和村は、殺人を自供したものの、症状はまだ予断を許さない。脳内部のデリケートな損傷であるから、いつ深刻な症状に悪化するかわからない。  逃走や証拠|隠滅《いんめつ》のおそれもないので、当分病院において取り調べることになった。  ——矢切悦子とは、いつどのようにして知り合ったのか—— 「一昨年の夏ごろ、新宿のバーで一人で飲んでいた彼女に話しかけて、意気投合して以来月に二、三回の割で逢《あ》っていた」  ——矢切悦子の身上や職業について知らないか—— 「彼女は、そういう話はいっさいしなかった。彼女も訊《き》かなかった。知り合ったときから余計なことはいっさい質ねないという了解ができていた」  ——悦子には、他に男がいた形跡はなかったか—— 「おそらくスポンサーがいただろう。だれかに囲われていたとおれはにらんでいた。自分の家へあまり呼びたがらなかったのもそのせいだろう。しかし、そんな詮索《せんさく》はし合わない約束だった」  ——ところで永瀬広美という女性を知っているだろう——  取調官は質問の鉾先《ほこさき》を転じた。 「何者だね、その女は?」  和村にはまったく反応がない。すでに永瀬広美の誘拐の疑いはあらかた漂白されている。病院側からも広美が誘拐された四月十六日前後は、和村の脳症状がひどくてベッドに縛りつけられていたことが確かめられている。  したがって、警察側にとってはだめ押しのような質問であった。  ——あんたは矢切悦子を殺害した現場を永瀬広美に見られたんだ。そのためにその口を封じた—— 「ちょっと待ってくれ。なんのことだかまったくわからない。だいいちそんな女に見られていたことすら知らないんだ」  ——あんた、悦子とマゾプレイをしていたとき、彼女が隣りのマンションから見られているようだからと言ったので、ベッドの方へ移ったんじゃないのか—— 「それは悦子が言っただけで、おれは覗《のぞ》かれたのを確かめたわけじゃない」  しかし和村が永瀬広美の誘拐犯人でなければ、彼女はどこへ行ってしまったのか?  ——あんたは、N市の平沢という男に電話したか?——  取調官は永瀬広美に関する追及を一時保留して、平沢の囮《おとり》広告に鉾先を向けた。永瀬雅美からの報告によると、峯岡正吾の後に電話をしてきた者がいたという。  しかし、和村はそんな電話をしたおぼえはないと答えた。和村が広美の誘拐犯人と疑われたのは、広美に犯行シーンを目撃されたためである。だが、和村が誘拐犯になれないことは証明された。第一の目撃者に一指も触れていない彼が、第二の目撃者からの呼びかけである囮広告に引っかかるだろうか。  すると和村以外のだれが平沢の囮広告に興味をもったというのか。     2  永瀬雅美は失望に打ちのめされていた。ようやく和村丈二を捕えたものの、彼は広美の行方をまったく知らないと言う。警察の話を聞くと、広美が誘拐された時間帯に和村には絶対のアリバイがあるそうである。 「広美さんには、平沢以外の男性関係はありませんでしたか」  笠原刑事は質ねた。 「広美は、そんな淫《みだ》らな娘ではありません」  雅美がやや色をなして答えると、 「いや広美さんの品行をどうこう言っているのではないのです。平沢が打ち消され、和村が関係ないとなると、広美さんの誘拐犯は、彼ら以外の線から来たと考えざるを得ないのです」  笠原は、少し慌てた口調で言葉をつけ加えた。 「平沢以外の男関係はあり得なかったとおもいます。広美は、平沢に夢中でした。彼以外の男に目を向ける余裕は、まったくありませんでした」 「とにかく広美さんは、矢切悦子が殺されるシーンを目撃したために誘拐されたのではありません。和村は広美さんに手を出していない。彼は広美さんに犯行シーンを見られたことも知らないのです。それに悦子の死体の状況に不可解な点があるのです」 「と言いますと?」 「和村は、悦子の死体にタオルケットをかけて逃げたと供述しているのに、発見されたときは毛布がかかっていたのです」 「和村の記憶ちがいではないのですか」 「色も材質もちがいますし、記憶ちがいということは考えられませんね。すると、和村の後だれかが現場へ入って来て、タオルケットと毛布をかけ替えた……」 「どうしてそんなことをしたのでしょう」 「わかりません。第三者が介入したとなると、囮広告に反応してきた怪電話と符合しますね」 「それが広美の行方不明と関係があるのですか?」 「ないとは言いきれないでしょう。悦子の死体の状況には�変更�が加えられています。すると広美さんが目撃したのは、変更シーンだったかもしれない」 「広美は、男が女の首を絞めたシーンを見たと言っているのですよ」 「和村丈二を見たと言ったわけではないでしょう」 「和村が犯人ではないとおっしゃるのですか」 「そうは言いません。しかし、和村を犯人とも断定できないとおもうのです。和村は自分が殺したとおもい込んでいますが、マゾプレイの行き過ぎで、つい手に力が入っただけですから、元々殺意はない。和村が立ち去った後で悦子が息を吹き返したのかもしれない。そこへ第二の、いや真の犯人が登場した」 「まあ!」 「まだ臆測《おくそく》の範囲を出ませんが、十分可能性のある臆測です。犯人は、悦子が首にひもを巻きつけられて意識|朦朧《もうろう》としている姿を見て、止どめを刺した。殺すつもりで来たのか、あるいはそんな姿を見て潜在していた殺意が引っ張り出されたのかわからないが、広美さんが見たのは、和村の後に来た真犯人の犯行シーンだったかもしれません」 「でも、和村は悦子をいったん押入れの中へ入れたのでしょう、押入れの中まで広美の部屋の窓から見えませんわ」 「広美さんの、いまあなたが住んでおられる部屋から矢切悦子の部屋は俯角《ふかく》の位置にあるので、カーテンが引かれてなければ、かなり奥の方まで覗き込めます。犯人は、姿の見えない悦子を探して押入れの中に見つけます。首にひもを巻きつけられてぐったりしている悦子を見つけて、すぐに止どめを刺したと考えるよりは、まず押入れから引き出して介抱したか、少なくともどうしたんだと問いかけるのが、人間の当然の行動経路だとおもいます。介抱しているうちに殺意が顕《あら》われた。広美さんが目撃したのは、そのシーンだったかもしれません」 「でもカーテンが」 「和村とマゾプレイをしているときに、悦子が隣りから覗かれているようでいやだと言ったので、洋室のベッドの方へ移ったのですが、和村はそのときカーテンを引いたかどうか記憶がはっきりしていないのです。もし和村がいたときにカーテンを閉めていなければ、その後に来た者が閉めたはずです。広美さんが目撃したのは、和村と断定できないとおもいます」 「それでは、和村の後に来た真犯人が広美を誘拐したと……」 「可能性だけの話ですよ。殺人に関しては和村は依然として最有力の容疑者です。しかし、広美さんの誘拐はできない。彼はそのとき病院のベッドから身動きできなかったのですから。和村以外の犯人の存在を考えるとき、まず、真犯人が広美さんを誘拐する動機をもっている。次に、平沢以外の異性関係ということになります」  笠原刑事の話は、広美の消息不明におもってもいなかった局面を開いた。  和村以外に犯人の存在を考えると、囮広告に反応してきた怪電話の主について想像が及ぶ。犯人としては、広美の口を封じてホッとしたところに、あの広告に接してギョッとなったことだろう。  雅美は、早速、笠原の話を平沢に伝えた。 「もうかんべんしてくれよ。ぼくはもう十分に協力した。また第二の犯人探しなんて、真っ平だよ」  平沢は、半ベソをかいた。 「なにを泣き言を言ってるのよ。死体がひとりでにタオルケットと毛布をかけ替えるはずはないわ。犯人は他にいるのよ。あなたがいやだと言っても、また必ずアプローチして来るわよ」 「毛布なんて、自然にずり落ちてくることがある。押入れの中なんだからね」 「自然にずり落ちてきたものなら、タオルケットが残っているはずだわ。タオルケットなんて一枚もなかったそうよ」 「それなら殺された後、だれかが入って来たんだ。そして押入れの中に倒れている悦子を見つけた。介抱しかけ、死んでいるのを知って、びっくりして逃げ出すはずみにタオルケットを持っていってしまった」 「どうしてそんなものを持っていくのよ」 「ほら、火事のときなんかによく枕をかかえて逃げるだろう。人間動転すると、突飛な行動をするもんだよ」 「動転してタオルケットと毛布をかけ替えて、タオルケットだけ持って逃げたと言うの」 「和村は、毛布とタオルケットを二枚かけたのを忘れてしまったのかもしれない」 「死体にタオルケットと毛布を二枚かけるなんてご丁寧なことだわね。それはそれとして、そのとき発見者がいたとすればどうして警察に連絡しなかったの?」 「殺人に手を下していなくとも、警察を敬遠する事情があったのかもしれない。だから毛布だけかけて逃げ出した。その場面を広美に見られたとおもったんだ。下手をすると殺人の罪まで着せられてしまう。そこで広告の意図を聞いてきた」 「そんなことを言ってもだめよ、広美は帰って来ていないのですもの。もし殺人犯人が誘拐したのでなければ、容疑は結局あなたへ帰ってくるのよ」 「そ、そんなひどいよ」 「なにがひどいものですか。広美がいなくなって、あなたが一番ホッとしているんじゃないの。家庭の平和は保たれ、社会的信用も失わずにすんだ」 「これ以上ぼくにどうしろと言うのだ」 「これ以上もなにもないわよ。広美の行方がわかるまではいっしょにやっていただくわ。それから念のために言っておくわ。あなたよく協力とおっしゃるけれど、これは協力じゃないのよ。あなたがぜひしなければならない義務なのよ。いいこと」 「わかったよ。具体的になにをすればいいんだ」 「犯人はおそらくまた電話してくるとおもうわ。そうしたら、私の名前を言ってちょうだい。私がバックのスポンサーだって」 「危険じゃないのか」 「私に危険を振り分けたほうが都合がいいんでしょ。峯岡さんにも私の名前を漏らしちゃったじゃないの」 「あのときはつい慌てたものだから」 「今度は落ち着いて言ってちょうだい。妹を誘拐しても意味がない、姉も見ていたと」 「きみとぼくとの関係を聞かれたら、なんと言ったらいいんだ」 「恋人とでも答えておくのね。だから私になにか仕掛けたらあなたが黙っていないと言うのよ」 「そんなことを言ったら、今度はぼくが狙《ねら》われるじゃないか」 「大丈夫よ。いくらなんでも二人いっぺんに手を出せないわよ」 「相手が警察の罠《わな》じゃないかと言ったら」 「警察にまかせておいたのでは妹が戻らないので独自に取引きをしたいと言うのよ。妹さえ返してくれたら、見たことは言わないって。犯人が妹を誘拐したのは、なにか都合の悪いものを見られたからだわ。だったら、私にも同じ都合の悪いものを見られていることになる」 「きみも誘拐するかもしれないよ」 「私を誘拐したら必ず手がかりを残してあげるわよ。無防備のところをさらわれた妹とちがって、私は構えているわ。もっとも私がさらわれたらあなた本望でしょ」 「そ、そんなことはないさ」  平沢は、図星をさされた表情をした。 「でも、それで逃げようなんて不心得はおこさないことね。あなたと広美との一部始終を書いた手紙を峯岡さんに預けていくわ。私がいなくなって、あなたがなんにもしなかったら、N市の市長とあなたの奥さん宛《あて》にその手紙を出すように頼んでおくわよ」 「きみが行方不明になったら、今度は警察が大騒ぎするよ」 「そうよ。だから犯人も今度は迂闊《うかつ》に私に手を出せないとおもうの。でも、和村以外に犯人がいるかもしれないというのは、いまのところ臆測の域を出ないわ。その臆測犯人の犯行を広美が見たかもしれないという臆測は、さらに可能性がうすくなる」 「するとだれが……」 「広美を誘拐した第二の犯人の存在を推測させるものは、タオルケットと�怪電話�だけよ。この犯人を除外した場合も考えてみる必要があるわ」 「他にだれがいるというのだ」 「あなた、広美とつき合っている間に、あなた以外に男がいたような気配はなかった?」 「ぼく以外に男が!? そんな馬鹿な! 広美にかぎってそんなことはないよ」  広美との仲を認めた以上、べつの男の存在を想像するのは、平沢のプライドが許さないらしい。 「むきになったところを見ると、相当自信がおありのようね。私も広美にかぎっていっぺんに何人もの男を操るような女じゃないと信じているわ。でも広美にそのつもりはなくとも、横から一方的に想っていたという可能性もあるわよ」 「あれだけ人目を惹《ひ》きつける女性だったから気のあった男はいただろうね。しかしぼくにはそんな話はいっさいしなかったし、ぼくも気がつかなかった」 「片想いしたから誘拐してしまうというのも乱暴な話だわね。それにこれだけ長い期間若い娘を連れ出すとなると、合意がないことには隠し通せないとおもうわ」 「広美の合意だというのか」 「可能性の一つとして言ってるのよ。だからといってあなたの責任が軽減されるわけじゃないのよ。この際、あらゆる可能性を考える必要があるとおもうの」 「ぼく以外に男がいたとは断じて考えられないよ。広美に他の男がいたほうが、いまのぼくにとっては有利なんだがね」 「あなたがそうおっしゃるんだから、信じてもよさそうね。警察も、和村以外の犯人の存在を疑って捜査を進めているらしいわ。犯人が警察の動きを察知すれば、あなたに再接近してくる可能性は高いわよ。頑張ってね」  平沢は、雅美の迫力に圧《お》されたようにうなずいた。  合併した悪の根     1  ——またなんだって毛布なんかとかけ替えたんだ?  ——私の身にもなってください。私のタオルケットがかかっていたのですよ。  ——どうしてきみのタオルケットが彼女の所にあったんだね。  ——風のいたずらですよ、いや、運命のいたずらかな。  ——きみのタオルケットだということなんかわからないだろう。  ——どういたしまして。髪の毛一本、爪のかけら一つ残っていても、私が疑われてしまいます。それにあのタオルケットは馴染《なじ》みのバーから歳暮にタオルと対にもらったもので私のネームが入っているんです。  ——それならタオルケットだけ持ってくればよかっただろう。  ——あなたはその場に居合わせなかったから、そんなことが言えるのです。死体から白目でにらまれたんですよ。  ——とにかく困ったことをしてくれた。それであの広告の意図はわかったのかね。  ——広告主の身許はN市役所の秘書課長とわかりました。  ——N市の秘書課長がなんだってあんな広告を出したんだね。  ——そこまではわかりません。まだ警察の罠《わな》かどうかもわかりませんからね、あまり長電話は危険です。  ——それで、きみはどうおもう。  ——なんとも言えませんね。悦子の男だった和村が捕えられ、毛布の一件から警察も我々の存在を疑いだしたようですから。  ——広告が出たのは、和村が捕まる前だったよ。  ——だからといって罠ではないとは言いきれないでしょう。和村が捕まった以上、カモフラージュがなくなりました。もう近づくのは危険です。  ——どうも広告が気になるな。いったいなにを見たというんだろう。  ——もちろん、見たとすれば、あの場面ですよ。しかし、警察にたれこまないところをみると、はったりですよ。  ——罠かもしれないと言ったじゃないか。  ——警察と組んでの罠なら罠で、大したことを見ていない証拠です。放っておきましょう。  ——きみ、平沢がなにかにおびえていたようだったと言ったね。  ——ええ、私たちにおびえていたんでしょう。  ——私たちにおびえるはずがないじゃないか。自分から広告を出したんだから。  ——それじゃあ、なにに?  ——平沢はだれかに強制されて広告を出したんじゃないだろうか。  ——強制されて?  ——あるいは脅迫されてさ。だれかに弱みを握られていて、いやいや広告を出した。  ——だれに脅されたと言うんです。  ——そんなことわからないよ。ただ、もし彼が脅迫されて広告を出したのなら、こちらの押し方によってはバックの黒幕の名を吐くかもしれないよ。  ——危険ですよ、これ以上チョッカイを出すのは。  ——今度は、私が電話してみよう。  ——知りませんよ、どんなことになっても。  ——公衆電話からかけるのになんの危険があるものか。それより平沢がきみを見ていないかどうか心配だ。  ——見られちゃいません。マンションの部屋の中をだれがいったい覗き込むというのです。  ——呑気《のんき》なことを言ってるな、「裏窓」という映画を見たことはないのか。  ——カーテンが引いてあったとおもいます。  ——確信があるかね。  ——発見されたときは引いてあったということです。  ——事後引いたかもしれないじゃないか。  ——「裏窓」から覗き込むとすれば、隣りのマンションがいちばん臭いのですが、隣りには平沢という居住者はいません。  ——さすがに調べは早いね。私は平沢の黒幕が隣りのマンションに住んでいるような気がしてきた。  ——黒幕が隣りにですか?  ——黒幕がきみの犯行を見て、弱みを握っている平沢をダミーに使ったんじゃないかな。  ——目的はなんでしょう。  ——そいつがはっきりしないから気味が悪いのだ。     2  八月十日、開店間もなく、東洋証券|麹町《こうじまち》支店債券営業課店頭係|平間一郎《ひらまいちろう》は、その男が入って来たときから変な予感がした。四十前後の、サラリーマン風のごく平凡な男であるが、身辺から一種のきな臭いにおいが漂っているように感じたのは、やはり平間の職業経験によるものである。  右手にさりげなく、合成皮革《レザー》のブリーフケースを下げているが、手に職業的な力が入っている。平間の職業的に鍛えられた目は、それが大金や重要書類を持ち運びなれた者の手つきであることを見て取っていた。馴《な》れない者は、かばんを小脇《こわき》にかかえ込んだり、両手で抱きかかえたりして自ら虎の子を運んでいることを広告してしまう。 (金融ブローカーかな)  平間は、相手の正体を推測した。自分の金と他人の金を運んでいる者は、目つきからしてちがう。自分の金を運びつけている者の目には他人に対する警戒と猜疑《さいぎ》の二重塗装が常に施されている。  その中年男は、まっすぐ平間の許へ歩み寄って来た。 「あのう割債の換金をおねがいできますか」  中年男はおずおずと申し出た。 「どちらの銘柄でしょうか」 「額面百万円のワリソーが十枚です」  男は、ブリーフケースの中から割引日本総業銀行券、通称ワリソーを取り出した。本年十一月二十七日償還日になる第三百二回の総業銀行割引債券である。  一年後償還の割引債券を買い、証券会社に償還日前に持参すると、それまでの金利と有価証券取引税を差引いて買い戻してくれる。一年未満であれば銀行定期預金よりも、割引債券のほうが百万で約一万五千円の金利差が出るので、割債を買い、資金需要に応じて償還期日前に証券会社で買い戻してもらう人が多い。特に法人筋が買い戻しを条件とした、「現先商《げんさきあきな》い」と称する一年未満の換金を行なう。  そのかぎりにおいては、平間の前に来た中年男も特に不審を生ずべき理由はない。  平間は差し出されたワリソーを見た瞬間、おかしいと感じた。それは男が店に入って来たときの印象が、影響していたせいかもしれない。  印刷は非常に精巧にできていて、素人なら十分ごまかされるだろう。債券の表面が全体的に黄味がかっているように見えた。地紋の網目も粗《あら》いようである。手に取ってみると紙質の感触が厚ぼったい。平間は「偽造券」だと直感した。  相手の挙動もどことなく落ち着かない。落ち着いた態度を無理に造っているが、目線の動きが忙《せわ》しなく、指先を無意味に動かしたりしている。男が落ち着きがないということは、買い戻し要求をしてきた債券が偽造であることを知っている証拠である。  証券会社に悪意や重過失がない場合でも、客との間にトラブルが発生した場合には、証券取引業務の専門家として不利な立場に立たされる場合が多い。特に一見《いちげん》客の持込証券をうけた場合には、慎重な配慮が求められる。  平間は、偽造券と直感したが、いちおう事故証券一覧表をチェックした。件《くだん》の割債は事故通知の中には入っていなかった。 「少々お待ちくださいまし」  平間は、ひとまず債券を預ると、上司の吉川《よしかわ》営業課長のデスクに近寄り、「課長ちょっと」と耳許にささやいた。吉川は直ちに事情を察して、奥の部屋へ来た。 「どうしたんだね」 「いま私の所へ来た一見の客が、このワリソーを持ってきたのですが」 「ほう百万円券が十枚か」  額面百万となると、動かすのはおおむね法人筋である。 「この債券用紙をよく見てください」 「不審な点でもあるのかね」  吉川はなにげなくつまみ上げたが、まさか偽造だとはおもわない。 「こちらが本物ですが、紙質や印刷がちがうとはおもいませんか」 「なんだって!?」  吉川もようやく事実の重大性を認識した。 「どうですか、課長、用紙や印刷が微妙にちがっているし、数字の活字が明らかにちがいます」 「たしかにちがうね。だれが持って来たんだね?」 「私の席の前のカウンターにいる男ですよ。彼は明らかにこの債券が偽造であることを知っていますね」 「百万円券の偽造となると、大変だ」 「他にも偽造券が出まわっているかもしれません」 「よし、あの男を逃がさないように引きつけておきたまえ。ぼくは警察と銀行の方へ連絡しよう」  平間の緊張は吉川に乗り移った。 「どうしたんだね、えらく時間がかかるようだが」  カウンターへ戻ると、中年男が尋ねた。不安の色をはっきり面に現わしている。 「お支払いは四日後になりますので、お預り証を発行いたします。おそれいりますが、こちらの用紙にご住所、お名前、ご職業などをご記入ねがいます」 「無記名証券なのにどうしてそんなものを書かなければいけないのだ」  中年男の表情が険悪になった。無記名証券の本券を持参した場合、客が住所氏名の記入を拒否すれば証券会社には強制できない。 「売買報告書をご住所の方に郵送する必要がございますので」  平間は柔らかく押した。中年男は売買申込書に渋々と記入をはじめた。 「これでいいだろう」  男が記入を終った用紙を差し戻した。そこには練馬区豊玉《とよたま》上一−十×|野崎武時《のざきたけとき》、自営と書かれてある。平間はどうせでたらめだろうとおもった。  もっとも割債を買う客は、表に出したくない金や帳簿に載せたくない金を動かしているので、百人中百人が虚偽の住所氏名を記入する。虚偽であっても証券に事故がなければ、四日後には換金される。  期日前の債券の換金は、証券をうけ取ってから四日後に行なわれる。請求者には、証券と引き換えに預り証と売り付け証を発行して四日後にまた同じ証券業者の店頭に来てもらう。したがって、預り証を渡していったん帰してもよかったのだが、平間は偽造券であることを見破ったので、この場で捕えたかった。平間がこれ以上時間を稼げなくなったとき、二人の男が野崎をはさみ込むように立った。 「麹町署の者ですが、ちょっとおうかがいしたいことがあります。署までご同行ねがいます」  任意同行を求められたとき、中年男の顔面から血の気が退いた。一瞬逃げ出そうとしたが、両側をがっちりと固められているのを悟って、猛然と言葉で抵抗をはじめた。 「おれはなにもやっていないぞ。いきなり警察へ来いなんて無礼じゃないか」 「なにもしていなければ協力してくださってもよろしいでしょう。あなたの持参した割債についてちょっとおうかがいしたいことがあります」 「割債がどうしたと言うんだ。あれはちゃんとした債券だぞ」 「それはけっこうなことです。どうぞ」  刑事の慇懃《いんぎん》な言葉遣いの底には一歩の妥協もなかった。  麹町署に同行された中年男は、練馬区豊玉上一−十×番地金融業野崎武時と名乗った。そのころ、不審債券の照会をうけた日本総業銀行調査部では、野崎の持ち込んだ百万円券十枚を偽造券と断定した。偽造されたのは、いずれも同銀行が昨年十〜十一月に発行し、本年十一月二十七日に償還日となる第三百二回総業銀行割引債券であり、記番号も連続している。偽造券の特徴は、  ㈰全体的に用紙が黄色っぽい  ㈪券面金額の活字がちがう  ㈫地紋の網目が粗い  ㈬用紙が厚い  ㈭裏の地紋の色がちがう  麹町署ではとりあえず野崎を偽造有価証券行使および詐欺の容疑で逮捕して取調べをはじめた。警察では印刷の具合から見て背景に相当大規模な偽造|組織《グループ》が動いているとにらんだ。素人では真偽の見分けがつかないほど巧妙なので、他にも偽造債券をつかまされている者がいるかもしれない。  だが野崎は取調べに対して、 「この債券を担保にある人に金を貸したのだが、返さないので、現金化した」と言い張った。  ——ニセ債券を担保にして金を貸したある人とはだれか——  警察は追及した。 「そ、それは、よく知らないんだ」  ——よく知らない人に一千万もの大金を貸したのか—— 「債券が偽造だとはおもわなかったからだ」  ——そんなトボケたことを言っても通用しない。あんたは、この債券がニセであることを知っていた。知っていて換金に来たんだ。偽造もあんたがしたんじゃないのかね—— 「とんでもない! 私は知らずに偽造債券をつかまされただけなんだ」  ——プロの金貸屋が頓馬《とんま》な話じゃないか。警察をナメるんじゃない。金貸屋がニセ債券を担保《カタ》にどこの馬の骨に一千万円も貸すものか。金を貸した人物を言わないと、あんたがニセ債券の偽造と行使の犯人になるぞ。有価証券の偽造行使は、最大十年の懲役だよ—— 「おれは、偽造なんかやっていない!」  ——よしよし、それじゃあだれから担保に預かったんだね—— 「おれにこれを預けた人間は死んでしまったんだ」  ——死んだ?—— 「殺されたんです。だから不安になって換金に来たのです」  ——殺されたとは穏やかではないな。初めから順序だてて詳しく話してみな——  取調官は、事件が意外な展開をしめしそうな気配に姿勢を改めた。  野崎武時の供述によると、彼は以前川崎のトルコ風呂で知り合ったホステスから資金繰りにつまった中小企業の社長が日本総業銀行の割引債券一千万円を担保に五百万円ほど借りたがっていると話を持ちかけられ、同債券を見せられた。  野崎は、債券を見たところ、すかしが入っており、印刷の色調もはっきりしていたので、総業銀行に記番号を照会した。事故債券ではなかったので、掛け目を三割に負けさせて三百万円ホステスに渡したというものである。  ——そのホステスの名前と住所は?—— 「矢切悦子といいます。住所は中野区上高田のチェリスナカノというマンションです。  彼女は自宅の押入れから死体となって発見されました。それで預かった債券が不安になって換金しようとしたのです」  他署管内で発生した事件であったが、取調官は矢切悦子という名前に記憶があった。容疑者が逮捕されたが、発見時死体の状況が自供と異なっているために、べつに犯人の存在が疑われて捜査は難航しているという。  ——矢切悦子が発見されたとき、なぜすぐに届け出なかったのか—— 「恐しかったのです。一千万円の債券を預かって彼女が死ねば、私は七百万円|儲《もう》かります。私も疑われるとおもったんです」  ——あんたは事実、七百万円不法利得しようとしたじゃないか—— 「私は殺してなんかいません。私は人殺しなんか絶対にしない。矢切悦子とはトルコで知り合ってから、たがいに体だけのつき合いだったんだ」  ——そうはおもえないね。あんたは矢切からニセ債券を預かったとき、ニセであることを知っていたはずだ。ニセと知りながら買ったんだ。だから一千万の債券を三百万円なんてべらぼうな値に買い叩《たた》いた。いや実際は足元を見てもっと買い叩いたかもしれないな。あんたは偽造団の換金係なんだろ—— 「ちがう! おれはなんにも知らずにニセ債券をつかまされたんだ。矢切悦子が殺されたので急に不安になって金に換えようとしただけだ。本当だ、信じてくれ」  ——信じられないね。ニセ債券であることを知っていたら、あんたは偽造団の一味の疑いがあるし、知らなければ、矢切悦子を殺す強い動機をもっていたことになる—— 「ちがうったら! 偽造団の換金係は矢切悦子がつとめていたのかもしれない。悦子は同じ手口で、他にもニセ債券をつかませていた形跡があるんだ」  ——他にもだと! それじゃあおまえはやっぱりニセだということを知っていたんじゃないか—— 「おれは本当に知らなかったんだ。ただ債券はまだあるようなことを言ってたよ」  取調官は、この事件の根張りが深く広いのを悟った。割引債券を償還期日前に換金する場合は、証券業者の窓口を通す。金融機関は貸付けの担保に取るぐらいであるから、一般市民の間を転々流通することは少ない。  だが、大規模な偽造団が存在して、矢切悦子のような�換金係�が色仕掛けで客を口説いたら、このニセ債券をつかまされている者がかなりいると見なければならない。  しかも、その矢切悦子が殺されているとなると、悪の根は、知能犯罪から凶悪犯罪へとつながっていく。二種の悪の根が合併して巨大な悪の幹につながろうとしている。取調官は矢切悦子殺害事件の捜査本部に連絡をした。     3  麹町署から連絡をうけた「マンション女性殺害事件」の捜査本部は、いろめき立った。膠着《こうちやく》した事件が意外な方角に向かって展開する気配を見せてきた。  もし矢切悦子が、債券偽造グループの一味だったとすれば、事件はまったく新しい様相を帯びてくる。 「矢切悦子が偽造団の換金係をつとめていたとなると、その線からの殺害動機も考えなければならない」 「毛布の件と、平沢への怪電話は、その一味の仕業だというのか」 「矢切は、一味の秘密を知りすぎた」 「やはり、和村に首を絞められて、仮死状態に陥った後に、真犯人が登場したというわけか」 「まだ一味が悦子の口を封じたと決めつけるのは早いよ。ニセ債券をつかまされた金融ブローカーも怪しい」 「ブローカーが一味かもしれない」  ともあれ、野崎武時は中野署に身柄を移されて厳しい取調べをうけた。野崎は、今度は自分に据えられた容疑が、「殺人」と知って激しく否認した。  野崎の身辺も徹底的に洗われた。野崎は三十五歳、西武線|江古田《えこだ》駅の近くで小さな不動産屋を営むかたわら、中小企業相手の金融業にも手を出していた。家族は、妻と子供が二人いる。  商取引の裏づけもないのに、その場しのぎの融通手形を切り合って身動きつかなくなった中小企業を探し出しては、高利貸の手先となって融資の餌《えさ》で手形を乱発させて甘い汁を吸うような詐欺すれすれの商売をやっていたが、前科はない。  町の高利貸の下に位置する零細金融ブローカーであるが、必ずしも自己資金だけで商売をしているわけではない。彼らは資本主義経済機構の底辺を地下|茎《けい》のように複雑にからまり合いながらいずれかの覆面《ふくめん》金主とつながっている。金主には、土地成金や医者、地主、商店主、大金持ちの個人から、一流法人や外国人までいる。銀行を頂点とする金融機関が資本主義経済機構のピラミッドであるなら、�街の金融機関�はその底辺に蠢《うごめ》く腐生植物である。彼らは経済競争の敗者の死骸に群れ集まって、栄養とする。  野崎はその腐生植物から蜜《みつ》を吸う小虫のような存在であったが、手繰《たぐ》ればどんな金主につながっていくかわからない。野崎の背後にいるかもしれない金主も、ニセ債券であることを知っていて買うように命じた可能性がある。  だが金主がいるにしても、街の金融機関はその存在については黙秘するし、野崎のような末端の業者は、資金の出所についてほとんど知らないのが、常である。  出資法(出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律)第二条は銀行、信用金庫などの金融機関以外が不特定多数の人から金を預かることを禁じており、違反者は三年以下の懲役または三十万円以下の罰金に処せられる。  金主の金は、犯罪による熱い《ホツト》札束《マネー》や、脱税した裏金もある。「資金源の守秘」は、この業界の仁義となっている。  野崎は一千万円券の担保については、自分の金を貸したと言い張っている。三百万円程度なら自己資金で賄《まかな》えたかもしれない。だがかげに巨大な金主が存在していて、ニセ債券を大量に買い付けている可能性はないだろうか。  ニセ債券の精巧な印刷を見ても、印刷業者がからんでいることがうかがわれる。もしそうであれば、ニセ債券が野崎から出た十枚(一千万円)だけとは考えられない。  野崎が一味だとすれば、悦子を殺してからたかだか一千万円ぐらいを換金に来たのは、いかにも拙劣《せつれつ》である。それに一味ならば預り証に本当の住所、氏名を書くはずがなかった。取調べが進むにつれて、野崎の容疑(殺人と債券偽造)は希釈されてきた。  偽造債券事件が報道されると、東京、神奈川を中心とする関東一円で同種偽造券が次々に発見された。届け出た者から入手経路を溯《さかのぼ》っていくと、ほとんどが矢切悦子の所で停まった。現在のところ発見されたニセ債券は合計四十八枚、額面四千八百万円であるが、悦子から直接受け取って保管している者は、世間体や妻を憚《はばか》って届け出ないおそれもあるので、実際には相当数が流れているものとみられた。  届け出られたニセ債券は、すべて同じ特徴を備えており、同一犯人の手によるものとみられた。受け取った者はほとんど貸金の担保としてであり、本物と信じていた。  なお日本総業銀行では、ニセ債券が発見されると同時に、東京証券業協会を通じて全国の証券業者に連絡するとともに、全国銀行協会連合会など金融団体からも各金融機関にニセ債券に注意するよう呼びかけた。  この連絡によって、玉三《ぎよくさん》証券川崎支店で百万円券五枚五百万円がサラリーマン風体の男によって換金されていた事実がわかった。  事態を重視した警察庁では、殺人および債券偽造事件の合同捜査本部を設けるように指示した。これによって矢切悦子殺害事件と偽造債券事件は関連したのである。  接待ルート     1  事件はまったく新たな展開をしめした。矢切悦子が、債券偽造団の一味であり、その換金もしくは行使係をつとめていたことは明らかであった。  だがニセ債券の流れは、すべて悦子どまりであり、その先へ一歩も進まない。  捜査本部は、悦子の前職に目を着けた。ニセ債券発覚の端緒となった野崎も、トルコ風呂時代の客である。トルコ風呂ホステスと客は、独特の親近感がある。なじみの客ともなれば、客と娼婦《しようふ》の関係を越えた親しみが醸成される。客はホステスに裸身を預けると同時に、心を開放する。  ホステスを中心に形成された人間関係は、一種のサロンと言ってよい。このサロンを利用して偽造債券を捌《さば》こうとした知恵は悪くない。万一、債券に不審をもっても、�トルコ風呂サロン�において買ったものだとは訴え出難い。またこのサロンの客は、それぞれある種のうしろめたさをかかえているから横のつながりが生じ難い。  警察は、野崎から聞き込んだ悦子が以前勤めていたという川崎南町のトルコ風呂「胡蝶陣《こちようじん》」を当たった。南町は堀之内《ほりのうち》と並ぶ川崎のトルコ街で、胡蝶陣はその中でも粒よりのホステスとデラックスな設備でトップの位置にある。警察の聞込みに対して胡蝶陣では、矢切悦子は、「揚羽《あげは》」という源氏名で出ていた同店のナンバーワンホステスであったが、二年前に結婚するということでやめたと答えた。  ——結婚の相手はわかりませんか——  刑事は追及した。 「わかりません。相手が言わないかぎり特にこちらから聞きませんので」  ——しかし、トルコのホステスの結婚というのはめったにあることじゃないでしょう—— 「どういたしまして。いまうちにいるホステス嬢のほとんどは�結婚経験者�です。もっとも彼女たちの結婚はほとんど同棲《どうせい》ですがね。たいてい破れてまた舞い戻って来ますよ。それは彼女たちが悪いのではなく、ヒモに食い物にされて逃げて来るのです。気だては抜群にいい妓《こ》ばかりですが、どうも男運の悪い人が多いですね」  ——矢切悦子が殺されたことは知っていますか—— 「知りませんでした。今日初めて聞いてびっくりしたのです」  ——どうしてですか。新聞やテレビで報道されたし、朋輩《ほうぱい》の人もいたでしょうに—— 「トルコのホステスなんて二年もすればたいてい替ってしまいます。報道された写真もうちにいたころと様子が変っていたでしょうし、それに揚羽はこちらでは矢沢悦代という名前になっていました」  ——矢沢悦代の履歴書は取りましたか—— 「トルコのホステスにいちいちそんなものは求めません」  ——それでは彼女はどんなツテでお宅へ来たのですか—— 「ツテもなにもありません。店の前に貼《は》っておいたホステス募集の広告を見て飛び込んで来たのです」  ——彼女の客のリストのようなものはありませんか—— 「トルコ風呂の客のリストなんてありません。私どもはほとんど指名のお客様ですが、それぞれのお客は各ホステスが把握《はあく》しています。混んでいて指名が取れないときに、他のホステスがピンチヒッターに当たることはありますけど」  ——矢切いや矢沢悦代の当時の朋輩はいませんか—— 「生憎《あいにく》、当時勤めていたホステスは、現在一人もおりませんですねえ」  ——マネジャーは、受付けで客の顔を見るでしょう。受付けで客と仲良くなることはないのですか—— 「顔なじみぐらいにはなりますが、お客様の身許についてはいっさい質《たず》ねません」  ——予約は受付けないのですか—— 「当日午後二時より受付けています」  ——そのとき名前ぐらい聞くでしょう—— 「聞いても姓だけです。それもたいてい偽名の方が多いですね。ホステスには名刺などをやる人もいますが、私どもにはいっさいわかりません」  ——ナンバーワンホステスだったのですから、客の一人や二人くらいおぼえているでしょう—— 「顔を見ればおもいだすかもしれませんが、みなさん、鈴木さんとか山田さんとかいうお名前の方ばかりなのです」  笠原といっしょに聞込みに来た鈴木はしぶい顔をした。  ——有名人はいませんでしたか—— 「いたかもしれませんが、みなさん来られるときは様子がすっかり変っておられますので」  胡蝶陣のマネジャーの口は堅かった。  結局、胡蝶陣での収穫はゼロであった。矢切悦子の背後にいる偽造団が、彼女のトルコ風呂時代のコネクションであろうと察しはつけても、捜査はそこで行き詰まった。 「永瀬広美も、結局、偽造団一味に消されたのだろうか」 「和村のアリバイが成立したんだから偽造団の線がいちばん強くなったね」 「それにしても一味が矢切殺しの犯人なら、なんだって彼女を殺したんだろう。換金係がいなくなったら、困るだろうに」 「和村が矢切を殺したと信じて逃げ出した後に、一味のだれかがやって来た。矢切はそのとき本当に死んでいたかもしれないし、あるいは、かすかに息が残っていたかもしれない。しかしいずれの場合にしても、一味にとってはすでに矢切はいないほうが都合がよくなっていたにちがいない。だから一味は届け出なかったんだ。そのとき止《と》どめを刺さなかったとしても、死んで欲しいという意識があったはずだ」 「悦子は一味にとってすでに用ずみになっていただけではなく、危険な存在になっていたんだよ」 「和村と�浮気�したり、スワップに出るようじゃ共犯として恐くて仕方がなかっただろうね」 「あるいは悦子は、一味を恐喝していたのかもしれない」 「恐喝?」 「うん。悦子がいなければ、せっかくのニセ債券も単なる紙っ切れだ。そこでもっと分け前をよこせと要求した。よこさなければ全部バラしてしまうと」 「あり得るね」 「一味には、銀行関係に詳しい者や印刷業者も加わっている。意外な大物がからんでいるかもしれないよ」 「一味にしてみれば、犯罪利益の確保と保身の意味があったんだな」 「まああまり臆測《おくそく》をたくましくしてもいけないが、矢切悦子の元の客筋は、捨てられない線だね」  笠原と鈴木は、ひとまず徒労に終った捜査を、まだあきらめていなかった。     2  一方、野崎武時は、ねちっこい取調官によって記憶のかけらを少しずつ掘りおこされていた。 「そう言えば胡蝶陣の待合室で、接待で来ているという会話をチラリと耳にはさんだことがありましたよ。トルコを接待に使うなんて、さすが商社は進んでいるなあとおもったものです」  ——接待だって? 商社がトルコを接待に使っていたというのかね——  取調官は身体を乗り出した。 「商社のような名前を聞いたような気がします」  ——その商社をなんとかおもいだしてくれないか—— 「ここまできているんだけど、おもいだせないなあ」  野崎自身がもどかしがった。取調官は野崎の追及を一時保留して胡蝶陣に問い合わせた。しかし、警察側の意気込みに反して、 「接待かどうかは私どもにはいっさいわかりません。私どもはただ入浴料をいただくだけで、サービス料金はお客様とホステスの間にまかせておりますので」 「入浴料の支払いを会社払いにするようなことはないのかね」 「トルコに会社払いなんてございません」  胡蝶陣では木で鼻をくくったように答えたが、たとえ�接待トルコ�があったとしても、口を割らないだろう。  胡蝶陣に対する照会が徒労に帰したとき、タイミングよく野崎が、 「今朝、新聞の求人広告を見ていましたら、神田の方にある三栄物商という会社でタイピストを求人しているのを見つけたのですが、胡蝶陣で聞いた商社のような名前がそんなだったとおもうのですが」  ——きみ、それはたしかかね——  取調官はおもわず声を弾ませた。 「はい。私の聞いた社名がどんな字を書くのかわかりませんが、たしかにさんえいぶっしょうと言ってたとおもいます」  取調官は、その名前に記憶があった。矢切悦子にマンションを貸した�家主�が三栄物商の社員だった。名前は大江伸也、ニューヨーク支社詰めの間に仕事上の不手際があって引責退社させられた。 「そうか、悦子の家主は、トルコ時代の客の一人だったんだな」 「三栄物商が胡蝶陣を接待に使っていたとすると、同社を洗えば矢切悦子の客のリストがわかるかもしれない」     3  三栄物商は、主に米国とラテンアメリカ諸国を相手に雑貨品の輸出入を行なっている中型商社であり、大手商社から落ちこぼれた雑貨を丹念に拾い集めて着実に実績を上げている。  しかし、元は全国に犇《ひしめ》くワンマン商社から成り上がってきているだけに、一つつまずけば、資金力が薄弱であるから、空中分解する危険性をかかえている。米国と中南米諸国の主要都市に支社や出張所をもっているが、おおむねは取引先の所在地を借用しているにすぎない。 「そのリストの中に、銀行関係と、印刷業者がいれば、しめたものだ」  捜査陣は気負い立って、三栄物商に対して再度聞込みを行なった。しかし、同社では、 「私どもがトルコを接待に利用したなんてとんでもないことです。仕事柄接待は、よくしますが、一流料亭や高級クラブばかりです。大切な取引先をそんないかがわしい場所に案内して病気でも移されたら、どう申し開きをしますか」  と答えたが、捜査員はそのときの相手のうろたえぶりから、トルコ風呂接待はやっているなという直感を得た。 「しかし、お宅の元社員であった大江伸也さんをたしかに川崎のトルコの待合室で見かけたという人がいるのですがなあ」  捜査員は、聞込みの触手をじわりとからみつけた。 「それは個人的に行ったのでしょう。大江は独身で、以前からあまり身持がよくなかったですからね、トルコぐらい行ったでしょう」 「そんな身持の悪い人間をどうしてニューヨーク支社詰めにしたのですか」 「仕事はできましたからね。それにニューヨークと言っても、体《てい》のいい左遷《させん》なのです」 「大江氏はなんでも業界に触れを回されるようなことをして罷《や》めたそうですが、具体的にはどんなことをしたのですか」 「彼が向うへ行ってからバイヤーが送ったはずの小切手が行方不明になったり、未収のはずの代金に対していつの間にか領収書が出ていたりするので調べたところ、彼が全部着服していたのです。それだけでなく、バイヤーからの注文を会社を通さずにメーカーに発注して、メーカーからリベートを取っていたのです」 「それは背任横領ですな」 「会社でも、大江の不正行為がわかったので帰国させて調べようとした直前、バイヤーからの約十万ドルの支払い代金を握ったまま、ドロンしてしまったのですよ。英語が達者ですから、きっとあちらで悪事を重ねながら転々としているんでしょう」 「大江がニューヨークへ行ったのは左遷とおっしゃったが、国内でもなにか悪いことをやったのですか」 「特に露見した悪事ではありませんが、あまり芳《かんば》しからざる噂《うわさ》があったものですから」  相手は口をにごした。 「どうぞおっしゃってください」  捜査員に食い下がられて仕方なさそうに、 「取引先から金を借りて返さなかったり、会社の名前を悪用して女性を欺《だま》したりして、苦情が頻々《ひんぴん》ときたものですからね」 「それほどの悪《わる》なら、社用接待の名目でずいぶん遊んだでしょうな」 「経理でよくもめましたよ。とうてい接待費では落とせないような請求書まで回してくるんですから」 「その中にトルコもあったでしょう」  相手は誘導にかけられたのを悟った。はっと表情を動かしたところをすかさず、 「いかがでしょう。そのトルコ接待の内容をおしえてください。その接待の中に銀行関係者と印刷業者が必ずいるはずだ。これは殺人事件の捜査なのです。ぜひご協力ねがいます」と捜査員は追い打ちをかけた。  捜査員の熱意に押されて三栄物商では経理の担当者を出してくれた。 「大江が銀行関係や印刷業者を接待したことはありませんね。彼は営業ですから、メーカーやバイヤーとの接触は多かったのですが、銀行や印刷とのつき合いはなかったはずです」 「お宅で銀行や印刷とつき合いのあるセクションというと、どこですか」 「銀行関係は私ども経理がいちばん接触が多いですね、印刷となると、総務でしょうな。案内状やパンフレットやその他の印刷物の依頼をしておりますから。それにしてもトルコ接待なんてとんでもないことです」 「しかし、大江の接待の中にはトルコ風呂があったそうですが」 「一度トルコを使わせてくれないかと言ってきたことがありますが、言下に拒《は》ねつけましたよ。そういう接待のほうが効果があると力説していましたが、やるなら自腹でやれと言ってやりました」 「大江がトルコ接待を申し出てきたときは、だれを対象にしていたのですか」 「特定の相手を対象にしていたわけではないのです」 「大江は個人的な遊興費までを社用接待にして請求書を回していた模様ですが、どんな所で遊んでいたのですか」 「おおむね、銀座や赤坂のバーですね。なじみのバーで請求書を水増しして、会社に回せないような遊興費を落としていた節があります。とにかく遊び好きの男でしたね。そう言えば遊興費を稼ぎ出そうとして、商品相場に手を出して、だいぶ傷を負っていたようですよ」 「商品相場?」 「小豆とか、生糸の商品取引ですね。仲買人の口車に乗せられて相場をはじめて、損《す》ったようです。その穴埋めに会社の金を流用した疑いがあったので、一度彼の取扱った売掛を検査したことがありましたが、確証を見つけられませんでした。そのとき彼のデスクから商品取引に関する仲買人会社のパンフレットが山のように出てきたのをおぼえています」 「仲買人のパンフレットね」  捜査員の目が光った。パンフレットには当然印刷業者がからんでいる。商品相場に手を出して手ひどい傷を負った者が、債券を偽造して、応急の止血を図ったとすれば……いちおう悪の連環はつながる。商品相場と偽造債券は、いかにもつながりそうである。 「その仲買人会社の名前はわかりませんか」 「さあ、たくさんありましたからね」  三栄物商での聞込みはここまでであったが、同社から聞いた大江のよく利用していた銀座のバー「悶々《もんもん》」で大きな収穫があった。そこのホステスの一人が次のように証言した。 「商品取引の仲買人ですって? 知ってるどころじゃないわよ。大江さんに紹介された仲買人《セールスマン》が絶対に儲《もう》かるって言うから私も全財産のほとんどを注《つ》ぎ込んだのよ。最初五十万投資した小豆相場が三日で二倍になったのに気を良くして売買を一任したら、それからは損をする一方なのよ。あまり損ばかりするのでいやけがさしてもう止めると言ったのに、今度は無断で売買をつづけていたのね。損金の通知に知らないと突っぱねたら、一任したのに知らないとは言わせない。手数料と損金を支払わなければ、いま住んでいるマンションを差押えると脅すのよ。それだけでなく、証拠金の代りに預けておいた割引債まで勝手に処分されて、結局八百万円くらい取られちゃったわ。�嘘八百�ってこのことね。本当に大江さんはひどい人を紹介してくれたものだわよ」 「いま割引債とおっしゃいましたね」 「ええ、現金がなければ、株券でも、割債でもいいと言ったのよ」  商品相場に割債が登場してきた。捜査員は長い模索のあと初めてしっかりした手応えを感じ取った。 「その仲買人《セールスマン》の名前を憶《おぼ》えていますか」 「忘れるものですか。あいつのために危うく首を縊《くく》るところだったのよ」 「ぜひおしえていただきたい」 「小森勝一《こもりしよういち》という男よ。人形町《にんぎようちよう》のサンシャイン商事という仲買会社の外務員よ。絞り取れるだけ絞って鼻血も出ないとわかったら、寄りつきもしないわ。刑事さん、あんな悪いやつはいないわよ。ぜひふんじばってちょうだい」 「悶々」のホステスから一人の人物を探り当てた捜査員は、直ちにその足で人形町のサンシャイン商事へおもむいた。  日本橋川を境に北側の蠣殻町《かきがらちよう》、小網町、人形町、堀留町《ほりどめちよう》、小伝馬町《こでんまちよう》、横山町は穀物、砂糖、繊維、ゴムなどの問屋街であり、四つの商品取引所もこの地域に集中している。  川の南側にある兜《かぶと》町|界隈《かいわい》をシマと呼ぶのに対して、この地域を「川向こう」と呼んでいるそうである。日本橋川をはさんで、株と商品の二つの相場の世界があい接している。  二人の顔から首にかけて汗がしたたり落ちている。今日も暑い。暑熱は人間の思惑の乱れるこの相場の街に特に内攻しているようである。 「商品相場に手を出して、首を縊《くく》ったとか、一家心中をしたなどという話をよく聞くが、商品相場ってどんなことなんだい?」  人形町に向かう途上で、笠原は相棒の鈴木刑事に聞いた。 「おれも二係から聞いたうけ売りだがね、法律が認めた標準品にかぎり取引所で売買される。そこで直接売買に携わる人は、その取引所の会員として許可された者だけに限られる。初めは商品を市場に持ち込んで売買する現物取引だったのが、見本取引になり、いまでは見本すら見ずに銘柄(商品名)だけで取引をして、実際の商品の受け渡しは将来に行なう先物取引が中心になったそうだ。取引所の値段を安いとおもった人はだれでも会員に頼めば買えるし、値上りしたときは売れる。安く買って高く売ればそれだけ利ザヤを得られる。先物だから商品をもっていない者も売れる。値下りしてから買い戻せば値下り分だけ儲かる。株のカラ売りカラ買いと同じだ。損をしても、差金だけで決済できる。資金も商品代金全額は必要なく、一割程度の委託証拠金があれば取引に参加できる。これが投機の対象となって、仲買人の口車に乗せられた大衆が、商品相場になだれ込んで来たってわけだ。その商品をまったく欲していない人たちが差益だけを目当てに売買に参加するようになった。  本来の目的は公正な値段の形成にあった商品取引が、素人投機家を獲物にする蟻《あり》地獄になったってわけだ」 「すると悪い野郎は取引所の会員だな」 「いまも言ったようにだれでも商品取引に参加できるわけではなく、商品取引所法によって�当業者�に限られているんだが、その当業者の中に売買取引の取次ぎまたは代理が含まれているために、取引員の大多数は、その商品の生産、加工、売買などを本業とする本来の当業者ではなく、売買による利ザヤを目的とした仲買業者であるのが現実なんだ。これが一攫千金を夢見る大衆に甘い言葉を連ねて無差別に勧誘したってわけだよ」  話をしているうちに人形町に着いた。サンシャイン商事は人形町二丁目の裏通りのごみごみした一角にあった。間口一間半程度の、不動産屋の店先のようなおもむきである。ただし、不動産屋のような物件を表示するビラ紙は貼ってなく、入口のガラス戸にサンシャイン商事という文字と太陽を象《かたど》った海軍旗のような社のマークがハゲチョロの金箔《きんぱく》で刷られてあった。  ガラス戸を開いて中に入ると、スチール製のデスクが三脚とソファが二脚おかれた事務所になっていた。壁にはグラフのようなものが貼りめぐらされている。デスクには五十年輩の頭頂部が禿《は》げ上がった男と妊婦服に似た|上っ張り《スモツク》をまとった若い女がいた。  禿げ男は上目づかいに刑事たちをジロリと見上げたが、とりあえずなんの言葉もかけてこない。一目で客ではないと見て取ったのであろうが、さしあたって二人の身許についておもい当たらないといった様子である。  若い女のほうが立ち上がった。 「小森勝一さんはこちらにおられますか」  笠原が質《たず》ねると、禿げ男が猜疑《さいぎ》の色を浮かべた視線を向けて、 「あんた方はだれ?」と質ね返した。 「警察の者ですが、ちょっと小森さんにお会いしたいのです」  笠原が警察手帳をちらつかせると、相手の表情が動いた。 「小森になんの用事ですか」 「ちょっとお聞きしたいことがあるのです」  笠原は相手の顔に目を据えた。「悶々」のホステスから聞いた印象によると、この禿げ男は小森ではない。 「小森は罷《や》めましたよ」 「やめた?」 「やめたというより馘《くび》にしたのです」 「理由は?」 「客から預かった証拠金を流用して自分で売買をしたのです。穴は私が代って埋めましたから客に損はかけませんでしたが、あ、申し遅れまして、私はこの店の代表者でこういう者でございます」  と禿げ男は言って、大ぶりの名刺を差し出した。名刺には「サンシャイン商事�代表取締役|三波昌平《みなみしようへい》、東京繊維、穀物、ゴム取引所各取引員」と刷られてある。 「小森がやめたのは、いつのことですか」 「まだ一か月ほど前ですよ。腕はよかったんですが、それだけに勧誘も強引で、不祥事が発見される前も客から苦情がきていたものですから、おもいきって解雇しました」 「小森はもちろん登録されていたんでしょうね」  鈴木が言葉をはさんだ。悪質な仲買業者の中には無登録の外務員に違法な勧誘をさせておいて、売買取引契約書に印鑑を捺《お》させてから、違法行為は無資格者が勝手にやったことだと逃げを打つ者があるからである。 「もちろんです。法律が改正になってから、外務員の行為に対して、取引員が言い逃れできなくなりましたからね」 「小森の住所はわかりますか」 「いまでも同じ所にいるかどうかわかりませんが、いちおう聞いてあります」 「おしえてください」 「チャコちゃん、ちょっと社員住所録を出してくれ」  三波は、若い女の方に顎《あご》をしゃくった。社員といっても、数人であろう。チャコと呼ばれた女は、メモ帳のような小型のファイルを差し出した。 「ええとですな、小森の住所は、……ああここだ。中野区上高田一の十四の××チェリスナカノ711号室となっています」 「なんだって!?」  二人の捜査員は異口同音《いくどうおん》に驚愕《きようがく》の声をもらした。 「なにかお心当たりでもあるのですか」  捜査員の意外な反応に、三波はかえって驚いた目を向けた。 「ただいま中野区上高田のチェリスナカノとおっしゃいましたね」 「ええ、上高田一の十四の××チェリスナカノ711号室です」 「これはどういうことだ」  笠原と鈴木は、顔を見合わせた。心細い犯人の足跡《トレース》を執拗《しつよう》に追ってようやくここまでたどり着くと、意外にもトレースは犯行の原点へ戻って来た。 「小森が、矢切悦子と同じマンションに住んでたとはな」 「小森をクロと断定するのはまだ早計だろう」 「もちろんいまの段階でクロと決めつけるのは危険だ。だが、矢切悦子の常連の中には三栄物商の大江伸也がおり、大江と商品仲買業者の外務員小森勝一は密接な関係にあった。その小森と矢切悦子は同じマンションに住んでいたのだから、彼らの間にはつながりがあったとみていいだろう。もしかすると、悦子を大江に紹介したのは小森かもしれない」 「矢切悦子が大江の後に入居して来るまでは、大江と小森は同じマンションに住んでいたのだからね」 「そのとおりだよ。これは灯台|下《もと》暗しだったかもしれないな」 「とにかくチェリスナカノを当たってみようじゃないか」     4  小森勝一の部屋に踏み込む前に、チェリスナカノの管理人にたずねると、小森は独身で、711号室はべつに住人が変った気配もないし、留守の模様もないという。  711号室の前に立つと、「小森」という表札が掲げられてある。奥の方でテレビが鳴っている。——やっこさん、いるな——二人は目顔でうなずき合って、笠原がブザーを押した。室内に人の動く気配がした。刑事たちは、身構えた。ベランダからロープにでも伝わらないかぎり、玄関口以外に逃げ道のないことは、管理人から確かめてある。  地上まで届くような長いロープは用意してないだろうし、途中階のベランダまで逃れてもマンションの出入口は応援を求めた派出所警官によって閉塞《へいそく》されている。  ドアの内側から廊下の様子をうかがっている気配がわかった。笠原は再度ブザーを押した。 「どなた?」  内側から男の声が誰何《すいか》した。 「小森勝一さんですね」と問いかけると一拍の沈黙があってから、そうだという答えが返ってきた。 「警察の者です」  室内で息を呑《の》む気配がした。 「ちょっとお質ねしたいことがあります。ここを開けてくれませんか」 「警察がなんの用ですか」  声が少しかすれている。 「ある事件の捜査の参考にお質ねしたいことがあるのです」 「おれはなにも悪いことをやっていない」 「それはけっこうです。それではご協力ください」 「警察に訊《き》かれるようなことはなにもない」 「私どもにはあるのです。ドアを開けないと、逮捕の理由になるかもしれませんよ」  内側で渋々ロックをはずす気配がして、ドアがうす目に開かれた。すかさず笠原が爪先をさし込んで、ドアを閉められないようにする。アメリカなら無差別にピストルを構えているところだが、日本では容疑者にまだそこまでの構えはしない。  三十前後の無精《ぶしよう》ひげをはやした青白い顔の男がそこに立っていた。ズボンは穿《は》いているが、上半身はアンダーシャツだけである。数日間外出せず、家の中でくすぶっていた風体であった。 「いったい警察がなんの用事です」  小森は精々仏頂面をして言ったが、不安の色を拭《ぬぐ》い落とせない。 「あなたは三栄物商の大江伸也さんをご存じですね」 「ええ知ってます。私がサンシャイン商事に勤めていたころのお客ですが」 「それでは矢切悦子は?」 「矢切悦子?」 「トルコ風呂胡蝶陣のホステスで、このマンション506号室の住人です」 「ああ、�揚羽�ですね、知らないこともないが」 「どの程度の知り合いでしたか」 「それはそのう……まあ胡蝶陣になん度か行ったことがあるからね」 「つまり馴染《なじ》みだったというわけですね」  小森は渋々うなずいた。 「大江さんの部屋に矢切悦子が住むようになったのは、あなたが仲介したのでしょう」 「特にぼくが仲介したわけではないが、大江さんとは同じマンションに住んでいたので、ぼくが誘って胡蝶陣へ通っている間に二人の間でそんな取引をしたらしい」 「あなたは彼女が殺されたとき、なぜ知り合いだと届け出なかったのですか」 「かかり合いになりたくなかったからだ」 「矢切悦子がこのマンションに住むようになってからも関係をもっていましたか」 「とんでもない! 彼女はトルコから足を洗って、こちらへ移り住んだのだ。ここに入居するにあたって、従来の客とホステスの関係はなかったことにしてくれと強く言われた。彼女が入居してからは実際になんの関係もなかった。稀《まれ》に出会ってもたがいに知らん顔をしていたくらいだった」 「馴染みの客とホステスがそんな風に割り切れるものですかな。トルコ嬢というものは、自分の職業を隠すために不便に耐えて、勤め先からわざわざ遠い所に住むというじゃありませんか。それが自分の過去を知っている客が住んでいる同じマンションに入居したというのは解《げ》せない」 「いったいなにを言いたいのだ。おそらく彼女は大江さんから有利な条件で部屋を借りるか譲ってもらったんだろう。彼女の心理までおれは知らないよ」 「大きな声を出さなくとも聞こえます。それではうかがいますが、あなたは矢切悦子に商品相場を勧《すす》めたでしょうね」 「二、三度勧誘したことはあるが、彼女は用心深くて、決して手を出さなかった」 「それでは逆に彼女から割債を買えと勧められたことはありませんか」 「わりさい?」 「割引債券ですよ」 「割債をどうして彼女が?」 「勧められたことがありましたか、ありませんか」 「ありません」 「商品取引の証拠金には、割債を当てることもできるんでしょう」 「有価証券なら充当できる」 「あなたは、矢切悦子に商品取引を勧めて、証拠金の代りに割債を預かりませんでしたか」 「そんなもの預からないと言ってるだろ」  割債に関する追及はここで頓挫《とんざ》した。小森と悦子の間に割債授受の事実が確かめられていないのだから、突っぱねられればそれまでである。 「あなたはなぜサンシャイン商事をやめたのですか」  笠原は質問の方向を変えた。 「だいたいの事情はすでに聞いてきたんだろう」 「まあね、我々にはその方面から別件という手であなたの身柄を拘束してじっくりお質ねすることもできます」 「なんだって!?」  小森の顔色が変った。 「まあなるべくそういう手は使いたくないので、素直におっしゃってください」 「おれは素直に話しているよ」 「我々にはとても素直とはおもえませんね。まずあなたは矢切悦子とかなり親しい関係にあったのに、彼女が殺されたときそれを秘匿し通した」 「だから言っただろう。かかり合いたくなかったんだ」 「自分に疚《やま》しいところがなければ、名乗り出るのが当然の人情だとおもいますがね。それを黙っていたというのは、脛《すね》に傷をもっている証拠ではないのか」 「おれはなにも疚しいところなんかないぞ!」 「それでは改めて聞くが三月三十日の夜十一時前後はどこにいたかね」 「いきなり聞かれてもおもいだせない」 「あんたの身のためにおもいだすんだね」 「たぶん家にいたとおもうよ。その時間にはたいてい家に帰っている」 「あんたの部屋から矢切悦子の部屋まで五、六分もあれば往復できるな」 「それはどういう意味だ?」 「あんたは、矢切悦子が殺されたときに現場にいたんじゃないのかね」 「突然なにを言いだすんだ」  小森の顔色が大きく動いた。 「犯人の自供によれば、犯行後死体にタオルケットをかけたそうだ。ところが死体には毛布がかかっていた。室内にタオルケットなんかなかった。犯人がいまさらそんな嘘《うそ》を吐《つ》いてもなにも得はない。するとだれかが犯行直後、彼女の部屋へ忍び込んで来て、タオルケットと毛布をかけ替えてから、タオルケットだけ持ち去ったとしか考えられない。タオルケットなんかかかえてうろうろしていたら人目につく。しかしあんただったら人に見られることなく自室まで運べたかもしれない。なぜそんなことをしたのか。それは、忍び込んで来た者が、そのタオルケットを使用したことがあったからだ。タオルケットによって、彼女との関係を知られたくなかった。つまり、あんたのいうかかり合いたくないというやつだ」  笠原は、言葉遣いをくずして一気にたたみかけた。 「そんなことはおれは知らない。死体に毛布がかけられていようと、タオルケットとやらがかかっていようとおれの知ったことじゃない。だいいちタオルケットなんて、どこの家にだってある。仮にそんなものがあったとしても、どうしておれが使ったと言えるんだ」 「タオルケットは肌に直接触れるもんだよ。髪の毛一本まぎれ込んでいても、太さや色素量から使用主を特定できる」 「とにかくおれはそんなものは知らない。かかり合いたくないおれが、彼女に近づくはずがないだろう。デッチ上げはやめてくれ」 「殺されたから、かかり合いになりたくなかったんだろう。あんたは部屋に入って来てから、彼女が殺されているのを知った。そしてタオルケットを持ち出したんだ」 「ひどい言いがかりだ」 「あんた本当にかかり合いになりたくなかっただけかね」 「それはどういう意味だ」  小森の身体がピクンと震えたようである。 「タオルケットを持ち去るという行為には、どう見ても、かかり合いを避ける以上のものがある」 「おれはタオルケットなんか知らないし、彼女の部屋へ行ってないって言ってるだろう」 「それでは仮にXとしておこう。Xは故意か偶然か犯人が立ち去った後、悦子の部屋へやって来た。Xは彼女の死体を見つけて初めは仰天した。次にタオルケットを持って逃げ出した。だがXが死体に加えた�変更�は本当にこれだけだったのか。Xにとって、悦子は死んでくれたほうが都合のよい存在だったとしたらどうか。そして死んだとおもった彼女が実は仮死で、Xの前で息を吹き返しかけたとしたらどうだろう。Xはこの千載一遇のチャンスを利用して、彼女に止《と》どめを刺したのではないだろうか。Xが死体に加えた変更には、タオルケットと毛布をかけ替えただけではなく、このような恐しい行為が含まれていなかったか」 「でたらめもいいかげんにしろ!」 「あんたがやったとは言ってないよ。Xと仮定しての話だ」 「そ、そ、それは、いかにもおれがやったような目をして言うからだよ」 「ほう、私はそんな目をしたつもりはないがね。まあ終りまで聞きなさい。たとえXがかかり合いたくなかったとしても、知り合いの女が殺されているのを見れば、警察に通報ぐらいしてやるのが人情じゃないかね。通報なら匿名だってできるんだ。Xがそれをしなかったということは、かかり合い以上のものがあったと考えられるんだがね」 「そんなXなんて警察がデッチ上げたものだ」 「デッチ上げじゃないね。死人がタオルケットと毛布をかけ替えるはずがない」 「犯人のおもいちがいだ」 「おもいちがいとは考えられない。タオルケットと毛布は色も材質もまったくちがうんだ」 「それがおれにどんな関係があるというんだ。おれは揚羽がトルコのホステスをしていたころの客にすぎない」 「あんたがそう言い張るならそれでいい。しかし叩《たた》けば埃《ほこり》の出そうな体じゃないか。このマンションなんかも豪勢なもんだ。サンシャイン商事って、そんなに給料くれたのかね」 「おれがどんな所に住もうと、余計なおせわだ。用がすんだのなら帰ってくれ」  小森は、虚勢を張ったが、笠原の言葉に弱みを突かれた様子であった。  その日の対決はもの別れに終った。刑事らは小森クロの感触を得たが、決め手をもっていなかった。 「小森に当たるのは、少し早すぎたんじゃないかな」  鈴木は言った。 「そんなことはないよ。やっこさん、我々が行ったので、かなりショックをうけていた。彼が偽造団の一味なら、必ずボスに我々が来たことを注進するはずだ。やつを張っていれば、一味を芋づる式に手繰り出せる」 「そうか。やっこさんに刺戟《しげき》をあたえたってわけだな」 「しかしそれから後が難しい。小森や一味が矢切悦子を殺《や》ったという証拠はなにもないんだ。唯一の証拠品と言えるものは、例のタオルケットだが、当然処分してしまっているだろう。それにタオルケットが残っていたところで殺人の証拠にはならない。小森、いやXが止どめを刺したというのは、あくまでも臆測《おくそく》にすぎないのだからな」 「すると悦子殺しは、結局和村の仕業《しわざ》で、小森を追いつめたところで有価証券偽造とその行使だけか」 「和村には、殺意は認められないかもしれない。セックスプレイの度が過ぎて生じた結果だからね、検察も弱気だ。あれじゃあ過失致死だね」 「永瀬広美の件はどうなるんだ」 「和村が隠したのでないことは確かだ。するとXが隠したということになるのだが、いまの段階では、悦子殺しさえ曖昧《あいまい》なんだから、とても広美の一件まで手がまわらない」 「あの姉さんが可哀想だな」  二人は一瞬、妹の行方を懸命に探している永瀬雅美の輪郭のはっきりした顔を彷彿《ほうふつ》させた。意志的な表情の底に、肉親の安否に向ける気遣いが痛々しく覗《のぞ》いていた。彼女に早く妹の消息を伝えてやりたい。吉凶いずれにしても早く決着をつけてやりたかった。  しかしそれはやはりアウトサイダーの考えというものだろう。たとえ生《な》ま殺しの状態におかれていても、骨肉の身としては、どこかで無事に生きているとおもっていたいにちがいない。  混線した事故     1  コールブザーが鳴ったので、永瀬雅美は足音を忍ばせてドアスコープの前に歩み寄った。最近、各種セールスマンの訪問が多いので、相手によっては居留守をきめこむことにしている。  ドアスコープの狭い視野の中に、見おぼえのある姿が佇《たたず》んでいる。 「あら、お隣りさん」  雅美は急いでロックを解き、ドアチェーンをはずした。 「お邪魔します。今日お留守の間に配達された品物を預かっておりましたので」  愛想のいい笑顔を浮かべて小包みを差しだしたのは、隣人の武石静也である。 「どうもお手数をかけてすみません」  雅美は恐縮して小包みをうけ取った。差出人を見ると、ある俳優からである。彼女を可愛がってくれていて、旅先から土地の名物を送ったと葉書がきていたから、それが留守中に届けられたのであろう。 「いいえ、私が留守のときはおねがいすることになるかもしれません」  武石は如才《じよさい》なく言った。ふたたびかぐわしい香りが鼻先をかすめた。 「その後、お妹さんの消息はありましたか」  武石は小包みを渡した後も去りがてにして、広美のその後を話題にした。 「それがかいもくなんです。いまはせめて無事であって欲しいと祈るだけですわ」 「きっとご無事でどこかに元気に過ごしておられますよ」 「本当にそうならいいのですけど」 「女性には、肉親にも言えないような秘密があるものですからね」 「妹に、私にも話せないような秘密の生活があったとおっしゃるのですか」  もちろんそれは平沢敏也以外のことを意味するが、武石にはその質問の奥の意味はわからないはずである。 「そういう可能性もなかったとは言えません。あまりお気になさらないほうがよろしいですよ」 「ありがとうございます」 「これから私にできることがありましたら、どうぞ申しつけてください。あ、それからこれは先日お約束した香水です。あなたの好みがわからなかったので、私の想像でデザインしてみました。験《ため》しに使っていただけたらとても嬉《うれ》しいです」  武石はてれ臭そうに言って、さりげなく雅美の手に香水のボトルを渡した。 「まあ、こんなことをしていただいて申しわけありませんわ」 「お気に入らなかったらお捨てください。またべつのものをデザインしてみます。あなたにはきっと濃厚なものより、爽《さわ》やかで淡泊な香りが合うとおもったのですが」 「本当にお心遣いありがとうございます」 「先日、管理人からチラと聞いたのですが、なんでもお妹さんは、隣りのマンションの女が殺された現場をたまたま目撃されたようですね」  武石は、なにやかやと口実をもうけて雅美と話をしたい様子であった。 「管理人がそんなことを言ったのですか」  おしゃべりが、——と雅美は内心いまいましくおもった。管理人には囮広告の件もあるので、ある程度事情を話してある。 「あの女の部屋は、私の所からも覗けるので、ちょっと関心はもっていたのです。いや関心といいましてもべつにいやらしいものではないのですが、私もたまたま、あることを目撃しましたのでね」 「あることを目撃? いったいなにを目撃されたのですか」 「いや、目撃と言うほど大|袈裟《げさ》なことではないのです。まあ風のいたずらですか」 「風のいたずら?」 「ええ。あれは七階の十一号でしたが、ベランダに乾してあった毛布かシーツのようなものが風にさらわれて、ちょうど殺された女の部屋のベランダの中に落ちたのです。ただそれだけのことですが、その後、部屋の主が殺されて発見されたので、あの毛布かシーツはどうなったかなとおもって」 「それ、いつごろのことですか」 「そうですね、たしか三月の下旬、そうだなあ、二十五、六日ごろだとおもいます」 「それでは妹が殺人を目撃する少し前ごろですね」 「前であることはたしかですよ。女の姿が窓辺にチラチラしていたのをおぼえております」 「七階の十一号ってよくわかりましたわね」 「殺された女《ひと》の部屋が506号でしょう。その位置から数えたんです」 「殺された女の人は、飛んできた毛布かシーツを、七階の持ち主に返したでしょうか」 「さあ、そこまでは知りません。持ち主がわかれば返したとおもいますが、おそらく彼女にはどこから飛んできたのかわからなかったんじゃありませんか」 「武石さんは、おしえてあげなかったのですか」 「そのことはいちおう考えてみたのですが、変な誤解もうけたくなかったものですからね。なにも言いませんでした」  笠原刑事の話によると、和村は矢切悦子を殺害した(と信じた)後、死体にタオルケットをかけたと主張しているのに、それが発見されたときは毛布がかけられていたという。  和村のおもいちがいでなければ、和村が立ち去った後、何者かが現場にやって来て、死体に、�変更�を加え、タオルケットを持ち去ったという推測が可能になった。警察はここで第三者の介入を考えたのであるが、武石が目撃したという七階のタオルケットの所有者と、矢切悦子の間になんらかのつながりがあり、所有者が和村の後、悦子の部屋へやって来て、自分のタオルケットをかけて殺されている彼女の死体を発見したとしたらどうだろう。  身に疚《やま》しいところがなければ、直ちに警察に届け出るだろうが、脛《すね》に傷をもっていれば、タオルケットをもって自室へ逃げたかもしれない。五階と七階の間なら、タオルケットをかかえて逃げる姿を見られなかったとしても不思議はない。  つまり、七階のタオルケットの主は、矢切悦子に対してなにか後ろ暗いものをかかえていると言えないか。 「それではぼくはこれで」  玄関で立ち話をしている間に、自分一人の思考の中に沈み込んでしまった雅美に、武石は話の接《つ》ぎ穂を失った。 「どうもたいへん失礼いたしました。ただいま散らかしておりますので、また改めてお礼にうかがいますわ」  雅美は小包みを預かっていてもらったり、香水をもらったりしたのに、あまりに愛想が無いのを悟った。しかし、女の一人住まいの部屋へ、しかも訪問をまったく予期していなかった所へまだあまりよく知らない隣人を迎え入れることにためらいをおぼえた。 「お礼なんてとんでもない。でもよろしかったら、いつでも遊びにいらしてください。美味《おいし》いコーヒーと珍しいアルバムがあります」  武石は、未練たっぷりの風情で帰って行った。  永瀬雅美から「風に飛ばされたタオルケット」の一件を聞いた笠原は驚いた。風のいたずらにしては、あまりにも皮肉である。 「それは本当ですか」 「見ていた人がまちがいなく七階の部屋から、矢切悦子のベランダに飛んだと言いました」 「しかし、七階の部屋だけでは、711号と特定できないでしょう」 「見ていた人はタオルケットを飛ばしたベランダもおぼえていました。矢切悦子の部屋の位置から数えてそれはたしかに711号室のベランダです」 「711号か」 「711号になにかお心当たりがあるのですか」  雅美は、刑事の表情から敏感になにかを察したらしい。笠原は、この娘なら話してもよいと判断した。 「そういう人が住んでおりましたの。それでは、小森がタオルケットを持ち去ったことは確実ですね。ということは小森が、和村の後に悦子の部屋へ来た……」 「目撃者の証言があれば、捜査令状を取れます。直ちに小森の部屋を捜索してみましょう。しかし、おそらくタオルケットは始末した後でしょうね」 「始末した後だったらどういうことになりますの」 「どうにもなりませんね。小森には手をつけられません」 「でも債券偽造団の一味なんでしょ」 「それも確証はありません。残るは商品取引の証拠金の横領容疑ですが、これも示談になっているのですよ。まあ突っつけばなにか出てくるでしょうがね、我々も別件の奥の手はなるべく使いたくないのです」  永瀬雅美から提供された情報に基いて、小森勝一の部屋が捜索されたが、予期したとおり、タオルケットは発見されなかった。また偽造債券や偽造団の一味と推測させるような資料は、いっさい見当たらなかった。  小森をめぐる状況にはきわめて疑わしいものがあったが、その首根を押える資料に欠けていた。捜査は壁に阻《はば》まれた。     2  佐久間周平《さくましゆうへい》は、電話口でいらいらしていた。先方からかけてきながら、電話口でこんなに待たせるとは失礼である。よほど途中で切ってしまおうかとおもったが、日ごろせわになっている相手なのでそうもならない。家人にダイヤルさせておいて、本人はどこかへ行ってしまったのだろう。  電話の状態がよくないことも、よけい気分をいらだたせる。接続状態が悪いのか、耳ざわりな雑音が多い。突然人の声が入ってきた。一瞬相手かとおもったが、混線であった。  通話中の混線は不愉快であるが、待たされている間はよい退屈しのぎになる。こちらが黙しているので、先方には混線していることがわからない。それは電話線を通して他人の私生活の覗き込みである。  ——小森がパクられたよ。  ——逮捕されたわけじゃないでしょう。  ——警察が彼をマークしたんだ。我々の名前を漏らすのは、時間の問題だとおもうがね。  ——警察は、どの線から彼をマークしたのですか?  ——商品相場を勧誘したホステスから、彼の名が浮かんだらしい。  ——だからあまりガメツく勧誘するなと言っておいたのに。しかし、商品相場と例のニセ債ではすぐには結びつかんでしょう。  ——割債が、商品取引の証拠金の代りになると知って、小森に目をつけた様子だよ。  ——それじゃあまだ致命的じゃない。彼女と小森の間には直接のつながりはないのだから。  ——そんな呑気《のんき》なことを言ってる場合じゃないだろう。小森と彼女は同じマンションに住んでるんだよ。  ——同じマンションに住んでいても、かまわないでしょう。そういう偶然だってある。  ——きみは天下太平だな。小森と大江はおおっぴらにつき合っていた。大江に彼女を紹介したのは小森じゃないか。彼女は大江の部屋のあとに入居してるんだぞ。これでも小森と彼女の間に直接つながりはないと言えるのかね。  ——そうか。大江の部屋に住んでいたのを忘れていました。  ——小森がおれたちの名前を吐いたら万事休すだ。  ——警察は、なんの疑いで小森をマークしたのです?  ——もちろん債券偽造と殺人さ。  ——それだったら、警察も攻め口がないでしょう。小森の許には債券はおいてないし、彼が彼女の口を封じたという証拠はなにもありません。ただ同じマンションに住んでいたというだけのことです。  ——私は、そんなに楽観していられないね。彼が口を割ったら、きみも私も最後なんだよ。  ——小森が口を割らないように釘《くぎ》を刺しておきましょう。  ——いま彼に連絡することは危険だよ。  ——じゃあどうすればいいんですか。  ——だからきみに相談しているんだ。小森とは早く手を切らなければいけないと言っていただろう。  ——いまさらそんなこと言ってもはじまりません。だいたいこの計画は彼が持ちかけたものですよ。  ——いまは、小森が交通事故でもおこしてくれないかと願うばかりだね。  ——いまの言葉を小森が聞いたら、警察にすべてをしゃべっちゃいますよ。  ——とにかく会って相談したい。すぐ来てくれないか。  ——例のプリンスですね。  ——二階の奥で待ってるよ。  ——三十分で行きます。  ここで電話は切れた。その後で、佐久間の相手がようやく電話口に出た。佐久間ははからずも混線によって盗聴した形になったいまの会話が気になって、肝腎《かんじん》の相手の話がまったく耳に入らない。  通話が終った後も、自分には無関係の混線電話の内容が気になってならない。 (なんだか穏やかではない話をしていたな。債券偽造だの、殺人だのと。いったいどういうことなんだろう?)  いきなり飛び込んできた混線電話だったために、聞き漏らしたところがあるかもしれないが、なんでもコモリとかいう男が警察から債券偽造と殺人の疑いをもたれてマークされたのを一味の者たちが対策を協議していた様子である。  そうだとすると、とんでもない話を傍聴したものである。コモリという人物が口を割れば、通話していた二人が万事休すということであった。  ——万事休すになったところで、自分には関係ないことだ——  佐久間は、首を振って、いまの混線電話の内容を忘れようとした。     3  その夜遅く雅美が帰宅するのを待ちかまえていたように一本の電話が入ってきた。最近いたずら電話やまちがい電話がよくかかってくるので、雅美はわざと数回コールサインを見送ってから、「お待たせしました」と言って応答するようにしている。「はい」ではぶっきらぼうにすぎるし、「はいはい」は失礼である。「はい、永瀬です」と答えたいところを、正体不明の相手に名乗る無用心を是正した知恵であった。 「もしもしお宅はコモリさんですか」  中年の男のものらしいややくぐもったような声が問いかけてきた。 「いいえちがいます」 「あのコモリショウイチさんとちがいますか」 「いいえ」  と否定してから雅美は愕然とした。小森勝一と言えば矢切悦子の部屋にタオルケットを飛ばした711号室の住人ではないか。同じマンションならとにかく、隣りのマンションの住人の、しかも矢切悦子の死に重要なつながりをもつ疑いのある人物の電話番号とまちがえたのは、単なる偶然であろうか。おそらく電話番号もかけ離れているにちがいない。 「おかしいなあ、失礼ですがお宅はどちら様でしょうか」  相手がさりげなく質《たず》ねてきた。雅美は一瞬に悟った。相手は、雅美が囮《おとり》広告のスポンサーであることを平沢から探り出して、小森の名前にどんな反応をしめすか探りを入れてきたのである。  雅美が広告のスポンサーならば、小森を知っているはずだ。いや「小森を見た」はずである。——私もあのときチェリスナカノ506を見ていた——という広告文書の客体は小森である。小森の身許と、矢切悦子とのつながりはすでに明らかにされている。  電話の主は、小森の一味か、あるいは小森自身かもしれない。とにかく敵は小森の名を雅美にぶつけて、その反応を見届けようとしているのだろう。窓から小森の部屋をうかがうと、暗く閉ざされている。しかし、それは不在のしるしとは言えない。暗闇《くらやみ》の中から雅美の反応をうかがいながら電話をしているかもしれない。  ——これはうっかりした返事はできないわ——  雅美は咄嗟《とつさ》に覚悟を定めると、 「あのう何番へおかけですか」と聞き返した。  相手が言った番号は末尾の番号が二番ちがいである。素早くそれをメモして、 「うちの番号ではありません。まちがいですね」 「あ、これはどうも失礼いたしました。この番号を矢切さんから聞いたものですから」  これで相手が小森一味であることが確定した。相手も危険を冒している。それほど囮広告が気になるのであろう。すでに小森が正体を現わしてしまったので、はっきりと広告の意図を聞けないもどかしさがある。 「あなたはどちら様ですか」  雅美はついに反応した。 「どうも失礼いたしました」相手が雅美の問を躱《かわ》して電話を切りかけたとき、その背後から遠いアナウンスが入った。  ——ガス本管工事のためガスの閉鎖をお報らせいたします——  電話が切れた後も、雅美は、しばらく送受器を握りしめたまま立ちつくしていた。とうとう敵は雅美に触手をのばしてきた。雅美の問いかけに応えず電話を切ったのは、小森に対する十分の反応を見届けたからであろう。 (私がスポンサーであることは、どこから知ったのだろう? おそらく平沢から聞いたんだわ)  雅美は、平沢に再度の怪電話があったときは、自分の名前を明かしてもよいと言ったことをおもいだした。自ら言いだしたことだが、このように敵から明からさまにマークされてみると、体の芯《しん》から震えが湧《わ》いてくる。  とにかく平沢に確かめてみることにした。この時間では自宅にいるはずであるが、そんなことは斟酌《しんしやく》していられない。  幸いに平沢が電話に出た。突然の雅美からの電話に平沢はうろたえていた。彼の自宅に電話をしたのは初めてである。 「その後電話はないよ。スポンサーとしてのきみの名前なんかだれにも言ってない」  平沢は家人を気にして抑えた声で言った。 「それじゃあどこから私のことを知ったのかしら?」 「そんなことぼくにもわからないよ。やっぱりまちがい電話を考えすぎたんだ。ここへ電話をしてきちゃあまずいんだよ。その件に関しては明日役所で詳しくうかがいましょう」  細君が近くへ来たのか、平沢はにわかによそよそしい声になって一方的に電話を切った。  平沢がおしえたのでなければ、どこから雅美の存在を知ったのか。広美をどうかした犯人なら、広美の部屋に移り住んで来ている雅美をマークするであろう。しかしそれだけのことで囮広告と結びつけるだろうか。チェリスナカノ506号室を覗いていた可能性のある者は他にもある。 (そうだわ、広告名義の平沢と私を結びつけたんだわ)  雅美はようやく納得した。広美と平沢の関係を敵は探り出し、平沢のバックにいた雅美を嗅《か》ぎ出したのであろう。こちらが敵に罠を仕掛けたとおもっていたのが、逆に敵からずっと監視されていたのである。現にこうしている間も、闇の奥から雅美の一挙手一投足をじっと見まもっている。  雅美は恐怖に鷲《わし》づかみにされていた。これまで精々《せいぜい》強がっていたが、それはまだ敵と直接対決せずに、妹の行方を捜すという多分に悲壮ぶった興奮に駆り立てられていたせいである。  いま自分の身辺を守ってくれるナイトはいない。二十四歳の未婚の女がたった一人凶悪な犯罪者一味の前に無防備で投げ出されている。恐怖が目ざめてみれば、二十四歳の未熟さと、弱さだけが、凶悪な敵の前で露出されているだけである。 「だれか助けて」  雅美は恐怖のあまり孤独の室内で叫んだ。隣りの武石静也に救いを求めたくとも、ドアの外に敵が息を殺してじっとたたずんでいるような気がして廊下へ出られない。ドアや窓のロックを確かめてじっと身体をすくめている以外にない。 「そうだわ。いまの電話のことを刑事さんに連絡しておこう」  雅美はようやく一か所だけ頼っていくところをおもいだした。笠原の連絡先は聞いてある。この時間にいるかどうかわからないが、とにかく電話するだけしてみよう。 (おねがい、いていて。いてちょうだい)  必死に祈りながらダイヤルした。無愛想な声が応答して間もなく聞きおぼえのある笠原の声が電話口に出た。 「ああいらしてくださってよかったわ」  おもわず安堵《あんど》の吐息が出た。 「こんな時間にいったいどうなさったのです」  笠原は、さすがに職業柄、なにかあったと感じ取ったらしい。 「犯人から電話がきたんです」 「犯人? どういうことですか。落ち着いて詳しく話してください」  笠原の声を聞いているうちに恐怖がしだいに鎮《しず》められてくるようであった。 「相手はたしかにコモリショウイチと言ったのですね」 「はい」 「いま電話帳を見ているのですが、都内には小森勝一はチェリスナカノ711号室の一人しかいませんね。その他小森正一、省一、昭一の三人がいるが、あなたに告げた電話番号にはまったく該当しない。もちろん小森勝一の番号とも全然ちがう。その他にも古森、古守、児森、児守などが考えられるが、まず該当者はいないでしょうね。あなたのおっしゃるとおり、敵は小森勝一に対するあなたの反応を見ようとしたのですよ」 「刑事さん、私、恐いわ」 「大丈夫。ちゃんと鍵《かぎ》をかけて、夜は外へ出ないようにしていなさい。囮広告が効いた証拠ですよ。はっきりと広告意図を聞かなかったのは、敵も及び腰だからです」 「平沢にははっきり聞いてきたのに、どうして私には、そんな遠まわしに来たのでしょう」 「小森がマークされてしまったからです。平沢に電話してきたのは小森でしょう。小森が正体を晒《さら》してしまったので、敵としてはあの広告を気にしている者がまだいることを悟られたくない。しかし平沢のバックにいるあなたが気になる。あなたが小森勝一に反応すれば、あなたが広告のスポンサーであることが確かめられる」 「でも、危険を冒してそんなことを確かめる必要はないとおもうわ。犯人なら広美の姉の私の存在と平沢とのつながりはわかっているはずですもの。平沢のバックに広告スポンサーがいるとすれば、私以外に考えられないんです」 「なるほど、そう言われてみればそのとおりだ。わざわざ確かめるまでもないことをどうして確かめようとしたんだろう。とにかくこれからすぐに小森を当たってみます。おそらく彼は電話の主ではないでしょう」 「いまおもいだしたことがあります。怪電話を小森が家からかけたのでないことだけはたしかです」 「どうしてそう言えるのですか」 「相手が電話を切るとき、ガス管工事でガスを閉鎖するという広報車のアナウンスがバックに入ったのです。小森の家は隣りのマンションですから、そんなアナウンスがあれば、私にも聞こえたはずです」 「もっともですね。ますます小森のバックにいる黒幕の仕業くさくなった。当分昼間でも外出するときは身辺に気をつけてください。だからといってあまり神経質になることはありません。若い女性として相応の注意をしてくださればよいのです。ぼくもそれとなく気をつけています。なにかあったらすぐ連絡してください。ぼくがいなくともわかるようにしておきますから」     4  笠原との通話中まぎれていた恐怖が、電話を切って孤独の空間の中に一人じっとうずくまっていると、またぞろ頭をもたげてきた。敵は雅美の居所を知っているのに、こちらには敵の居場所がわからない。その正体もわからない。ただ一方的に敵の射程に晒されている恐怖は、はかり難い。それは目あきと盲目の人の戦いと同じである。いや、雅美には、敵の気配すら感じ取れないのだ。  今夜一晩だけでも友人か知り合いの家に泊めてもらおうかとおもった。だが、そこへ行くまでが危ない。あるいは先刻の電話は、獲物を巣から追い出すための陽動作戦かもしれない。  笠原も夜間は外へ出ないようにと言っていた。それにしても、どこにいるかわからない正体不明の敵に備えて、自分の殻《から》の中に閉じこもっているのは、精神の拷問である。  朝までの長い時間はたして耐えられるか。しかもそれは明日も明後日の夜もつづくのである。雅美が居ても立ってもいられなくなったとき、玄関からコールブザーが鳴った。雅美は一瞬身体を硬くした。こんな時間に訪問者の約束はない。セールスマンの来る時間でもない。息を殺して気配をうかがっていると、今度はノックに変った。  そっとドアの内側に忍び寄ってドアスコープから覗くと、武石静也の顔が笑っていた。彼女に覗かれているのを意識しているらしい。雅美が全身の緊張を抜いてドアを開くと、 「こんな遅い時間に失礼します。実は郷里から野菜をたくさん送ってきましてね、一人ではとても食べきれないので少し手伝っていただきたいのです」  武石はてれ臭げに笑いながら、畠《はたけ》から掘り出してきたばかりのような根のついたねぎ、人参《にんじん》、ごぼうなどを差し出した。 「まあこんなに。せっかくおくにから送ってくださったものを、悪いわ」  雅美が恐縮すると、 「生家が百姓ですので、毎年いまごろになると送ってくれるのです。どうせ私は外食で、腐らせてしまうので、無駄なことをするなと言うのですが、おふくろがせっせと送りつけてくるのですよ。もしご迷惑でなかったら、少し手伝ってくれませんか。珍しい物ではありませんが、農薬を使わないおふくろ手づくりの野菜ですから、安心して召上がれます」 「そんな手づくりの品を横奪りしてはお母様に申しわけないですわ」 「いやいや、おふくろもあなたに召上がっていただければ喜びます」  怪電話の後、見えない敵の恐怖に苛《さいな》まれていただけに、武石の郷里の土のにおいをつけた野菜の贈り物は、嬉しかった。 「ちょっとお上がりになりません?」  雅美は、嬉しさの余り時もわきまえずに誘ってしまった。 「いえ、もう遅いですから」  武石のほうが遠慮した。 「よろしかったらどうぞ。コーヒーでも淹《い》れますわ」  恐怖が雅美の若い女としての慎みを忘れさせていた。この際、武石に少しでもいっしょにいてもらいたかった。 「それではほんの少しだけお邪魔させていただきます」  武石は遠慮がちに、しかし若い女の住居に踏み入る好奇心をあらわにしめしながら入って来た。 「同じ造りの部屋のはずなのに、住む人によってこうもちがうものですかね」  武石は、雅美の部屋のたたずまいに素直な愕《おどろ》きをしめした。 「散らかしていてごめんなさい」 「とんでもない! こちらのお部屋に比べたら、私のところなんか豚小屋です」  武石の身辺からかすかにかぐわしい香りが漂った。その微香によって、恐怖に凍りついていた彼女の部屋の空気が柔らかく解けるようである。コーヒーの香ばしさが部屋に人肌のぬくもりをあたえる。  間もなく彼らはコーヒーを囲んで向かい合った。 「ちょっとお顔の色が悪いようですが」  武石は、コーヒーを一口すすってから、雅美をうかがい見るようにして言った。 「わかります?」 「ええ、さっきドアを開けられたとき、真青に見えましたよ。いまはだいぶよくなったようですが」 「実は、変な電話があったんです」  雅美は、先刻の怪電話の一件を武石に話した。 「そうだったのですか。それは恐ろしかったでしょう。しかしぼくが隣りにいますから、なにかあったら、すぐに飛んで来ますよ。警察より早く駆けつけられます」 「武石さんがいらっしゃるので、とても心強くおもいます。でも、助けを呼べないような状態にされたらとおもうと恐ろしくて」 「ちゃんと鍵をかけていれば大丈夫ですよ。このマンションはロックがしっかりしていますから」 「本当にどこから狙《ねら》われているのかわからないなんて、拷問ですわ」 「そんなに神経質になってはいけません。ただのいたずら電話かもしれない。最近、その種のいたずらが多いと聞いています」  武石には、詳しい事情は話してないが、ただのいたずら電話でないことは雅美にはわかっている。 「もしおさしつかえなかったら、もう少しここでお話していっていただけませんか」  雅美は独り取り残される恐怖と不安に耐えられず、なりふり構わず武石を引き留めていた。 「私はいっこうにかまいませんよ。夜分女性の部屋に男がお邪魔してご迷惑なのは、あなたのほうではありませんか」  武石は、むしろとまどったような表情で言った。 「私がおねがいしていることですわ」  雅美の目には、いま武石がこの上なく頼もしいナイトにうつった。  小森の部屋の窓は、その夜ついに灯ることがなかった。警察の監視の隙《すき》をついて、小森はその夜からいずこかへ失踪《しつそう》してしまったのである。小森が消えたという事実は、彼自身が身の危険をおぼえたか、あるいは危機を意識した一味の意志が働いたことを意味する。  捜査本部に不安が高まっていた。     5  それは奇妙な交通事故であった。かなり傾斜の強い坂の下を一車線幅の道が走っている。道は断崖《だんがい》に沿ってつけられ、崖《がけ》の下は磯岩が現われた海であった。波は絶えず岩を洗い、牙《きば》のように研磨している。  崖を伝う道路は、幹線道路と岬をつなぐ近道なので、わりあい車の交通がある。しかしそれも昼の間だけで、日が落ちると、夕凪《ゆうなぎ》のように絶える。  崖縁の道路にT字形に交わる坂は、地元の車が駐車場代わりに使うくらいで、ほとんど遊んでいた。以前、ここに駐めていた観光客の車が、サイドブレーキの引き方が甘かったのか、自然に動きだして、坂を転がり、ガードレールを突き破って海に転落した事故があってから、地元警察では、ここに駐める車に|斜め駐車《アングルパーキング》や、横列駐車《アロングサイドパーキング》を呼びかけていた。  岬の反対側に大きな海水浴場があるので、夏場はこの地域の民宿も満員になる。小規模ながらこちらにも海水浴場はあるが、磯岩が多く、すぐ深い海になるので、初心者向きではない。季節はずれのこの地域は、観光客の姿がめっきりと減る。  岬の全域が県立自然公園になっており、クス、スダジイなどの暖帯性の常緑広葉樹林によって被われ、学術上の価値が高いそうであるが、訪れる人は学者よりも、釣り人や磯遊びの客が多い。  十月十九日午後九時ごろ、一台の乗用車が岬に向かう崖の上の道へ迷い込んで来た。車には若い男女が乗っている。いやもう一匹の�乗客�がいた。 「あの辺よさそうじゃないか」  ハンドルを操っていた男が助手席の女に声をかけた。 「そうねえ」  女は崖の下に一かたまりになっている家の灯群《ほむら》の方に目を向けて、 「ここ漁師町かしら」と心もとなげに言った。 「漁港にまちがいないよ。ほら漁船の影が見えるじゃないか」  男は、崖から見下せる防波堤に囲まれた小さな入江を指さした。 「でも船の数が少ないわ」 「そんなこと言ってたら、キリがないよ」  男が辟易《へきえき》したように言ったとき、女の膝《ひざ》の上でニャーンと啼《な》く声がした。 「ああミコちゃん、お腹が空いたのね。いまご飯あげますからね、ちょっと待っててね」  女は、まるで人間に話しかけるように膝の上の小動物に声をかけた。  男女は、東京から来た共稼ぎ夫婦である。信じられないような話であるが、彼らはペットの猫を捨てる場所を探し求めてここまでやって来たのである。アパート住まいの彼らは、子猫を飼った。ところが、同じアパートの住人から苦情が出た。そのアパートでは犬猫類のペットを飼えないことになっていた。大家から猫を捨てるか、それとも立ち退《の》くかと迫られて、彼らは止むなく猫を捨てることにしたのである。  ところが妻が、猫がノラになっても、独りで生きていけるような所に捨てたいと言いだしたので、魚のおこぼれのありそうな漁村を探し求めて、ここまでやって来たのであった。  彼らはむしろ房総方面へ行くべきであった。それが湘南《しようなん》地方の海岸へ出て来たものだから、猫の餌《えさ》がふんだんに落ちていそうな漁村などなかった。  勤めを終えて夕方から出かけて来たので、途中で夜になった。暗くなると、ますます様子がわからなくなる。猫は自分の運命を悟ったのか、妻の膝の上で哀れっぽく啼いた。こうなると捨て難いおもいが募《つの》る一方である。 「どこでもいいから捨てようよ。元々野生の動物なんだから、どこに捨ててもうまくやっていくよ」  辟易《へきえき》した夫が音をあげたが、妻は、 「そんな可哀想なことはできないわよ。猫が独り立ちしていける場所を探してあげる責任が私たちにはあるのよ」と言い張って、猫を離そうとしない。  こうして小田原から早川、根府《ねぶ》川の海岸線沿いに真鶴《まなづる》岬の方へ迷い込んで来たのである。  車は、崖の下の方にかたまっている灯の群を目ざしてゆっくりと下りはじめた。屈曲した暗い道で、左側は海に面した崖である。夫は慎重に車を操っていた。ヘアピンカーブを曲ると右手から坂道というより急傾斜の空地の合する個所にさしかかった。  突然右手の坂上方からなにものかが迫って来る気配がした。ライトもつけず凄《すさま》じい勢いで転がり落ちて来る。いや、突然迫って来たのではなく、彼らがT字点にさしかかる前にその物体はすでに坂を下降していたのであった。  危険を察知したときは、たがいに退きも停止もできなかった。無灯火の黒い物体は、迫りすぎていた。夫は前進することによってその物体を躱《かわ》そうとした。急速な加速によって身体がガクンと後方へ引かれる。妻の口から悲鳴があがった。 (間に合わない!)  おもわず目をつむった瞬間、凄じい衝撃がきた。落ちて来た物体とからまり合いながら車体が旋回した。妻が悲鳴をあげっぱなしにしていたが、それを上回る衝撃音が二人の耳を塞《ふさ》いだ。闇の中からいきなり襲いかかって来た不条理な力によって彼らは車ごともみしだかれていた。恐怖は麻痺《まひ》していた。妻の悲鳴はむしろ一種の反射作用であった。車がどうなったのか、身体がどのような状態におかれているのか、いっさいわからない。  彼らは闇の中に不安定な姿勢のまま放り出されているのに気がついた。いつの間にか嵐《あらし》は去っていた。それは一拍の間のことであったのだろうが、ずいぶん長く感じられた。  彼らはそろそろと身体の各部分を動かした。  まず自分の身体の被害の程度を確かめようとする本能が目覚めた。どこもなんともないようである。 「おまえ、大丈夫か」 「あなたこそ大丈夫?」  次いで、たがいのパートナーの安否を気遣う。それはパートナーが二の次ということではなく、本能的な動作なのである。 「ひどい目に遭《あ》ったな」 「いったいなにがあったの?」 「よくわからないけど、いきなり車が突っ込んで来たようだった。いま調べてみるよ」 「あなた、目の下にあるの、海じゃない。大変! この車、崖に宙ぶらりんになっているわ」  車首の三分の一ほどが、崖際《がけぎわ》のフェンスを突き破って崖の上に乗り出していたのである。不安定に感じた姿勢は、前輪が地上についていなかったからだ。麻痺していた恐怖がよみがえった。 「落ち着いて。静かにリアシートへ移るんだ。ゆっくりと、そう、その調子で。大丈夫、後ろに衝突してきた物がからみついているから、落ちることはない」  夫はまず妻の身体を後部座席へ移してから自分が移った。ドアは少し曲がっていたが、幸いに開いた。間もなく彼らは足をしっかりと地上につけて立った。 「あなた!」 「もう大丈夫だよ」  緊張が緩《ゆる》んで、妻は夫の胸の中でしゃくり上げた。二人の足許で猫の啼き声がした。すっかり忘れていたが、猫もいつの間にか車から脱出して、彼らの足許にうずくまっていた。 「まあミコちゃんも無事でよかったわね」  妻は猫を抱き上げて頬《ほお》ずりをした。 「こいつがぶつかって来たんだ」  夫は妻が猫にかまけている間に、黒い襲撃者の正体を確かめていた。それは一台の二〇〇〇�クラスの乗用車であった。それが夫婦の車の後部トランクに車首を突っ込んで、一体となっていた。坂を転落して来た二〇〇〇�車の進路を閉塞《へいそく》した形の夫婦の車は逃げようとしたが逃げきれず、後部トランクに右後方から追突された。夫婦の車は、二〇〇〇�車とからみ合ったまま、ガードレールを突き破り、車首を崖際から突き出したところで、きわどいバランスで宙に浮いて停まっていた。 「おや、人が乗っているぞ」  追突車を覗《のぞ》き込んだ夫は、驚いた声を出した。運転席にうずくまっている黒い影は、まぎれもなく人間である。夜中無灯火で坂の上から転がり落ちて来た車の中に人がいるとはおもっていなかった夫は、この理不尽《りふじん》な追突の責任を問うべき好個の対象を見出して、張り切った。ところが、外からいくら呼びかけても人影はピクリとも動かない。 「あなた、気を失っているんじゃないの?」  妻が恐々《こわごわ》と覗き込んだ。 「やれやれ手数のかかるやつだ」  夫は舌打ちして、追突車のドアに手をかけた。 「おい、きみ。大丈夫か」  ドアを開いて呼びかけたが返事はない。運転席には男が乗っていた。肩に手をかけて揺《ゆ》すると、夫の手の力に従ってグラリと傾いた。遠方からのうす明かりが、男の顔をかすかに浮かび上がらせた。 「し、死んでる」 「まさか!」  べつの驚愕《きようがく》が夫婦をとらえた。 「あなた、どうしましょう」  妻が夫にすがりついた。 「いまの追突で死んだんだろうか」 「私たちなんでもないのよ。それにぶつかったほうの車はほとんど壊れていないじゃないの」 「じゃあどうして死んでいるんだ」 「そんなこと知るもんですか。私たち悪いことなんにもないわ。相手が勝手にぶつかってきたのよ」 「だからといって放っておくわけにはいかない。とにかく警察へ連絡しよう」 「まったくとんだ災難だわ」  夫婦は、その時点では、追突車の運転者の死因を深刻にとらなかった。自分たちの責任ではないまでも、いまの接触が原因と考えたのである。     6  追突して来た車の中で男が死んでいるという通報をドライブに来た若い夫婦からうけた真鶴町|岩《いわ》駐在所警官は、本署へ一報すると現場へ押取《おつと》り刀で駆けつけた。  現場は神奈川県真鶴町岩地域、国道135号線から海寄りに脇道へ入った断崖の上で、地元の人が「津波止め」と称《よ》んでいる地点である。相模灘《さがみなだ》を震源とする大規模な地震に伴って津波が押し寄せてきたとき、この崖の上へ避難したところから名づけられたという。  駐在所警官は発見者の夫婦者の案内で現場へ駆けつけたところ、たしかに車の中で死んでいる。懐中電灯を当てて死体をざっと観察した警官は顔色を変えた。 「この死体は、あなた方が発見したときのままですか」  夫婦に質問した口調も厳しくなっている。 「私たちが通報に行っている間にだれも来なければそのままです」 「あなた方は手を触れていませんか」 「声をかけても返事がないので、肩を揺すって、死んでいるのに気がついたのです」 「肩以外に手を触れたところはありませんか」 「あるはずないでしょう。びっくり仰天して交番へ走ったのですから。よかったら私たちそろそろ行かせてもらいたいのですが」 「あなた方にはもう少しここにいてもらわなければなりませんね」  警官は二人の前に立ちはだかるようにした。 「どうしてですか? 私たちは偶然ここを通りかかっただけです。車の損傷なら大したことはないからいいですよ」 「そんなことじゃない。この人はね、頭を撲《なぐ》られて死んでいるんだ」 「頭を撲られて……?」 「つまり、殺されているんだよ」 「殺されて!? ま、まさか」 「あなた方は殺人死体の第一発見者というわけだよ。まず、住所、名前、職業を聞こうか」  警官は、まるで容疑者に対するように身構えた。  本署から捜査一課が臨場して来た。ふだんは人影もない夜の海蝕《かいしよく》の断崖上にはにわかにものものしい雰囲気が張りつめた。死者が乗っていた車は、「練馬ナンバー」である。死者は三十歳前後のサラリーマン体の男で、後頭部に鈍器で形成されたと見られる創傷が認められた。後頭部が陥没するほどの傷は脳内実質に深刻な影響をあたえ、これが死因となったものであろう。  死者の身許は携帯《けいたい》していた運転免許証および車検証によって直ちに割れた。それによると、小森勝一、東京都中野区上高田一−十四−××チェリスナカノ711号室である。  発見者は、東京都|豊島《としま》区上池袋二−三八−二×秀明荘内|宮地新一《みやじしんいち》とその妻|民枝《たみえ》である。たまたま現場を通りかかったところ、T字路の坂の上方から小森の車が転がり落ちて来て、避けきれず、追突されたというものである。避けるのがもう少し遅ければ、崖から突き落とされたきわどいところであった。  小森車の前に、宮地車が立ちふさがらなかったなら、津波止めの断崖の下に墜落して、磯岩に当たり車もろとも小森の身体は砕け散ったであろう。そうすれば、小森の死因も墜落の損傷にまぎれて曖昧《あいまい》にされたかもしれない。  捜査員は、計画殺人のにおいを嗅《か》いでいた。発見者の宮地夫婦が地元の人間以外に入り込まない場所を中途半端な時間に通行した理由について、曖昧な点があったが、彼らには小森といかなるつながりも見つからない。  宮地夫婦を犯人と仮定しても、小森を殺害した後、被害者の死体を乗せた車を、自車に追突させるようなヘマは、しようとしてもなかなかできないだろう。宮地夫婦は、いちおう容疑の外において、小森の身辺から捜査ははじめられた。  小森勝一の解剖の結果、死因は、頭部打撲に基く蜘蛛《くも》膜下出血による脳圧迫と脳|挫傷《ざしよう》、凶器は、スパナ、バール状の鈍器、死亡推定時間は十月十九日午後八時より九時の間とされた。つまり殺害された直後に、車に乗せられ宮地車に衝突したことになる。     7  ——追突車の中に殺人死体、  十月十九日午後九時ごろ東京都豊島区上池袋二−三八−二×秀明荘、会社員、宮地新一さんが、奥さんの民枝さんといっしょにマイカーを運転して神奈川県|足柄《あしがら》下郡真鶴町岩の通称津波止めのT字路にさしかかったところ、坂の上方から転がり落ちて来た一台の乗用車に追突された。宮地さんの車は危うく崖際で停まり、海に転落を免れたが、追突車を覗いたところ男の死体が乗っていたので、びっくりして、小田原署真鶴町岩駐在所へ届け出た。  警察が調べたところ、男は鈍器で後頭部を撲られ、運転席で死んでいた。携帯していた運転免許証から被害者の身許は東京都中野区上高田一−十四−××チェリスナカノ711無職小森勝一さんと判明した。犯人は小森さんを殺した後、車ごと海へ落とし事故死を偽装しようとしたところに、宮地さんの車が通りかかって衝突したとみられている。  小森さんは、最近まで商品取引仲買店の外務員をしており、警察では商品相場にからむもつれから生じた犯行とみて捜査を進めている——  佐久間周平は新聞を読んで、記憶に刺戟《しげき》をうけた。真鶴で発生した殺人事件の記事にどうもうすい記憶があるようなのである。この記事が初報であるから、以前に目に触れるはずはない。テレビ、ラジオでも見聞していない。それでいながら、事件の被害者や背景が初めてではないような気がするのである。  過去のものごとが記憶の再生と忘却の境界に浮遊している間は、胸に閊《つか》えがあるようでなんとも中途半端な気分である。 「あなた、お電話よ」  そのために妻が背中から何度か呼びかけた声が耳に入らない。 「いやあねえ、朝っぱらからものおもいに耽《ふけ》っちゃったりして。田島さんからお電話よ。あまり待たせては悪いわよ」  ようやく我に返って電話口に出ると、混線しているらしくひどく聞きづらい。だがそのことによって佐久間の記憶の再生を妨げていた薄膜が破れた。 「そうだ、あのとき混線した電話で話していた内容だった」 「もしもしいまなんとおっしゃいましたか」  佐久間がおもわずつぶやいたものだから、対話者が不審げに問いかけてきた。電話を早々に切った佐久間は、よみがえった記憶と新聞記事を対照した。  ——そうだ、あのときの電話でも、コモリが警察にマークされたとか、商品相場がどうとか言っていた。コモリが真鶴で殺された小森とすれば、その職業であった商品取引のセールスマンという点と一致する。電話でマンションに住んでいるようなことも言っていたから、中野のマンションが住所の小森勝一に、ますます近づく——  警察では、商品取引に関するトラブルとみて、その方面を洗っているということである。ここで佐久間は重大な事実をおもいだして、身体を緊《かた》くした。警察がコモリをたしか債券偽造と殺人でマークして、コモリが口を割ったら万事休すだというようなことを通話者の一方が漏らしていた。そしてコモリが交通事故でもおこせばよいと真剣な口調で言っていた。  混線電話の内容から推測してコモリは通話者たちの一味で、決定的な秘密を共有している様子であった。  ここに商品取引仲買店の元セールスマンだった小森勝一という男が海に転落直前の車から死体となって現われた。そのまま車ごと海に落ちていたら、交通事故として処理されるところであった。  混線電話の内容とあまりにも符合する点が多い。これを単なる偶然と考えてよいのか。佐久間は、無関係の混線電話によって、自分の住む世界と次元を異にする闇の世界に引きずり込まれていくように感じていた。     8  小森勝一の身辺を洗った小田原署は、彼が中野区マンション女性殺害事件の重要容疑者として捜査本部からマークされていた事実を知った。しかも小森は割引債券偽造団にもからんでいる疑いがある。ここに小森は一味から口を封じられた疑いが強くなった。  さらにこの疑惑を裏書きするような情報が目黒区の住人佐久間周平から寄せられた。佐久間の話によると、小森が殺される十日ほど前に偶然小森殺害の打ち合わせらしい通話が混線してきたということである。  ——その通話者の身許や住所をしめすようなことはなにか言ってませんでしたか—— 「それはいっさい話していなかったとおもいます」  ——これは大変重要なことなのです。どんな些細《ささい》なことでもけっこうです。たとえば電話のバックに入ったアナウンスや音楽とか、待ち合わせ場所を約束したとか、なにかおもいだせませんか—— 「ちょっと待ってくださいよ。待ち合わせと言えばこれから会って相談したいと話していました。たしか二階の奥で会いたいと言ってたな」  ——その落ち合う場所を言ってませんでしたか—— 「それがおもいだせないのです。喫茶店の名前のようだったが」  ——どうして喫茶店とわかるのです—— 「なんとなくそんな感じがしたのです」  ——喫茶店ならなにか記憶にありませんか—— 「それがありふれていたような名前でおぼえていないのです」  ——日本的な名前でしたか、それとも洋風でしたか—— 「洋風です。そうだ、果物の名前のようだったなあ」  ——果物? たとえばオレンジとかパインアップルとか—— 「そんな名前じゃありませんね。もっと喫茶店らしい名前だった」  ——喫茶店らしい名前の果物というとどんなものがあるだろう。グレープフルーツ、ピーチ、ストローベリー、バナナ、オリーブ、マンゴー——  係官は知っているかぎりの洋風名の果物を並べ立てた。 「そういう名前じゃなかったとおもいます。例のなんとか言ってましたからきっと行きつけの店だとおもいます」  佐久間の記憶はそれ以上掘りおこせなかった。係官は質問の鉾先《ほこさき》を転じた。  ——電話が混線していたら、向うの通話者も気がついたはずなのに、どうしてそんな重大な話をあなたに一部始終聞かれるまでつづけていたのですか—— 「それは、私の相手がなかなか電話口に出なくて待たされている間に混線したからです。ですから先方は私に傍聴されたことを知らないはずです」  ——その混線電話はどちらへかけたものですか—— 「渋谷区の知人からかかってきた電話です」  ——あなたがかけた電話ではなかったのですか—— 「ちがいます。奥さんがまずかけてきて、ご主人が電話口に来るまで待たされている間に混線してきたのです」  ——傍聴した時間はどれくらいだったですか—— 「長く感じましたけど、実際は二、三分間だったとおもいます」  ——混線は、以前にもよくありましたか—— 「いえ、そのときが初めてです」  ——声に特徴はありませんでしたか、訛《なまり》とか、音程とか—— 「訛はありませんでした。どちらも中年以上の男のようなどちらかといえば低い声だったとおもいます」  ——声の距離はどうでしたか、遠方でしたか、それとも近くから聞こえましたか—— 「そうですね、どちらかといえば遠い感じでしたが、話の内容はよくわかりました」  ——その声をもう一度聞けば、おもいだせますか—— 「とても無理ですね」     9  佐久間周平から提供された情報に基いて、混線電話から混線通話の割出しの可否が検討された。それが可能であれば、小森殺しの有力容疑者へ最短路から行き着ける。問題の通話は渋谷区神宮前三丁目から目黒区|鷹番《たかばん》一丁目にかけられた電話に混線したものである。  早速電電公社に問い合わせると、電話の混線、正式には漏話の原因と発生点の探知は論理的には可能であるが、チェックに大変な手間と時間がかかるので現実には不可能であるという答えであった。  ——論理的に可能といいますと、可能性がまったくないということではないのですね?——  あきらめきれない捜査員は執着した。 「天文学的な確率の上で可能ということです。漏話は主に三つの原因が考えられます。一は電話|回線《ケーブル》のトラブルがある場合、たとえばケーブルが腐食していて他の通話が誘導されるようなケースですね。二は交換の接続等の故障、第三は各ケーブル間の静電気または電磁的な結合があって電圧がアンバランスになったときです。電話回線は無限にあるわけではありませんから一本一本これらの原因を探してつぶしていけば、漏話の個所に行き着けるという考えはたしかに可能です。しかしチェックの個所があまりにも多すぎるのです」  ——実際にどのくらいのチェック個所があるのですか——  未練の捜査員はまだしがみついていた。 「混線の可能性が最も大きいのは各接続ポイントです。お質ねの渋谷−目黒間の電話で言いますと、直通回線を経由する場合と、東渋谷局の親《タンデム》局を通る場合の二通りあります。直通|回線《ケーブル》は三百〜五百回線、タンデム局も少なく見ても二百回線以上あります。回線ケーブルのチェックだけで五百分の一から七百分の一の確率になってしまいます。ケーブルに異状がなければ、電話局の交換機を調べます。これが渋谷、目黒両局で四百個設置されています。次にOS設備というダイヤルを送りつける装置のチェックがあります。これが局内に最少十個ありますから両局で二十個、渋谷−目黒間は比較的回線の簡単な個所ですが、これだけのチェックによって漏話個所の割り出される確率は五百六十万分の一になるわけです。また仮に運よく漏話個所を確認できたとしても、そこから混線してきた電話を探り出すことはできません」  ——それはなぜですか—— 「混線電話を探し出すのは、逆探知と同じ方式とお考えいただいてけっこうです。逆探知より格段に難しいのは、混線が四者間の通話であるからです。その比較的簡単な逆探知すら通話中のみ可能です。また現在の電話機と局の設備では、逆探知以外に発信者を探し当てることは不可能です。呼出音の間の空白に発信者の番号を電気信号で相手に送る機械が発明されたそうですが、まだ実用化されていません。すでに通話が終っている混線電話を割り出すのはまったく不可能であって、かりに一度混線があったとしても同じケーブルに重なるとはかぎりません」  ——結局、まったく不可能ということになりますね——  捜査員は絶望を確認するように言った。  混線電話から相手を探し出すのは、不可能と確定した。だが捜査員は、まだ未練がましく佐久間周平にその後同一人物からの混線があったらおしえてくれと頼んでおいた。     10  笠原は、捜査会議で混線電話の一件を聞いたとき、頭の奥の方でなにかが引っかかったような気がした。漏話個所から疑わしい人物を割り出すのは、天文学的な確率だと知らされたものの、どうも納得しきれないおもいが残った。  問題になった渋谷−目黒間の通話の混線チェックは、ケーブル、交換機、その他の設備を対象にしてこれらのチェックポイントを掛け合わせていくと五百六十万分の一の確率となる。しかもこれは比較的回線が簡単な地域の場合だというから、たしかに�天文学的�と言ってもよいだろう。  しかし、五百六十万回のチェックというのは、最も運が悪い場合ではないのか。かりに初めの直通|回線《ケーブル》のほうに故障があれば五百分の一の確率になる。隣りの家と混線している場合もあるのである。最も運がよければ五百六十万分の一の確率に当たることもある。  これはやはり素人の発想であろうか。笠原は頭の奥に引っかかったものを見すえた。永瀬雅美に怪電話がかかってきた翌日の夜小森勝一は真鶴で殺された。雅美からの訴えによって直ちに小森に電話してみたが、彼はすでに家にいなかった。  混線電話から判断しても、犯人は二人いる。すると怪電話の発信地は真鶴か。  雅美は、電話のバックにガス閉鎖を報《しら》せる広報車のアナウンスが入ったと言っていた。笠原は真鶴町に問い合わせた。しかし真鶴には都市ガスは入っていない。すると雅美がうけた怪電話は真鶴から発せられたものではない。  次いで笠原は東京ガスに問い合わせた。同社から十月十九日午前零時より約三時間西部導管管理事業所においてガス本管工事を行なったという返事を得た。これはアナウンスと時間的に符合する。 「その工事現場はどの辺ですか」  笠原は気負い込んで質ねた。 「目黒区|碑文谷《ひもんや》、平町《たいらまち》の全域、柿の木坂一丁目および鷹番一丁目の一部です」 「目黒区ですって?」  笠原はおもわず高い声を発した。例の混線電話は渋谷−目黒の間で発したのである。笠原は興奮を抑えて、 「その工事の予告は、いつごろから行ないましたか?」 「深夜の工事ですが、数時間閉鎖しますので一週間ぐらい前からチラシを配り、工事直前まで広報車で報《しら》せました」  そのアナウンスが怪電話のバックにとらえられたのである。ということは、怪電話が目黒区、碑文谷、平町、柿の木坂、鷹番のどこかから発せられたことを意味する。  一方では渋谷区神宮前から目黒区鷹番への電話が混線した。怪電話と混線電話の一方の主には一致する状況がある。これは怪電話の主が公衆電話や立ち寄った店先の電話ではなく、自宅の電話を使った公算が大きい。  笠原は早速自分の着眼を会議に提出した。  新たなデータに基いて改めて電電公社に問い合わせが為された。 「漏話が最も発生しやすい個所は、電話回線が各家に入り込む分岐点です。これをドロップ個所と言いますが、そういう一致があれば、漏話が目黒で発生していることが考えられます」  ——すると混線通話者が目黒に住んでいるということになりますか—— 「可能性はありますね」  ——範囲を絞って、混線通話者が目黒区の碑文谷、平町、柿の木坂、鷹番のどこかに住んでいると言えますか—— 「混線通話者の一方は住んでいる可能性があると言えますね。ただし、通話者がその怪電話の主とやらと同一人物と想定した上での話ですが」  役所だけに慎重な言いまわしであった。さらに漏話の場所から混線通話者(犯人A、Bとする)が住んでいる可能性のある場所として、 一、渋谷局−目黒局直通回線上で漏話が発生した場合犯人A、Bは両局区内に住んでいる。 二、親《タンデム》局−渋谷局間ケーブルの漏話は、AまたはBは渋谷局内にいる。AまたはBがX局またはY局を親局経由で使用した場合に可能。 三、親局−目黒局間ケーブルの場合は、AまたはBは目黒局内にいる。AまたはBがX局またはY局を親局経由で使用した場合に可能。 四、その他親局、渋谷局、目黒局内での漏話。 五、それ以外の場合としてAまたはBはX局またはY局内にいる。  この可能性だけでは犯人ABの住所を限定できないが、ここにガス工事のアナウンスが入った怪電話というデータが加わって、目黒区内の一定地域に絞り込むことができた。  電電公社も、電話回線が各家庭に入り込むドロップ個所に漏話がおこりやすいと言っていたが、笠原は�犯人�が目黒区鷹番の佐久間周平の近くに住んでいるような気がしてならなかった。  だが犯人の家を割り出すためには、捜査令状を取り、犯人の再電話を待って二十四時間の監視体制を布《し》かなければならない。この場合でも盗聴は違法であり、証拠能力を否定されてしまう(裁判で証拠として採用されない)。  持ち去られた遺留品     1 「あなた、塩沢先生よりちょうだい物のメロンよ。いっしょに召し上がらない」  妻が呼びかけてきた。 「メロンか、それじゃあ少しもらおうか」  佐久間は、家族のいる居間の方へ出て来た。佐久間は、いちおう著述業である。と言っても名の売れた作家ではなく、この業界でいわゆる下書き屋と呼ばれているもの書きである。佐久間の得意とするジャンルは医学である。べつに医学の知識があるわけではなく、有名医学者の名前で出す「家庭の医学書」や「育児書」などを資料に基いて下書きするのが、彼の仕事であった。  彼の下書きは、文章が明快で内容が正確なので、医者が仕上げをするとき手を入れる個所が少なくて評判がよい。書店でも堅実な売行きを維持している。ある中小出版社の編集者を勤め上げて余生を支える一方途として始めたことが、現役時代よりも高収入をもたらしたのは皮肉である。  メロンの贈り主も、この度彼が下書きをした、ある大病院の院長であった。 「いまどきメロンが食べられるなんて嬉しいね」 「マスクメロンですもの。これ一個一万円くらいするわよ」 「へーっそんなにするのか。メロンとも言えないね」 「私たちにはもったいないわよ。プリンスメロンで十分おいしく食べられるもの」 「おまえ、いまなんて言った」  佐久間は、食べる口を停《と》めて妻を見た。 「あら、そんな恐い目をしてどうしたのよ」 「いまプリンスメロンと言ったね」 「プリンスメロンがどうかしたの?」 「それだよ。プリンスだ」  佐久間は、意識の中のしこりが氷解するのを感じた。 「いったいどうなさったのよ。変な人」  妻の不審顔に取り合わず、佐久間は電話機に走った。相手の連絡先は聞いてある。折よく相手は居合わせた。 「ああ、先日の刑事さんですか。佐久間です。例の喫茶店の名前をおもいだしましたよ。プリンスです。果物の名前のようだと申し上げましたが、プリンスからメロンを連想して、メロンのほうが意識に引っかかったんだとおもいます。プリンスという喫茶店を探してください」  佐久間周平からの情報提供によって都内の電話帳を索《ひ》いたところ、なんと八十近い「プリンス」がある。この中で約二十が喫茶店で圧倒的に多い。次いで雀荘、理髪店、酒場、美容院、トルコ風呂、ホテル等がある。  十月九日前後(小森が殺害された十日ほど前)混線電話が交した「例のプリンスで会う」旨の会話から判断すると、喫茶店と酒場がいちばん可能性が大きい。理髪店、美容院、トルコ風呂はまずはずしていいだろう。「プリンスホテル」の場合は省略せずに、フルネームで呼ぶか、あるいは前に地名をつけるだろう。 「通話者の一人は目黒区に住んでいる状況だから、まず同区内のプリンスに絞ってみたらどうだろう」という意見が出された。 「プリンスは目黒区に一つしかないぞ」 「東横線都立大学駅前の喫茶店だ」 「住所は目黒区平町一の二十×」 「それだ!」  一座の者が異口同音《いくどうおん》に言った。平町は、ガス工事によるガス閉鎖地域の中にある。つまり、永瀬雅美に対する怪電話の発信源と一致する。これだけの符合で「都立大学駅前のプリンス」と決めつけるのは危険である。混線通話者ABの両人が、それぞれの住居地に関係ない場所のプリンスで出会う可能性もあるからである。  だが無視できない符合であることはたしかであった。     2  都立大学駅前のプリンスは、パチンコ屋の二階にあった。店内はゆったりとしていて、パチンコ屋の二階にしてはコーヒー専門店の風格を出した落ち着いたインテリアである。  ここで刑事たちはさらに新たな符合を見出した。佐久間周平が傍聴した電話で「二階の奥で待っている」と一方が言っていたのである。このプリンスならば、その言葉があてはまる。窓際の席は都立大学駅に沿っていて、駅を去来する人通りから覗かれる。その点、「二階の奥」はカウンター出入口からも遠く、密談には格好の場所であった。 「例のプリンス」と言っていたところから判断して、混線通話者の一人は店の常連とおもわれる。二階の奥の席をよく利用する、この店の近くの住人が、�犯人�の一人かもしれない。先入観をもってはいけないと自戒しながらも、きれぎれのトレースをようやくここまで追って来た笠原と鈴木は、心の中に盛り上がってくるものを抑えられなかった。 「十月九日前後にこちらの奥のボックスで密談をしていた男二人連れの客を知らないか」  という質問から聞込みをはじめた。当然のことながら、プリンス側では「男の二人連れ」ではあまりにも漠然としていて、印象に残っていないという返事である。 「常連で銀行、証券会社、印刷の関係者はいないか」  と刑事はさらに追いすがった。 「さあそう言われましてもねえ、お客様の職業をいちいちお質《たず》ねしているわけではありませんので」 「いちいち聞かなくとも、常連ならなんとなくその職業がわかることがあるでしょう」 「銀行や証券会社の外まわりの方ならかなりいらっしゃいますよ。私どもの取引銀行もありますし」 「少なくとも係長クラス以上とおもわれます。あるいは元銀行に勤めていた人かもしれない。とにかくお宅に来る少しでも銀行に関わりのある人は、どんな人でも漏らさずにおしえていただきたいのです」  二人の刑事はプリンスのマスターはじめ従業員の一人一人に当たった。銀行関係者は十一名浮かび上がったが、印刷関係者は一人も出てこなかった。  リストアップされた十一名中八名は近くの銀行や証券会社の外まわりであり、残りの三名は、昼休みや商談に利用している管理職である。他にもプリンスを利用している銀行関係者はいるであろうが、捜査陣はとりあえずこの十一名に的を絞った。  しかしいずれも矢切悦子や小森勝一に結びつかず、結局全員消去されてしまった。  喫茶店の不特定多数の客の中から「銀行と印刷関係者」という手がかりだけで二人の人物を特定しようという試みが不可能に近いところへきて、「都立大学駅前のプリンス」とはかぎられないのである。たまたま永瀬雅美に対する怪電話の発信地と、混線電話の重なり合う地域から「プリンス」を仮定したにすぎない。  事件は膠着《こうちやく》したまま、十一月二十七日を迎えた。あらゆる手がかりを絶たれた捜査陣は、この日に一縷《いちる》の望みを寄せていた。例のニセ債券が十一月二十七日に償還日にかかるのである。ニセ債券であることを知らずに償還日までかかえ込んでいる買い主がかなりいると捜査陣は見込んでいた。  おそらくその大半は換金係矢切悦子から買ったものであろうが、中には悦子以外のルートから買った者がいる可能性がある。そのルートを手繰れば、犯人に至る道が開かれるかもしれない。  言わば十一月二十七日は捜査陣に残された最後の攻め口であった。だがそれも償還請求をうけた金融機関窓口でニセ債券であることを見破れなければ、それまでである。発行元の日本総業銀行では、ニセ債券発見と同時に、東京証券業協会および全国銀行協会連合会に連絡して各金融機関に注意するように呼びかけていたが、偽造券が非常に精巧にできているので、窓口の目を混《くぐ》り抜ける危険性は十分にある。     3  十一月二十七日午前九時三十分ごろ、中央証券都立大学駅前支店に四十歳前後の女が現われた。店に入って来たときから女はおどおどしていた。くたびれたワンピースをまとい、手には買物かごを下げている。赤茶けた髪は乱れており、顔色が悪い。生活の疲労が全身ににじみ出ていた。  女は恐る恐るカウンターへ歩み寄ると、 「あのう、満期になった割債をもってきたんですけど」と申し出た。 「どうぞ。本券をおもちですか」  店頭係は、事務的な微笑を浮かべて言った。女がおずおずと買物袋から差し出した債券を見て、店頭係はちょっと見直したような目を女に向けた。てっきり一万円券とおもっていたのが、いずれも百万円券ばかりが五枚もあったからである。どう見ても五百万円の割債を買える風体ではない。態度もおどおどして落ち着きがない。  店頭係はピンときた。折からニセ割債が出まわっているという触れが回っている。 「少々お待ちくださいまし」  店頭係はさりげなく言って上司に相談するために奥のオフィスへ入った。  課長は、女が持参した債券を指でつまみ上げて注意深く観察した。 「きみ、これはまぎれもなくニセモノだよ」  課長の顔が緊張して、 「その女を逃がさないように、こちらへ連れて来たまえ」  と命じた。  課長の緊張は店頭係に増幅して伝染した。それは若い彼の面にもろに現われた。 「奥さん、恐れ入りますが、ちょっとこちらへ」  精々《せいぜい》自然に言ったつもりがこちこちになった。債券偽造団の一味と、いま自分が渡り合っているような張りつめた気持である。それはそのまま相手の女に感じ取られた。 「あのうなにか私に?」 「いえ、ちょっとお質ねしたいことがあるだけです」と言ったのがまずかった。償還期日にかかった無記名割引債券の持参者に質ねることなどあろうはずがない。  女の顔がさっと蒼《あお》ざめ、次の瞬間身をひるがえして出口の方に走っていた。 「あっ待て!」  と店頭係がどなったのが、彼女をますます動転させた。気配を察してロビー係が女の背後から組みついた。女がわっと泣きだした。  店頭で捕えられた女は、その場から捜査本部に連行された。初めのうちは泣くばかりであったが、粘り強い取調官の前でポツリポツリと語りはじめた。女は目黒区中根二の十×緑荘アパート石原米子《いしはらよねこ》三十八歳主婦である。 「あの債券は拾ったんです。ニセ割債なんて夢にも知りませんでした」  ——拾った? どこで拾ったのか—— 「都立大学駅前のプリンスという喫茶店です」  突然、「プリンス」が再登場したので、取調官は緊張した。  ——いつどのようにして拾ったのか、詳しく話してごらん—— 「二月の中ごろ、パートの口を頼んだお友達とプリンスで待ち合わせて、奥のボックスに坐《すわ》ったところ前のお客が忘れていったらしいセロテープで封をした茶封筒が残っていました。なんだろうとおもって開けてみると、百万円の割引債券が五枚入っていたのです。一万円の割債は時々買うので、すぐにわかりました。びっくりして、すぐに喫茶店の人に言おうとしたのですが、ちょうど主人が失業中で、子供にも苦しいおもいをさせていました。五百万あれば、主人が口を見つけるまでの間をつなげるとおもって、そのまま喫茶店から出て来てしまったのです」  ——拾った割債なんか、事故届けを出されたら、通用しなくなることは知らなかったのか—— 「そのときは五百万円という大きな金額に夢中になってしまいました。あとで大変なことをしたと後悔してなん度も届け出ようとおもったのですが、恐くなってしまったのです」  ——旦那が失業中で生活が詰まっていたということだが、なぜすぐ換金しなかったのか—— 「途中で換金できることを知らなかったのです。これまでに買った一万円券も期日までもっていました」  ——ニセ割債が出まわっていることが報道されたことは知らなかったのか—— 「そんな話を聞いたような気がしますが、まさかこれがニセモノだなんておもいませんでした」  ——逃げ出したのは、ニセ債であることを知っていたからではないのか—— 「ちがいます。落とし主が連絡していたとおもったからです」  ——落とし主が届け出ているかもしれないとおもいながら、換金に来たのか—— 「主人の口はまだ見つからず、子供の給食費すら滞《とどこお》るほどに逼迫《ひつぱく》しておりましたので、おもいきって換金してみようとおもったのです」  ——旦那はこのことを、知っているのか—— 「知りません。主人には関係ないことです」  ——その封筒の中には割債の他になにか入っていなかったか。たとえば落とし主の身許をしめすような、名刺とか、書類とか—— 「割債だけでした」  ——落とし主について、心当たりはないか—— 「ありません。私がその席に坐ったときは、すでに立ち去った後でしたから。のみかけのコーヒーカップが一個と、灰皿にモアの喫《す》い殻が二、三本あったのをおぼえています」  ——煙草の銘柄までよくおぼえているじゃないか—— 「忘れ物を見つけたとき、前の客はどんな人かとおもって灰皿を見たのです。でもその喫い殻はもっと前のお客のものかもしれません」  結局、石原米子から引き出せたのは以上であった。     4  再度「プリンス」に聞込みが行なわれた。なにぶんにも日数が経過しすぎており、質問の対象がぼやけていた。遺留品について質ねるのであればまだしも、「持ち去られた遺留品」であるから、従業員の印象に残らないのが当たりまえである。  五百万円もの債券を置き忘れたのであるから、持ち主は直ちに置き忘れた場所に引き返して来て、当の品がなければ店の者に届け出るところだが、落とし主も弱みをかかえている。落とし主として下手に身許を明らかにすれば、後で偽造券が派出所へ届けられた場合に命取りになってしまう。  だが偽造券を落とした者は、後でそれを知って青くなったはずである。落としそうな場所を溯っ《さかのぼ》てプリンスまで来たとき、かなり目立った動きをしている可能性がある。それが従業員の印象に残っていないか。捜査陣はそこに一縷《いちる》の望みを託した。  一人一人従業員を当たっていくうちに、ウエイトレスの一人が「もしかするとあの人のことかしら」と表情を動かした。  ——あの人とはだれのことですか——  捜査員はすがりつくように質ねた。 「このごろはお見えになりませんけれど、以前はよくいらっしゃった人です。下のパチンコの常連らしく、景品を山のようにもって見えました。私もチョコレートなんかをもらったことがあります。その人が二月の中ごろだったとおもいますが、一度お見えになった後、顔色を変えて引き返して来られて、前に坐った席に茶色の封筒が置き忘れてなかったかと聞きました。そのお席はもうお客様が何人か替《かわ》っていましたけど、封筒は残っていませんでした。よほど大切な品だったらしく、その席を中心にしてあちこち探したのですが、とうとう出てきませんでした。私がなにが入っていたのか質ねますと、ただ重要な書類とだけおっしゃるのです。後日出てきたらご連絡いたしますと申し上げると、急に慌てたようにして、こちらから時々問い合わせるからと言って私の名前を聞いたのです。でもその後問い合わせはなかったようです。あんなに大切な品のようだったのにおかしいなあとおもいました」  ——そのお客はその後来ましたか—— 「私は見かけませんでしたけれど」  捜査員は、その茶封筒の落とし主が目差す人物にちがいないという感触を得た。  ——その客の名前や住所はわかりませんか—— 「いいえ。パチンコの合い間に時々お見えになるだけでしたから」  ——人相や年齢や特徴は—— 「五十ぐらいのおとなしいおじさんという感じでした。べつに特徴と言われてもおぼえていません」  ——景品のチョコレートなんかをくれたのでしょう。会話の端に職業や住所をほのめかしたようなことはありませんか—— 「下へパチンコをしに来る人で、ここへ休憩に来る人は多いんです。他のお客様からも景品はよくもらいます。そうだわ、そう言えばその人よく機械待ちをしていたわ」  ——機械待ち?—— 「自分の好きな機械があるんですって。なんでも一番が験《げん》がいいとかで、ここで空くのを待っていたわ」  ——パチンコなんて、その日によってタマの出がちがうんじゃないのかな—— 「そうなんです。だから私もそのことを言ったげると、どうしても一番でなければだめなんですって。一日に一回はその機械を弾かないと、パチンコをやったような気がしないとおっしゃって……」  パチンコ店「悦楽園」はプリンスと同じ建物の一階にあり、同一の経営である。階段を下りて聞込みの足をのばすと、直ちに反応があった。 「坂根《さかね》さんのことでしょう。王《ワン》ちゃんにあやかるんだと言って一番以外の機械ではやらないんですよ。その日によって放出する機械がちがうのですが、とにかく坂根さんは一番|一辺倒《オンリー》なんです。結局損するほうが多かったみたいですよ」悦楽園の店長が答えた。  ——その坂根さんはどこの人ですか—— 「この近くにお住まいのはずですが、最近おみえになりませんね」  ——住所はわかりませんか—— 「私は知りませんが、子供が知っているはずです」  ——お子さんが?—— 「子供が小学校で坂根さんのお子さんと同じクラスなんですよ。父兄参観日に偶然いっしょになりましてね。まさかうちの常連が、子供の友達の父親とはおもわなかったので奇遇にびっくりしたものです。そのときお名前も知ったのです。坂根さんがどうかなさったんですか」     5  悦楽園の店長の子供が通学しているという大岡山小学校を経由して目黒区平町二の十五の××、坂根|真之《まさゆき》が浮かび上がった。職業は日本総業銀行本店証券部投資相談課長である。犯人は獅子《しし》身中の虫であった。  捜査陣はついに一味の一端をとらえた。何度も回り道をさせられたが、今度の手応《てごた》えはしっかりしている。坂根の職業からみても、彼が一味の中心人物と考えられる。捜査陣の粘りがついにここまで辿《たど》り着かせたのである。  坂根の身辺が密かに調べられた。  坂根真之四十九歳、千葉県佐倉市出身、東京の私立S大経済学部を卒業後日本総業銀行に入社、宇都宮、松本、秋田、中野各支店勤務の後、現在本店証券部投資相談課長である。  家庭には妻との間に大学二年の長女、高三の次女、中二の長男、小六の三女の四人の子供がいる。仕事がよくでき、人当たりが柔らかく、部下の面倒みがよいので、職場での評判はいい。現在の住居は、彼の生家であり、彼の父が大正年間に買ったという建売住宅である。この地域に多い古ぼけた和洋|折衷《せつちゆう》の大正造りであった。銀行の中堅管理職としては、まずはつつましやかな暮らしぶりといってよいだろう。 「まあこれは表向きのマスクで、矢切悦子を囲むトルコ風呂サロンのメンバーにちがいない」 「小森勝一や三栄物商の大江伸也ともつながっていたんだろう」 「本店に行く前の約三年間、中野支店に勤務しているが、このとき小森や大江と知り合ったのだろう」  という見込みのもとに再度胡蝶陣に聞込みが行なわれた。坂根の写真を突きつけられた胡蝶陣のマネジャー椎名喬《しいなたかし》はシラを切り通せなくなった。  マネジャーは、坂根真之が、大江伸也や小森勝一とともに矢切悦子の固定客であったことを認めた。 「矢切悦子の固定客には、もう一人印刷関係の人間がいたはずだ」  笠原は追及したが、椎名は、 「お客様のご職業やご住所はいっさいわかりません。坂根様にしても、こうしてお写真を見せられてようやく私どものお客様であったことがわかったくらいです」  海千山千の椎名は依然として聞かれた以上のことには答えない。 「坂根、大江、小森の三人は連れ立ってきたのか。それともべつべつにやって来たか」 「それはべつべつに決まってますよ。みなさん揚羽の指名ですから、一人でまさか三人様のお相手を同時につとめるわけにはまいりません」  椎名は唇の端に冷笑を浮かべた。表情がトルコ風呂くらい遊んでおけと言っている。 「初めて来たときはどうだったね。一人で来たのか。それともだれかに連れられて来たのか」  笠原はめげずに質問をつづけた。 「そういう意味なら最初に小森さんがお見えになって、大江さんや坂根さんをご紹介したようです」  やはり、椎名は煮ても焼いても食えない。 「そういう意味で、彼ら三人が新たに引っ張って来た客がいるかね」 「いらっしゃいません」  結局、大|迂回《うかい》して聞いた後、坂根、小森、大江の三人が悦子を囲む�サロン�の相互に連絡のあるメンバーであることがわかったのである。  坂根の疑惑は定まった。とは言うものの、それは捜査の第一線担当者の疑惑であり、逮捕状の請求に要する「罪を犯したと疑うに足りる相当の理由」とは言えない。この相当の理由とは、ある特定の罪を犯したことを疑うに足りる客観的な容疑があり、かつその疎明《そめい》がなされなければならないことである。  坂根の疑惑は、 一、小森、大江と共に矢切悦子の固定客であった。 二、ベテラン銀行員である。 三、偽造債券を落とした状況が強い。 四、混線電話と怪電話の発信地として重なり合う目黒区平町に居住している。——などの理由を原因としているが、この中、三が最も強力である。だがその場合でも犯罪事実は「有価証券偽造」であろう。以上四つの理由では、どう転んでも殺人容疑で逮捕状を請求するのは難しい。捜査本部はともあれ、任意に呼んで調べることにした。  坂根真之は、突然殺人事件の捜査本部から呼出しをうけてかなりのショックをうけた様子であった。しかしそのショックは、身におぼえのない者が警察から呼ばれたときのショックに通じるので、直ちにクロの反応とは決められない。  当人もその辺を計算して演技しているのかもしれない。矢切悦子、小森勝一の殺害事件、債券偽造の三つの捜査本部の期待をになって、まず笠原および捜査二課の服部《はつとり》警部が取調べに当たった。取調べ補佐役に鈴木が付いた。 「まずおうかがいしますが、川崎のトルコ風呂胡蝶陣の元ホステス矢切悦子、別名揚羽をご存じですか」  まず笠原から質問の口火を切った。 「胡蝶陣の揚羽なら二年ほど前に、何度か遊びに行ったことがありますので、知っております。しかし、店で遊んだだけでそれ以上のつき合いはありません。最近はまったく行っておりません。なにぶん固い勤めなので、銀行には内緒にしておりましたが、銀行員も人間ですからトルコ風呂へ行くこともあります」  坂根はおどおどした口調で答えた。しかし、いかにも恐縮しきっているような口調の底で慎重に言葉を選んでいるのを笠原は見ぬいていた。 「べつにトルコ風呂へ行ったことを咎《とが》めているのではありません」  笠原は軽くいなしておいてから、 「もちろん矢切悦子さんが殺されたこともご存じでしょうね」 「いいえ、揚羽が殺されたのですか。あの揚羽がまさか!」  坂根はびっくりした表情をして見せた。 「知らなかったはずはないでしょう。かなり大きく報道されたのですよ」 「私が胡蝶陣に行ったのは二年前のことです。揚羽の本名が矢切悦子というのも、彼女がその後どうなったかも知りませんでした。ですからどんなに大きく報道されてもわかるはずがありません」 「写真も報道されたのですよ。写真を見ておもいだしませんでしたか」 「写真と実物はかなりちがうものです。ましてトルコ風呂ではおたがい裸のつき合いですからね。それとも報道写真もトルコのように裸なのですか」  坂根は立ち直っていた。もっとも最初のショックも演技であったかもしれない。笠原は焦燥に耐えて、質問の鉾先《ほこさき》を転じた。 「元サンシャイン商事の小森勝一と三栄物商の大江伸也氏をご存じですか」 「何者ですか、その二人は?」 「胡蝶陣の支配人があなたを店に紹介した人だと言ってましたが」 「なにかのまちがいではありませんか。トルコ風呂なんて、人目を隠れて行く所ですよ。人になんか紹介してもらいません」  笠原の質問の矢は悉《ことごと》くはずされ、ここで捜査二課の服部警部にバトンタッチした。服部はおもむろに石原米子が拾った偽造割債を取り出して、坂根の前に置いた。 「坂根さん、この割債におぼえがありませんか」 「私どもの銀行の割債ですな」  坂根はべつに表情を動かさずに言った。 「よく手に取って見てください。普通の債券とちがうはずです」  服部にうながされて渋々といった体で手に取った坂根は、顔色を少し動かして、 「やあこれは本物じゃありませんね。印刷が精巧なので危うく騙《だま》されるところだったが、用紙の紙質や活字が微妙にちがう。偽造券ですね、どうしてこれがここに?」 「さすがプロだ。一目で見抜きましたな。ところでもっとよく見ていただきたい。この偽造券に見おぼえはありませんか」  服部は、坂根の顔を凝視した。 「さあ、そう言われましてもべつに……」 「そんなはずはない。あなたは見おぼえがあるはずだ」 「困りましたね。私がおぼえがないと言ってるものを押しつけられても」 「それじゃあ申し上げましょう。これはあなたが都立大学駅前のプリンスという喫茶店に置き忘れたものです」 「そ、そんな! 私が偽造券などを置き忘れるはずがありません」  坂根の顔色が明らかに動揺した。 「二月の中ごろあなたは茶封筒に入れたこの偽造券をプリンスに置き忘れて、探しに来た。そのときすでに偽造券はあなたの後に坐った客に拾われてしまったが、あなたはウエイトレスに頼んで店内のあちこちを探してもらった。ウエイトレスはそれをおぼえている。なんならそのウエイトレスをここに連れて来ましょうか」 「そんな馬鹿な! 私が紛失した茶封筒の中に偽造券が入っていたとどうして決めつけるのですか」 「茶封筒を拾った主婦が、その茶封筒を保存しておりましてね。あなたはその茶封筒をセロテープでシールしていた。セロテープを使用長さに切り取るとき、接着面に指紋が残ります。その指紋は拾った主婦のものではありませんでした。どうです。それとあなたの指紋を対照してみましょうか。べつにあなたのものでなくともかまいませんよ。あなたの身辺を徹底的に洗えば、指紋の主が割り出されるでしょう。あなたの関係人物の指紋であっても、あなたは逃れられない」  服部の言葉は、坂根の急所を突いた様子であった。精いっぱい構えていた姿勢がグラリと崩れて、全身がこきざみに震えてきた。大規模な知能犯罪の主謀者にしては気が小さい男のようである。 「あんたがこのニセ債券を造ったんだね」  服部が止どめを刺すように言った。     6  坂根の自供によると、「大江伸也や小森勝一とは中野支店時代に知り合った。小森の勧めで商品相場に手を出したのが、破綻《はたん》の糸口で損に損を重ねて身動きがつかなくなったとき、小森から腕のいい印刷屋を知っている、彼に頼んで割債を偽造し、それを証拠金に入れて、もっと大きく相場を張らないかと持ちかけられた。最初は一言の下に拒《は》ねつけたが、証拠金として預けるだけだから絶対にバレないとしつこく言われて、それではと小森が引っ張って来た瀬川幸造《せがわこうぞう》という印刷屋に験《ため》しに刷らせたのが素人には本物と見分けがつかないくらい精巧に刷れたので、大胆になった。それに追い証に攻められて、にっちもさっちもいかなくなっていた。初めのうちは証拠金代りの見せ金としてだけ使っていたのだが、あまりにも精巧な刷り上がりに本券として売りたくなった。しかし下手な相手には売れない。万一ニセモノということがバレてもあまり騒ぎ立てない相手がいい。つまり脛《すね》に傷もつ買手が理想的だ。そこで当時通っていた胡蝶陣の客に目を着けた。待合室などでいっしょになっても、みんな悪いことでもしているように目を伏せている。顔が合ってもおたがい知らない振りをしている。それでいて一種の親近感がある。トルコ風呂の客には共犯者の意識がある。  ここで小森がトルコ風呂のホステスを�売り子�にしてニセ債を売りつけたら、けっこう捌《さば》けるんじゃないかとおもいついた。こうして矢切悦子に目を着けた。下手な女優顔負けの器量で、頭がよく、胡蝶陣ナンバーワンを張り通している悦子にはいい客が付いている。れっきとした日本総業銀行の割債だからだれも不安がらない。まさか偽造などとは夢にもおもわないだろう。だいたい割債を偽造するという発想が出てこない。悦子は小森に惚れていた。小森の話に彼女はおもしろがって乗った。だが彼女もニセ債ということは知らなかった。客の預託証拠金を精算するために債券を売るのだと言うと、金まわりのよさそうな固定客を選んで売ってくれた」  ——大江伸也も一味なのか—— 「大江は債券偽造には関係ない。大江は小森と商品相場を通してつき合っていたようだが、私とは直接の接触はなかった。悦子が胡蝶陣をやめてから、大江の部屋の後に入居したと小森から聞いた」  ——矢切悦子がニセ債の�売り子�をつとめたのは胡蝶陣にいる間か、それともやめた後か—— 「やめた後のことだ」  ——ニセ債を売り捌いてバレずにすむとおもっていたのか—— 「初めは商品相場の�見せ金�のつもりだった。それがだんだん大胆になった。悦子もそのうちにうすうす事情を察してきた。金貸の野崎に百万円券十枚を三百万で叩《たた》き売りするようになったので、これは危険だなとおもって売りびかえさせた。野崎をはじめ、あちこちでニセ債がバレてから、偽造も中止した」  許容した外堀     1  取調べ側はここで満足するわけにはいかなかった。再度笠原がバトンを引きうけた。 「矢切悦子は秘密を知りすぎたので、おまえたちが殺したのだろう」 「私は殺していない」 「それでは、小森が殺《や》ったのか」 「小森もそんなことはしないと言っていた」 「平沢という男が新聞に出した『私もあのとき506号室を見ていた』という広告に反応したのは、なぜだね。身に疚《やま》しいところがなければ、あんな広告は無視すべきだろう」 「あの広告はやはり警察の仕掛けだったのか」 「質問に答えるんだ」 「あの日、偶然小森が悦子の部屋へ行くと、彼女が押入れの中で首を絞《し》められて殺されているのを発見したんだそうだ。死体に自分のタオルケットがかぶせられていたので、二度びっくり仰天して、とにかく毛布とかけ替えてタオルケットだけ持ち帰ったが、小森は、そのとき見られたかもしれないと言う。私は小森の言葉を鵜呑《うの》みにできなかった。最近、悦子が浮気している気配で小森との仲が険悪になっていたので、ひょっとしたら、彼が殺したのかもしれないとおもった。それを見られたらコトだし、彼が犯人ではないにしても、犯行直後彼女の部屋に出入りして、タオルケットなんか持ち出すところを見られていたら、犯人だとおもわれても仕方がない。そこで私が、平沢という男がなにを見たのか、広告の意図はなにか、小森に確かめるように指示した」 「死人は口をきかないからね。知りすぎた女をあんたが始末して、小森のせいにしてもいいわけだ」 「とんでもない! 私は人殺しなんかできない。債券の偽造もおっかなびっくりにやったくらいだ。偽造を見破られてから直ちに中止したんだ」 「女を消し、小森がいなくなれば、もうあんたの弱みを知っている人間はいなくなる。本店の課長と言えば、けっこういい地位じゃないか。元トルコのホステスや、現在失業中の小森に比べて、あんたは失うものをもっている」 「小森がいなくなればって、まさか小森が死んだことまで私を疑っているんじゃないだろうな」  坂根の表情が歪《ゆが》んだ。 「図星じゃなかったのかい」 「冗談じゃない。私が小森を殺す理由なんかない。だいいち仮に小森がいなくなったところで、瀬川がいるじゃないか。私はどう頑張ったところで銀行にいられるのはあと七、八年だ。その間に部長になれる可能性は万に一つもない。そんなことのために殺人なんか犯さない」 「さあどうかな。小森よりも印刷屋は御しやすいんだろう。あんたには親がかりの子供が四人もいる。とても七、八年で楽隠居できる身分じゃないだろう。銀行上層部のおぼえをめでたくしておいて、融資先にはめ込んでもらわなければ困る」 「ちがう! とんでもない邪推だ。私は絶対に小森に手を下していない」 「まあいい。瀬川がなんと言うか楽しみだよ。ところであんた、平沢の広告が気になって、小森にその意図を確かめさせたと言ったが、広告のどこが気になったのかね」 「もちろん平沢が506号室に見たものと、広告の真意だ」 「それだけか?」 「他になにがあるんだ」 「広告の文言の一部で気になったところがあるだろう」 「一部?」 「私|も《ヽ》チェリスナカノ506を見ていた——|も《ヽ》と言うからには、広告主以前にもだれかが見ていたという意味合いじゃないかね」 「言ってることの意味がよくわからない」 「わからないはずはない。平沢以外にも506号室を見ていた人間がいるんだ」 「だれが見ていたと言うんだ」 「永瀬広美という女性を知ってるな」 「…………?」 「知っているからこそ、その姉にあんたは小森とちがうかなんて電話をかけて反応を見たんだろう。いや、あんたがかけたことはわかってる」 「肉眼でチェリスナカノ506号室を覗き込める部屋は、隣りのマンションの数室しかない。隣りのマンションの管理人から平沢敏也が、506号室に最も近い部屋の住人だった若い女とつき合っていた事実を聞き込んだ。もし彼女が平沢のバックにいるなら、小森勝一の名前に反応するはずだとおもって電話したんだ」 「どうして小森に反応するとおもったんだね」 「犯行直後小森の姿を506号室に見かけているはずだからさ」 「どうして小森だということがわかるのかね」 「彼女の部屋からは小森の部屋も見える。711号の住人ということを知っていた可能性もある」 「彼女とは姉と妹二人のことかね」 「姉と妹?」  坂根の面に不審の色が刷《は》かれた。 「あの部屋には初め妹が住んでいた。その後に姉が入居したのだ」 「知らなかった」 「とぼけちゃいけない。管理人に聞込みをかけたのなら、当然、あの部屋に姉妹が交代して住んでいたことがわかったはずだ」 「本当に知らなかったんだよ。広告を見て初めてあの部屋の住人に興味を持ったんだから。まさか妹と姉が入れ替っていたなんて知らなかった。しかしそれがどうしたと言うんだ」 「重大なことじゃないか。妹は四月の中ごろまで住んでいた。その後に姉が来た。矢切悦子が殺されたのは三月末だ」 「見ていたのは妹だと言うんだな」 「そうだよ。そしてその妹が四月の中ごろから行方不明になっている」 「それが私にどういう関係があるんだ」 「大いに関係があるさ。あんた、妹の行方を知っているんだろう」 「どうして私が知っているんだ」 「広告に『私も見ていた』と表示したのは、それ以前に妹が見ていたからだ。つまり妹は、小森かあんたが矢切悦子を殺すところを見ていた。だからあんたは、妹をどこかへ連れ出して、その口を塞《ふさ》いだ」 「ちょっちょっと待ってくれ! いったいどこからそんなデタラメが出てくるんだ。私は広告の名義人平沢から女の存在を割り出しただけで、その女に妹がいたことや、その妹が行方不明になっていたことなんか全然知らない」 「妹の後にまったく別人の姉が移り住んで来ていても知らなかったと言うのかね」 「だから同一人物だとばかりおもっていたんだ。矢切悦子や小森を殺した犯人に仕立てただけではまだ足りずに、妹とやらの行方不明まで私のせいにするのか。私は虫一匹も殺していない。デッチ上げもいいかげんにしてくれ」 「そんなにわめかなくとも聞こえているよ。それでは手初めに聞くが十月十九日の夜はどこにいた」 「それは小森が真鶴で死んだ日じゃないか。今度はアリバイ調べか」 「質問に答えるんだ」 「その日は午後五時まで銀行にいて、定時退社後渋谷で瀬川と落ち合い、行きつけの小料理屋で食事をしながら今後の相談をして、九時ごろ別れた。九時半には帰宅した」 「それを証明できるか」 「銀行と小料理屋に聞いてくれればわかる」  もし坂根の申し立てが真実であれば、小森が真鶴で殺害されたと見られているのは同夜八時から九時の間と推定されているから、坂根と瀬川の犯行は不可能になる。  彼らが小森殺しの犯人でなければ、事件はおよそ不可解なものとなる。坂根はその場で有価証券偽造同行使の容疑で勾留《こうりゆう》され、瀬川幸造に対しても同じ容疑で逮捕状が発せられた。  瀬川の家は、品川区西五反田のごみごみした一角にあった。住居の中を仕切って家族だけで細々と仕事をしている�町の印刷工場�である。捜査員が逮捕状を呈示《ていじ》すると同時に、瀬川は腰が抜けたようにその場に坐り込み、細君が泣きだした。  家宅捜索の結果、印刷前の写真植字の段階の未完成品、フィルム原版、債券地紋の試刷《ためしずり》など偽造工程の証拠品が次々に出てきた。  瀬川は逮捕されると同時にまったく無抵抗の姿勢であった。彼の自供によると、——小森とは競馬場の帰途、同じタクシーに乗り合わせたことから親しくなり、つき合っていた。小森からギャンブルよりも確実に儲《もう》かると商品相場を勧められ、初めのうち少し好調だったのに気をよくして深みにはまってしまった。気がついたときには、一家心中の一歩手前まで追いつめられていた。 「そのとき小森に債券偽造に手を貸せと言われたのです。これはとんでもない悪事に加担することになると悟っていましたが、選択は許されませんでした。小森は坂根さんを連れて来て、彼の指示の下に手初めにワリソー百万円券を十枚刷らされました。これが自分ながら精巧にできたために、小森はさらに五十枚刷らせました。小森がどういうルートでそれを捌《さば》いたのかよく知りませんでしたが、分け前だと言って一度二百万円もらいました。金をもらったのはこれだけですが、これで一家が息をつけたことはたしかです。そのうちに偽造券があちこちで見つけられたために、坂根さんから印刷を中止するように言ってきたのです。私は印刷している間、生きた心地がしなかったので、中止と言われてホッとしました」  ——矢切悦子を知っているか—— 「小森から一度紹介されましたが、詳しい素姓は知りません。元トルコのホステスだと坂根さんから聞いたことがありますが、私とは直接の関わりはありませんでした」  ——川崎のトルコ風呂胡蝶陣へ行ったことはないか—— 「トルコで遊ぶ金があれば、馬券か舟券を買いますよ。もっともトルコへ行ってたほうが無事だったかもしれませんが、私の体はとっくに女を必要としなくなっているんです」  老いが全身ににじみ出た町の印刷工場主は、人生との戦いに刀折れ矢つきたといった体で取調官の前にうなだれた。十月十九日夜のアリバイに関しては、坂根の供述と完全に一致した。当夜坂根と会ったのは、二人とも商品相場で小森の餌食《えじき》にされたことがわかったので、今後彼と手を切ろうという相談をするためであった。  坂根、瀬川以外には偽造団の一味は浮かび上がらなかった。これまで自供した二人が、だれかを庇《かば》っているとは考えられない。さらに坂根の勤務先と、二人が会食をしたという小料理屋を当たって、その供述の裏づけが取れた。  銀行と小料理屋の証言は信頼できた。ここに坂根と瀬川のアリバイは完全に成立したのである。彼らは小森殺しの犯人になり得なかった。それは当然、矢切悦子殺しと永瀬広美の失踪《しつそう》にも影響してくるのである。     2 「なぜ坂根は、永瀬雅美に電話をかけて小森に対する反応を見届けようとしたんだろう」  坂根の供述の後、鈴木がふと漏らした。 「それは彼が自供したとおり、平沢の囮《おとり》広告のバックを確かめるためだよ」 「坂根が小森を殺した犯人なら、雅美に電話をかけた晩はすでに小森を誘い出していたはずだし、小森と自分の関係は極力伏せたいところだろう」 「坂根にしてみれば、電話から自分が割り出されるとはおもっていなかったんだよ」 「いやおれが言いたいのはだね、彼が犯人なら、小森と自分を少しでも関連づけるような行為はしたくない心理状態にあったはずだということなんだ」 「なるほど」 「それからもう一つ、坂根は小森の口を塞いでも、意味がないとおもうんだ」 「それはまたどうして?」 「共犯の瀬川がいる。もっともこれは坂根自身も言っていたことだが、大江伸也も坂根と小森の関係を知っていた。大江はいま海外に行っていて消息がつかめないが、いずれは帰国して来るだろう。そうすれば、どうせわかることだよ」 「小森の口を塞いだところで、彼とのつながりを隠しきれるものではないということだな」  鈴木の意見は、坂根の犯行の可能性を心理面からも難しくした。 「坂根と瀬川が小森を殺《や》ってないとすると、どういうことになるんだ?」  捜査本部は頭をかかえた。今度こそ本命の犯人と信じて挙げた二人に完璧《かんぺき》なアリバイが成立した。このアリバイには工作する隙《すき》がない。  矢切悦子殺しについては、すでに和村が自供しており、小森もその犯行直後に被害者の部屋に出入りした情況がほぼ明らかになっている。  坂根と瀬川は当夜自宅にいたと申し立てており、アリバイは曖昧《あいまい》であったが、被害者と直接の関係をもたない(胡蝶陣をやめた後)彼らが悦子に手を下す可能性は少ない。また二人が悦子殺しに関係していなければ、犯行シーンを目撃したと考えられる永瀬広美に手を出す必要はないのである。 「小森を殺したやつが他にいると言うのか」 「そう考えざるを得ないだろう。いくら洗っても偽造団の一味は他には出てこないのだから」 「偽造の線以外も考えられる。小森は商品相場の強引な勧誘で少なからぬ人間を泣かせているからな」 「大江伸也はどうか」 「大江は一味ではないと、坂根がはっきり言っている」 「その方の線もいま洗っているが、大江はまだ帰国していないよ。小森が死んだとき海外にいたんだから、絶対のアリバイだろう」 「偽《にせ》の旅券で密かに帰国しているということはないかね」 「そこまでは考えすぎだろう。ハイジャック防止で、旅券のチェックは厳しくなっているし、だいいちそんなにまでして帰国して来る意味がないよ。いったん海外へ出てから、偽造旅券を使ってまで帰国して殺すくらいなら、日本にいる間にいくらでも殺せたはずだ」  会議は空転するばかりでめぼしい人間は浮かび上がらなかった。  捜査の過程に見落としがなかったか、ここに事件を再構成して改めて検討が加えられた。  そもそも事件の発端は、永瀬雅美から妹の広美が男に連れ出されてどこかで人知れず殺された疑いがあると訴えが出されて、平沢敏也を取り調べた結果、妹との関係を認め、彼女が三月末の夜、隣りのチェリスナカノ506号室で男が女の首をしめるシーンを目撃したと証言した。そこで同室を調べたところ、死後経過五十〜七十日と推定される矢切悦子の絞殺死体を発見したのである。ここに永瀬広美は殺人の現行シーンを目撃したために、犯人に口を塞がれた疑いが強くなった。悦子の身辺を捜査しているうちに、彼女とスワップを図った峯岡夫婦から、彼女には�夫�がいるはずだという、情報を提供された。だが捜査によってその夫は、被害者と愛人関係にあった週刊誌のフリーライター和村丈二と判明、和村は悦子とマゾプレイ中、腕の力が過ぎて気がついたときは、彼女は死んでいたと自供した。動転して悦子の部屋から逃げ出す途中、車に追突されて、意識を失い病院にかつぎ込まれた。永瀬広美が失踪した四月十五日前後は病院のベッドに縛りつけられていて、ここに完全なアリバイが成立した。  そのころ偽造債券が各所で発見されて、その出所をたぐったところ、すべて矢切悦子に行き当たった。偽造債券発覚の端緒となった第一の換金請求者野崎武時の証言により、悦子がトルコ風呂胡蝶陣のホステス時代の馴染み客に偽造債券がばら撒《ま》かれた事実が浮かび、ここに彼女が偽造団一味の売り子をつとめていた状況が強くなった。被害者が住んでいた部屋のオーナー大江伸也とのつながりから、彼女の馴染み客の一人であり、同じマンションに住んでいる元商品仲買店のセールスマン小森勝一の存在が割り出され、彼が和村の犯行後、悦子の死体に�変更�を加えた状況がほぼ明らかにされた。  しかしながら小森も永瀬広美の行方については知らないと主張し、小森の背後に隠れているはずの一味の正体も黙秘した。小森は捜査陣の隙をついて消息を晦《くら》まし、神奈川県真鶴町で死体となって発見された。  小森の死には、偽造団の意志が働いていると捜査陣はみた。小森の失踪前夜、永瀬雅美の許に怪電話がきた。一方、小森の死に符合する打ち合わせを行なっていた電話が目黒区住人の通話に混線してきた。怪電話と混線電話の符合点から都立大学駅前の喫茶店プリンスが割り出され、ついに同店の常連で、偽造団の主犯と見られる坂根真之が突き止められた。  だが坂根と、印刷業者瀬川幸造は債券偽造は認めたものの、小森殺しは強く否認し、同人たちに絶対のアリバイが成立した——以上が現在までの捜査の過程である。このどこかに捜査の方向を誤らせるミスはなかったであろうか。     3  怪電話の主の正体が割れ、雅美の恐怖の源はいちおう取り除かれた。だが雅美はすっきりしなかった。怪電話の主は債券偽造の罪は認めたものの、小森殺しについてはアリバイが成立し、広美の失踪に関してもまったく与《あずか》り知らないと供述したという。  矢切悦子殺しについては、和村丈二とのマゾプレイによる過失致死と認定され、和村は同罪で起訴された。小森が悦子の死体にどの程度の変更を加えたか、いまとなっては死人に口なしとなってしまったが、坂根が疑心暗鬼となって、囮広告に反応したり、雅美に電話をしたということである。  広美が矢切悦子の死に関与していなければ、広美の口を塞ぐ必要はまったくない。するとだれが広美を隠したのか。広美の偶然の目撃によって意外な犯罪を露わしたことになったが、広美そのものの行方には少しもつながっていかない。  ここにマンション女性殺害事件と、割引債券偽造事件の合同捜査本部はひとまず解散され、小森勝一殺害事件の捜査本部のみ独立して存続することになった。  笠原刑事が経過を報告に来た。事件のそもそもの発端は、永瀬雅美から出された妹の捜索願いであったから、警察としてもすっきりしない幕切であった。 「妹さんが債券偽造団一味の手によって隠されたのではないとすると、なにかべつの理由で失踪したと考えざるを得なくなりました」 「べつの理由と申しますと?」 「これまで我々は妹さんが矢切悦子の殺害シーンを目撃したと知って、犯人が口を封ずるためにどこかへ拉致《らち》したと考えていました。矢切悦子から債券偽造や、小森殺しという予期せざる犯罪につながっていったために、ますます誤った方角に彼女の行方を捜してしまいましたが、もし妹さんがべつの理由から失踪したのであれば、これは言葉どおり見当ちがいの捜索であったわけです」 「他にどんな理由が考えられるのでしょう」 「それはいくらでもあるでしょう。たとえばご自分の意志で」 「自分の意志ですって!?」 「そうです。妹さんは、平沢との不毛の恋愛に疲れきっていたとしたらどうです。どんなに愛したところで、実を結ばないことがわかっている。男の計算も見えてきた。しかし男といっしょにいるかぎり別れられない。これは妹さんが、不倫の愛を清算して再起するための必死の手だてだったのではないでしょうか」 「それなら私にまで隠す必要がどこにあるのでしょう。私は平沢と別れるように諫《いさ》めていたのです」 「いっさいの人間関係を断ち切りたかったのではありませんか」 「それにしても、山奥の夜の高原の中へ飛び出して行かなくとも、他に女が身を隠す方法はあったとおもいます。そんな不案内な山の中へいきなり放り出されたら、男から逃げ出す前に遭難してしまいます」 「いや、これは一例として申し上げただけです。通りかかった不良に誘拐された可能性もあります。矢切悦子には関係ない線にも目を向けるべきだとおもうのです」 「でもそちらの方も捜査をしたのではありませんか」 「いちおうは。しかし、犯罪と確定されたわけではありませんので、徹底的な捜査をしたわけではありません。もう一度よく振りかえってみてください。妹さんが隣りのマンションにマゾプレイを目撃したということは、平沢が申し立てたことでしょう」 「平沢が怪しいというのですか」 「いや断定はしませんが、妹さんの目撃は、ご本人の言葉ではないのです。要するに平沢の言葉です」 「でも平沢の言葉どおりの事件が発生していたじゃありませんか」 「それは必ずしも妹さんが事件を目撃したことにはなりません。平沢が見たことを、広美さんの経験にすげ替えているのかもしれません」 「それなら平沢が口を封じられるはずでしょう」 「だから坂根らは平沢の囮広告に引っかかってきたじゃありませんか。平沢の目撃と、広美さんの失踪とは切り放されていてもいっこうにさしつかえないのです」 「平沢は犯人ではありません。あの人にはそんなことはできません」 「平沢も除外できません。ただ平沢の犯行としては、いかにも拙劣であることは認めます。矢切悦子の線が消えたいま、平沢も白紙にはできないということです」  笠原の示唆《しさ》によって雅美も広美の失踪を別の角度から見直さなければならないことを悟った。あの小さな保身に汲々《きゆうきゆう》たる平沢にとても殺人など犯せない。もはや自分の人生で二度と縁がないとあきらめていた若く新鮮な女をはからずも手中にして、中年の意地汚なさから貪《むさぼ》っていただけの男である。責任は取りたくない。しかし女は手放したくない。無償で味わえる美しい女体、それを確保するために家庭や職場を犠牲にする情熱もなければ、すでに得たものを守るために、フグの肉のように危険を孕《はら》んだ美味な肉体を捨てることもできない。どっちつかずの中途半端な気持のまま、意地の汚なさだけを露出して択一《たくいつ》の岐路をうろうろしていた小心な中年男にすぎない。  平沢に殺人などできない。それは雅美の実感であった。だが平沢でもなく矢切悦子の線でもなければ、だれが広美を? 笠原が新たに唱えた広美の自発的蒸発説を雅美は採《と》れない。  もし仮にそうだとしても、彼女は雅美だけには連絡してくるはずである。雅美には自信があった。それは幼いころ両親を失い、姉妹二人で助け合って生きてきた骨肉としての自信である。この自信はアウトサイダーの笠原にはわかってもらえない。  結局、笠原が示唆した線は、すべて消されてしまった。おもい余った雅美は武石にすべての事情を打ち明けて相談してみることにした。武石とは怪電話の夜以来、親しさを増している。  あの夜、雅美に懇請されて彼は結局朝まで彼女の部屋に留まってしまった。 「夜を共にした」と言ってもテーブルをはさんで語り明かしただけであるが、二人の距離はかなり狭まった。朝の白々とした光の中を自分の部屋へ帰って行くとき、 「こんなところをだれかに見られたら、誤解されてしまうなあ」と武石は苦笑した。 「すみません。私のためにご迷惑をかけてしまって」 「とんでもない。ぼくは少しも迷惑だなんておもっていません。とても楽しかった。むしろあなたにご迷惑をかけないかと心配しているのです。恋人にでも見られたら弁解が苦しいですよ」 「そんな人はおりませんわ」  武石がそれとなく雅美の身辺を詮索《せんさく》していることはわかったが、この�夜の共有�が彼女に武石と共通の秘密を分け合ったような意識を植えつけた。常の心理状態なら、隣人とは言え、未知の男性を、自室に迎え入れ、徹宵《てつしよう》して語り合うということは考えられない。  雅美は、自らが頼んだことながら、武石に対して外堀を埋めたような気がした。彼に相談する気になったのも、外堀を許容した相手に対する親しさからである。 「私もあなたと同じ意見ですね。妹さんが自分の意志で蒸発されたとはおもえない。また平沢犯人説も無理があるようです。矢切悦子の線は捨てきれないとおもうのですが」 「和村も小森も坂根も広美に対しては無実と確定したのです」 「小森を殺した犯人が残っていますよ。だれがなぜ小森を殺したのか? 小森は矢切悦子の死体を�変更�した。それがどの程度の変更かいまとなってはだれにもわからない。だが広美さんが目撃したとすれば、和村とのSMプレイか、小森の変更か、このどちらかです。和村には妹さんに対してアリバイが成立したのだから残るのは、小森の線以外にない。ぼくは小森がなにか秘密をかかえていたような気がするのですが」 「小森が秘密を? いったいどんな秘密でしょう」 「これは私の個人的推測にすぎませんが、小森はだれかを庇っていたんじゃないでしょうか」 「庇う、だれを?」 「小森は、死体にかけられた自分のタオルケットを持ち去ったということですが、それ以外にその部屋にあってはまずいものを持っていったのではないでしょうか。それがあると、確実にだれかに疑いがいくような重大ななにかを。たまたまタオルケットがマークされたものですから、それを隠れ蓑《みの》にして本命の証拠を隠したのではないのか」 「本命の証拠って、いったいなんでしょう」 「それはぼくにもわかりません。小森の背後にいるXは、その本命証拠を妹さんに見られたとおもい、妹さんを隠し、小森を消した」 「するとその証拠品は遠方から見てもはっきりとわかるものですね」 「そうです。小森は証拠品を隠して持ち主を庇ったが、後にそれをタネにして、恐喝した。そこで持ち主は恐喝を逃れるために……」 「小森を殺したとおっしゃるのですね」 「辻褄《つじつま》は合いますね」 「でも一つまちがえば小森自身が殺人の疑いをもたれますし、現に疑われたのですから、自分は絶対に犯人にされないという強い自信がなければなりません。それから小森を殺した犯人が、矢切悦子に手を下したくらいの弱みをかかえていないと、恐喝から逃れるために新たな殺人は犯さないでしょう」 「和村は、自分が悦子を殺したとおもい込んでいますが、彼女は後で息を吹き返し、そこに来合わせたXにもう一度絞め直されたのかもしれません」 「すると和村が去った後にXと小森が来たことになります」 「何人来てもかまわないでしょう。元トルコのホステスだから出入りしていた者は多いはずです」  武石の説は、やや強引だとおもったが、小森がだれかを庇っていたかもしれないという示唆は注目してもよい。 「どうです、現場に行ってみませんか」  自分の思考の中に沈みかけた雅美を引き戻すように、武石が声をかけた。 「現場に?」 「そうです。小森が殺された現場に直接立ってみれば、なにかヒントをつかめるかもしれない。警察が捜索した後でなにも残っていないとおもいますが、素人なりに、専門家の見逃したものを見つけるかもしれません」 「そうねえ」  雅美はあまり気が進まなかったが、武石が熱心に勧めるので、行ってみようかという気になった。ちょうど身体が空《あ》いていた。 「武石さんは、会社のほうはよろしいのですか」 「私は半分自由業のようなものです」 「妹のために悪いですわ」 「いいえ、私も隣人として少々責任を感じているのです。お隣りに住みながら妹さんが行方不明になったのに気がつかなかったのですからね」  武石は広美の失踪を自分の隣人としての無関心のせいだとおもい込んでいるようであった。それを少しでも償おうとして雅美に近づいているのかもしれない。雅美は武石の隣人として以上の接近をいつの間にか好意的に解釈していた。  勧誘された殺意     1  季節はずれの海浜は閑散としていた。鉛色の空の下に海が寒そうに沈んでいる。雲間から漏れた光線のかげんで沖合いのおもわぬ方角で部分的に光る海面が、斑模様《まだらもよう》の禿頭を連想させる。こわされたままのガードレールが事故の現場をおしえてくれた。  崖際《がけぎわ》に立って下を覗《のぞ》くと、落差三十メートルほどあり、牙《きば》のような磯岩が波に洗われている。 「ここから落とす予定だったのね」 「車の中の死体は、死戦期とかいう殺した直後だったそうですから、解剖されても、事故か殺人かわからなかったでしょう」 「ここから墜落したら、撲《なぐ》られた傷か、墜落ショックによる傷か見分けがつかなくなったでしょうね」 「それが犯人の狙いだったんですよ」 「小森を乗せた車が夫婦者の車に衝突したとき、犯人はまだこの近くにいたわけだわ」 「そういうことになりますね。崖から墜落する予定だった車が、いきなり横から飛び出して来た車にぶつかって、犯人はさぞ驚いたことでしょう」 「夫婦が駐在所へ事故を知らせに走った間に、犯人は、逃げ去ったのですね」 「警察に調べられれば、偽装事故は直ちに見破られてしまいますから、犯人にとって長居は無用だったわけです。危い!」  ガードレールの破損個所から下を覗いていた雅美が、岩角につまずいて少しよろめいた。  武石が背後から雅美の身体を抱きかかえた。一瞬ドキリとした雅美は、しばらく武石の腕の中に身体を預けて立ちすくんでいた。たがいの体温が通い合った。 「あまり崖際へ近寄っては危険ですよ」  身じろぎをした雅美に、武石はようやく腕を解いた。 「すみません」  雅美は、崖から墜落しかけた恐怖よりも、武石とはからずも抱擁したような形で束《つか》の間《ま》たたずんでいた気恥ずかしさの中で、言動がぎごちなくなっていた。 「上の方へ行ってみましょう」  武石もてれくささを隠すように先に立って歩きだしていた。 「小森の車はこのあたりから転がり落ちて来たのでしょう」  坂の上部で立ち停まった武石は、海の方を振り返って、 「ここから転がり落ちれば、崖際へ達するまでに十分の加速度がつきます。加速度がつくまで犯人がハンドルを操り、崖の手前で車から飛び下りたのだともおもいます」 「車をぶっつけられた夫婦は犯人の姿を見なかったのかしら」 「警察の話ではすでに暗くなっていたし、いきなり転がり落ちて来た小森の車を避けるのに精いっぱいで、犯人の姿を見る余裕などなかったそうです。それに、その時点では、犯人の存在など考えなかったでしょうからね」  そう言ったとき武石はたてつづけに激しいくしゃみをした。それは発作のようにしばらくつづいた。 「お風邪《かぜ》を引いたのかしら」  ようやく鎮《しず》まったところで雅美が武石の身を案ずると、 「いやなんでもありません。アレルギー体質なのです。毎年花粉の季節になると、くしゃみがとまりません。きっと近くに私のアレルギーを誘う植物があるのでしょう」  武石は、鼻孔を押えて言った。     2  小森勝一殺害事件の捜査は膠着《こうちやく》していた。坂根真之と瀬川幸造の二人が事件に無関係となると、小森殺しの犯人は、債券偽造グループとはべつの線から来たことになる。捜査本部では、小森に怨《うら》みを含む可能性のある人物を生前の人間関係から追っている様子であるが、はかばかしい成果が上がらないようである。  永瀬雅美には、いま妹がいない生活が定着しつつあった。現代の都会生活は、いつまでも死者の追悼を許さない。この世にただ二人きりの骨肉であるが、妹が経済的に自立してからはたがいに精神の支えにはなっても、生活は、�独立採算制�であった。つまり経済的には他人だったのである。物質的な干渉をし合わないということは、経済生活の上でたがいの存在を必要としないことである。  過去の精神の絆《きずな》は、現実の物質的生活において脆《もろ》く風化してしまう。広美の存在が、雅美の生活にとって切実ではないという事実は、決定的であった。追憶の中でしか要求されない存在は、時間の経過につれてその要求度すら速やかに希薄にしてしまう。  広美のおもいでが遠のくのに反比例して、その存在感を強く打ち出してきた者がある。それは武石静也である。雅美の部屋で一夜を語り明かし、小森が死んだ現場を共に確かめに行ってから、彼らの親密度はぐんと増した。  女の、都会での一人暮らしは、どんなに心を強く持っているつもりでも、寄りかかるものが必要になってくる。それは愛や性《セツクス》とは関係なく、女が本能的に求める止まり木のようなものであった。そして止まり木が恋愛感情に多分に転化しやすい。  雅美は、自分が武石を愛しているとはおもわなかった。それはあくまでも好感の域である。ラブではなく、ライクなのだ。だが都会生活の中で好感をもち合える異性がいるということは幸せであり、女にとっては心強い。武石が自分に対して「ライク」以上の感情を秘《ひそ》めていることも雅美は敏感に悟っている。そしてそれを利用していた。このような男の存在は、女にとって常に便利であった。  武石は、あの夜以来、雅美の部屋へよく遊びに来た。雅美にはそれを断わる理由はない。心の中でむしろ彼の訪問を待っているところがある。とにかく隣り同士であるから、約束《アポ》を取りつける必要もなく、在室の気配さえ聞きつければ気軽に訪ね合える。  それは、容易にプライバシーが侵されやすい状況であったが、武石の訪問を少しもうるさくおもわない雅美の中では、すでに「ライク」から「ラブ」への昇格が行なわれていたのかもしれない。  しかし武石は、限度を心得ていた。気軽に訪ねて来ても、絶対にずるずると居坐《いすわ》らない。時には雅美がもう少しいて欲しいとおもうことがあるほど、おもいきりよく席を立った。決して既成《きせい》の許容に甘えない。だからこそ雅美も女の一人住まいの中に迎え入れられるのであった。 「小森殺しの捜査は、いっこうに進展しないようですね」  その夜、雅美のいる気配を聞きつけて早速遊びに来た武石が言った。 「私、小森を殺した犯人がだれでもいいような気になっているんです」  雅美はいささか投げやりな口調で答えた。 「それはまたどうしてですか。小森を殺した犯人がお妹さんの行方を知っている可能性が強いのですよ」  武石は驚いた表情をして、雅美を覗き込んだ。 「もう妹の行方を突き止めても仕方がないとおもうんです。こんなに長い間なんの音沙汰《おとさた》もないのですから、無事にいるとはおもえません。広美の行方は確かめないほうがいいのかもしれないわ」 「そのお気持はわかります。お姉さんとしては、どこかで無事に生きているとおもっていたいでしょうからね」 「私といっしょにいさえすればこんなことにならなかったのに、そのことだけが悔やまれますわ」 「これも運命ですよ。それにしても妹さんをいいようにオモチャにしてのうのうとしている平沢は悪い男だ」 「平沢を責めても仕方がありません」 「あいつはきっとホッとしているでしょう」 「荷物を下ろしたような気持にはなっているでしょうね」 「ますます許せないな」 「いいんです、もう」 「平沢が小森を殺したとは考えられませんか」 「どうして平沢が小森を殺さなければならないの?」  武石も平沢犯人説には無理があると認めていたのである。 「この前も言ったように、矢切悦子殺しを目撃したのは、妹さんではなく平沢だったとします。平沢はそれをタネにして小森を恐喝した。小森はその恐喝から逃れようとして平沢を真鶴へ呼び出して消そうとしたが、返り討ちにあってしまった」 「それはやっぱり無理よ。平沢は恐喝するよりされるタイプの人間だわ」  雅美は、平沢の職場や妻に広美との関係を公表すると恫《おど》して、彼の協力を取りつけたことをおもいだした。 「それはあなたの先入観ではありませんか」 「先入観と言うより実感ね。殺人を犯せるくらいなら、家庭と妹の間で迷ったり、私に協力などしないわ」 「平沢でもないとなると、いったいだれだろう」 「坂根や瀬川は論理的にも犯人になり得ないわ。小森とのつながりを隠すために彼を消したとすれば、他にもそれを知っていた人間がいるのだから、彼一人を消しても意味がないのよ」  雅美はだんだん武石のペースに引き込まれてきた。 「他にもそれを知っていた人間?」  武石の目がふと小さく光った。 「大江とかいう貿易商がいたでしょう」 「三栄物商の大江伸也ですか」 「よくおぼえてらっしゃるわね」 「新聞に出ていましたよ。矢切悦子の部屋のオーナーで、いまアメリカへ行ってるとか、彼も一時疑われたんでしょう」 「まだ帰国した様子はないそうです。なんでもアメリカで詐欺を働いたと聞いたわ」 「あと、小森と坂根らとのつながりを知っていた者はいますか」 「刑事さんに聞いたところによると、トルコ風呂のマネジャーが知っていたそうだわ」 「矢切悦子が以前勤めていた所ですね。それは当然知っていただろうな。坂根もそのトルコ風呂の常連だったそうだから」 「男の人って、どうしてそんな場所へ行きたがるのかしら?」 「大江とトルコ風呂マネジャーの他に、小森と坂根らのつながりを知っている者はいませんか」 「私が刑事さんから聞いたかぎりでは、その二人だけだそうよ」 「すると、日本にいるのはトルコ風呂マネジャーだけということになる」 「トルコ風呂マネジャーがどうかしましたの」 「大江とトルコ風呂マネジャーは、小森や坂根と一つの共通項をもっています」 「一つの共通項?」 「矢切悦子ですよ」 「小森をはじめ、大江や坂根が矢切悦子の常連であったことは刑事さんから聞きましたけど、トルコ風呂マネジャーは?」 「私もいまふと気がついたことなんですが、もしマネジャーが矢切悦子の元の男かヒモだったとしたらどうなりますか」 「マネジャーが悦子の男!」  にわかに新しい視野が雅美の前に開きかけてきたような気がした。 「そうです。小森、坂根、大江は悦子を中心にサロンを形成していました。悦子はその中の小森に惚《ほ》れてしまって、彼の勧めるままにトルコ風呂をやめ、大江の後の部屋に住んで債券偽造団の一味に加わった。もし悦子に前の男がいたとしたら、決しておもしろくはなかったでしょう」 「悦子に男がいたかもしれないという考えは大いに可能性があるけど、どうしてマネジャーに限定するの? それにそんなことは警察がとうに調べているでしょう」 「そのとおりです。悦子の男関係は調査ずみだそうです。トルコ風呂の客以外には、特定の異性関係は浮かび上がらなかったと新聞に出ていましたよ。しかしマネジャーだったら、たとえ特殊の関係があったとしても、隠しやすいのではないでしょうか」 「マネジャーが怪しいとおっしゃるの?」 「可能性について話しているのです。悦子はその店のナンバーワンホステスだったそうです。店にとっても稼ぎ頭の、自分の情婦を奪われたら、殺人の動機にならないでしょうか」 「急に言いだされたものだからよくわからないけれど、マネジャーが犯人なら、悦子が死んだ後、小森をやっつけたことになるわ」 「復讐《ふくしゆう》とは考えられませんか」 「でも悦子を殺したのは、和村丈二よ」 「和村がそうおもい込んでいるだけで、小森が止どめを刺したのかもしれません」 「でもそれは小森が白状しないかぎり、マネジャーにはわからないことでしょう」 「マネジャーは悦子の死に疑惑を抱いて、小森を誘い出して、白状させたのかもしれません。あるいは他の動機が重なっていたのかもしれない」 「どんな動機が……?」 「それはぼくにもいまはわからない。しかし、あのマネジャーは悦子の常連の名前をなかなか明かさなかったそうじゃないですか。初めは、水商売の口の固さだとおもっていましたが、小森とのつながりを知られたくなかったからではないでしょうか。小森が責められればマネジャーとの関係が現われるおそれがある」 「そうすると、そのころから小森を殺そうとしていたわけ?」 「殺意があったかどうかわかりませんが、小森との関係を知られたくない暗いつながりだったと考えてもいいでしょう。実は私の友人にトルコ風呂を経営している男がいましてね、マネジャーはたいていホステスのヒモだと聞いたことがあります。とにかくマネジャーを除外できないとおもうのです」 「警察は、そのことに気がつかないのかしら」 「おそらく気がついているとおもいますよ。気がついていて、そっと探っているんじゃないでしょうか」  雅美は、武石がいま話している間にふと気がついたのだと言ったが、実はずっと以前からトルコ風呂マネジャーに疑惑を据えて、彼なりに調べていたような気がした。     3  そのころ捜査本部でも地道な捜査の結果、ようやく一個の有力な手がかりをつかみかけていた。捜査本部では、小森が以前商品取引の仲買会社に勤めていた事実を重視して、元の勤め先、人形町のサンシャイン商事を再度洗った。  小森はここで外務員《セールス》をしていたから、その方面になにかのもつれがあったのではないかと見たのである。元々、小森は辣腕《らつわん》のセールスマンで、かなり強引に客を勧誘していたそうである。客から預かった証拠金を流用して自分でも売買しており、結局穴をあけて罷《や》めざるを得ない破目に陥った。この不始末はサンシャイン商事の経営者が代って穴埋めしたので、示談になったが、叩《たた》けばまだ埃《ほこり》が出てくるだろう。  この間のあらましは前回、中野署の笠原刑事たちが調べていたが、そのときはまだ小森は生きており、もっぱら矢切悦子とのつながりに捜査の焦点がおかれていた。  矢切悦子殺害事件および割引債券偽造事件はいちおう解決されていたが、小森殺しに多少の関わりを残しているとみられたので、笠原と鈴木の両刑事は継続捜査員として残され、小田原署の捜査本部に協力することになっていた。  サンシャイン商事の再聞込みにも笠原が同行した。 「素人がセールスマンの甘言に騙《だま》されて相場に手を出し、大やけどをして夜逃げをしたり、首を縊《くく》ったという実話があるくらいですからね。商品相場は殺しの世界だと言われているほどです。小森を殺したいほど怨《うら》んでいた人間がいても不思議はありません」 「しかし、これまでの捜査では怪しい者は浮かんでいないのでしょう」  小田原から来た万並《まんなみ》という中年の刑事が言った。 「サンシャイン商事の社長の三波という男、なかなか一筋縄ではいかない古狸《ふるだぬき》です。小森一人を悪者に仕立てていますが、彼のおかげでかなり甘い汁を吸っているはずです。あいつを締めなおせば、なにか吐くかもしれません」  笠原は、三波の見事に禿《は》げ上がったビリケン頭を瞼《まぶた》にえがいた。同じ禿げでも風格のある禿げ方と、卑しい禿げ方がある。三波の禿げは後者の部類である。頭頂には一毛もないのに、側頭部には房々した密毛が肩の近くまで垂れている。テラテラ光った頭頂とそれを取り巻く黒い密毛の対照は、悪辣《あくらつ》な金を吸い取って肥った高利貸シャイロックといった体である。小森のあけた穴を代って埋めたのも、その穴の実質の大半が三波の懐《ふとこ》ろに入っていた証拠である。  刑事の再度の訪問を三波昌平は、ややとまどった表情で迎えた。 「まだ小森のことでなにか……」  もみ手をしながら愛想笑いをたたえた細い目の奥が、警戒と詮索《せんさく》の光に硬くなっている。 「小森は、殺されたのです」 「そのように新聞にも書いてありました」 「そこで小森の生前の人間関係をすべて洗っております」 「債券偽造団の一味に消されたのではないのですか」 「そのように報道されましたが、犯人はべつの方角から来たのです」 「それでは偽造団以外に犯人が」 「そういうことになります」 「そ、それでは、いったいだれが……?」 「だからまたやって来たのですよ。小森はお宅にいたころ、かなり阿漕《あこぎ》に客を勧誘していたらしい。小森の客筋をすべておしえていただきたい」 「小森の客が怪しいのですか」 「それは我々が判断します。小森が担当した客を一人残さずリストアップしてください」 「と急におっしゃられましても、特にリストのようなものがあるわけではないし、会社を通さない客もいたかもしれません」 「会社を通さないというと?」 「以前は外務員は委託の勧誘しかできなかったのですが、いまは受託も行なえるようになっています。このため自分で勝手に売買したり、証拠金を呑《の》んでしまうという不祥事がおきます。そういう客は私どもにはわかりません」 「しかし無断売買で損《す》ったり、証拠金を呑んだりしたら、お宅の方に苦情がくるでしょう」  所詮、外務員は仲買人のあやつり人形にすぎない。外務員のあくどい勧誘を見て見ぬ振りをして業容《ぎようよう》を拡大した仲買人が多いのである。 「表に出せない金で相場を張ったり、旦那に内緒のへそくり投資をした主婦は、外務員の口車に乗せられて損をしても泣き寝入りをするケースが多いのです」 「わかっている客だけでもけっこうですから、リストアップしてください。それから十月十九日午後八時ごろからのあなたの所在もお聞かせねがいたい」 「それはどういうことでしょうかな」  面積の広い三波の顔面がこわばった。 「はっきり申し上げれば、小森勝一が殺された当夜のアリバイですな」 「ま、まさか私を!?」  血色のよい三波の表情が一瞬、青ざめた。 「あなたの会社の元社員が殺されたのです。仕事上最もつながりの深かったあなたのアリバイが求められるのは当然でしょう。我々はもっと早く質《たず》ねるべきだった」 「じょっ、冗談じゃない! 私は、小森が殺されようと、交通事故で死のうとまったく関係ない。あれは不始末をしでかしたので馘《くび》にした男だ。私が被害者なんだ」  一時青ざめた三波の顔が赤くなってきた。 「あなたが潔白でしたら、我々に協力してください。小森の顧客リストとあなたのアリバイを明らかにしていただきたい」  刑事は妥協の余地のない口調で迫った。     4  サンシャイン商事の三波昌平から領置したリストに基いて、小森の客が一人一人つぶされていった。中には小森に証拠金を呑まれたり、へそくりを巻き上げられた者もいたが、いずれもアリバイが成立するか、殺意にまでは至っていなかった。  こうして消去された後に一人の人間が残った。椎名喬、川崎のトルコ風呂胡蝶陣のマネジャーである。 「椎名が小森の客だったのか」 「こいつは気がつきませんでした」 「当然考えるべきつながりでした。小森は胡蝶陣の常連だったのだから、椎名に商品相場を勧めても少しもおかしくない」 「椎名は小森に勧められて商品相場に手を出し、手ひどい傷をうけて小森を怨んでいたのでしょうか」 「考えられますね」 「いずれにしても椎名は無視できない」  浮上した有力な人物に捜査員は、勇躍した。椎名の身辺が洗われた。椎名は神奈川県|湯河原《ゆがわら》町の出身、地元の高校を卒業したあと上京し、初めは、都下H市の大手電子機器工場に就職したが、一年で退社すると、その後はホテル、ボーリング場、キャバレー、パチンコ店等々を転々とし、四年前から現在の胡蝶陣に勤めている。これまでの職業遍歴の中で最も長くつづいていた。  家族はなく、蒲田《かまた》のマンションに独り住まいをしている。現在特定の女性はいない模様であった。  しかし椎名のマンションの住人に矢切悦子の写真を見せたところ、二、三年前に彼の部屋によく出入りしていたことを証言した。  椎名の出身地湯河原町は、真鶴に隣接している。椎名は、真鶴の現場に土地|鑑《かん》があり、矢切悦子との間に関係があった事実が明らかにされた。 「小森殺しは、まず椎名の犯行にまちがいなさそうだ」 「彼が犯人なら、十月十九日夜真鶴にアシが残っているはずだ」 「椎名のアシを探せ!」  捜査陣は色めきたった。椎名は、当夜、小森を真鶴の崖の上から車もろとも突き落として(未遂)から、なんらかの方法で現場から逃走したはずである。小森を誘い出すには、小森車に同乗して来るほうが警戒されない。すると犯行後はべつの交通機関に頼ったことになる。タクシーでは印象が強く残るので、列車かバスを利用した公算が大きい。  早速、真鶴、湯河原両駅およびバス、タクシー、ハイヤー会社などが調べられた。だが、捜査員の意気ごみに反して期待した聞込みは得られなかった。  椎名の犯行当夜のアシが得られないと、決め手に欠ける。矢切悦子と関係があった事実も、湯河原出身も、いわゆる情況証拠にすぎない。また、小森に勧められて商品相場に手を出していた状況も、容疑線上に据《す》えるきっかけにはなっても、決め手にはなり得ない。  せっかくつかんだ有力容疑者が、たちまち曖昧模糊《あいまいもこ》たる霧のかなたに韜晦《とうかい》しかけたとき、耳寄りな情報が捜査本部に飛び込んできた。  それは真鶴町の住人から寄せられたもので、 「たしか十月十九日夜九時ごろに家の裏手で犬が騒ぐので様子を見に出てみたところ、男の通行人が野犬に襲われていた。夢中で棒をつかんで野犬を追いはらったので、通行人はことなきを得たが、それでも身体のあちこちに負傷をした模様だった。救急車を呼ぼうかと言うと、大したことはないからと逃げるように歩み去った」ということである。  ——その通行人の人相、特徴、風体などはおぼえていますか—— 「暗い所だったので、よくわかりません。声の調子から判断して、そんなに年輩ではなかったようです。精々三十前後の感じでした」  ——この近くの人ではありませんでしたか—— 「近くの住人でないことはたしかです。近くの人なら、どんなに暗くてもわかります」  ——お宅の裏手で、以前にも通行人が野犬に襲われたことがありましたか—— 「いいえ、初めてでした。野犬はいますけど、人を襲ったことはありません。あの通行人が野犬を刺激するようなものをもっていたのかもしれません」  捜査員は、それを犯人が身に帯びていた犯行の血の臭いだとおもった。  ——そのときの野犬は、どうしましたか—— 「もちろん逃げてしまいました」  ——どんな野犬が襲ったかわからないでしょうね—— 「わかりません。このごろ野犬が増えておりますから。海がそばで餌《えさ》にことかかないせいでしょうか」  そう言われて捜査員は、犯人が意図した完全犯罪を妨げたアベックが、ペットを捨てにやって来たのをおもいだした。そこになにか皮肉な符合を感じたものである。捜査員は情報を寄せてくれた住人に頼んで、通行人が襲われたという現場に案内してもらった。  そこは駅に近い家並の断続する裏通りである。街灯もなく、夜は真っ暗になるだろう。なによりも、捜査員の興味を引きつけたのは、そこが現場の津波止めと駅を結ぶ最短路の途中にあることであった。  捜査員は、そのあたりを丹念に検索した。捜査員の鋭い目に引っかかったものがあった。それは和製シガレット「モア」の箱で、中身がまだ大部分残っている。犬に噛《か》まれたらしく、包装紙に歯型がくっきりと刻まれていた。 「時々見かけるしゃれた煙草《たばこ》だが、その通行人が落としたものかな」 「犬の歯型がついているから、まずまちがいあるまい」 「モアなんて煙草は、このあたりの煙草屋じゃ売っていないぞ」  これは後の調べでわかったことだが、モアはテストマーケットとして全国主要都市の二十九か所のサービスセンターにおいて販売されており、一般店にはおかれていない。茶に着色された巻紙で巻かれた一見細身の葉巻のようなスリムサイズのシガレットである。そのスマートさと、柔らかな香りがうけて、都会人に好評である。 「椎名が落としたとみていいかな」 「その可能性はきわめて大きいが、断定はできない」 「中身が十八本残っているから、吸われたのは二本だ。まだ封を切って間もない」 「ということは、封を切ってから、この場所に落とされたまでの時間が短いということだ」  捜査員は顔を見合わせた。彼らにはいまようやく大きな手がかりをつかみつつある感触があった。封を切られて間もなく落とされたとすれば、中身から欠けた二本の吸い殻も、箱が落ちていた近くに捨てられた公算が大きい。この地点から溯行《そこう》すれば、モアの封が切られたのは犯行前後で、現場から犬に襲われた地点までの間で二本が吸われたかもしれない。その二本の吸い殻から血液型が割り出せれば。——  以心伝心で、捜査員たちはたちまち次の行動に移った。そして現場と野犬襲撃地点のちょうど真ん中あたりの道路端に三分の二ほど残ったモアの吸い殻一本を発見したのである。  吸い殻は直ちに保存されて、鑑識に送られた。犯行日の後雨がなく、日陰の涼しい場所に捨てられていたために血液型の判定が可能であった。モアの吸い殻から割り出された血液型はA型である。さらに捜査の結果、胡蝶陣では、客にサービスの景品としてモアを出している事実がわかった。これで椎名の血液型がA型の分泌型であれば、彼の容疑はいっきょに濃縮される。これだけの資料を集めた捜査本部は、とりあえず「任意」で椎名を呼んで取り調べることになった。  警察から呼ばれたことで、椎名はかなりショックをうけている様子であった。取調べに当たったのは、神奈川県警の万並である。補佐に小田原署の玉井《たまい》刑事と応援の笠原が付いた。 「今日は突然お呼びたてしまして。あまり緊張なさらずまず一服してください」  万並はにこやかに自分のハイライトの箱を差し出した。だが、椎名は硬い表情のまま、 「いえ、自分のを吸いますから」  とポケットを探った。 「おや、モアをお吸いですね」  万並は、椎名が引っ張り出した煙草を見て、さりげなく、火を差し出した。椎名が一息吸ったところで、 「ところで本日お越しいただきましたのは、小森勝一のことで、あなたに新たにお質ねしなければならないことが生じましてね」 「小森さんについてはすべて申し上げました」 「いやいやあなたはまだ全部話していないはずです」 「小森さんも坂根さんも大江さんも、揚羽の馴染みだったと申し上げたじゃありませんか」 「そのことじゃありません。あなたと小森の関係です」 「私と小森の……」  いちおうとぼけてみせてはいるが、表情が引き攣《つ》っている。 「おとぼけになってはいけませんなあ。あなた、小森の勧めで商品相場をやっていたでしょう」 「そ、それは、少しはやったことがあるが、それがどうだというんです」  椎名はまだ虚勢を張っていた。 「小森の口車に乗せられて、だいぶ損《す》ってしまったのではありませんか」 「とんでもない! 彼にはいつも儲《もう》けさせてもらいましたよ」 「それはけっこうでしたな。それでは十月十九日夜、正確には午後八時以後どこにおられましたか」 「そんなこと急に聞かれても答えられない」  椎名の面から、完全に血の気が退《ひ》いていた。 「どうしてこんなことを質ねるのかとは反問しないのですか。あなたはその日、公休日でもないのに胡蝶陣を欠《やす》んでいる。その夜なぜ勤めを欠んだのか、そしてどこでなにをしていたのか正直に答えてください」 「そ、それは多分体の具合が悪くて家で寝ていたんだとおもう」 「それを証明できますか」 「どうしてそんなことを証明する必要があるんだ。おれがいつ休もうと、おれの勝手だろう」 「それがそうはいかないのです。あなたは、矢切悦子とも関係がありましたね」 「何度か遊んだことはあるが、べつに珍しいことじゃない」 「矢切悦子が殺されて我々が調べに行ったとき、どうして隠していたのですか」 「べつに隠すつもりはなかった。殺された女と関係があったことをこちらから名乗り出て、痛くもない腹を探られたくなかっただけだ」 「矢切悦子と関係があり、小森勝一とも、トルコの客とマネジャー以上のつき合いがあった。そして二人とも殺された。これではあなたを決して無視できないね」 「お、おれは知らない。なんにも知らない」  椎名は全身を小きざみに震わせはじめた。落ちる直前の断末魔の症状であった。 「あんた十月十九日の夜、真鶴へ行ったね」  万並は一気に詰め寄った。 「知らない、おれはどこにも行かない」 「とぼけるんじゃない!」  万並はデスクを叩いて、椎名の前に例の「モア」を置いた。椎名の目がギョッとなって、それに吸いつけられた。 「これはあんたが真鶴に落としたモアだよ。野犬に襲われて争っている間に落としてしまったんだ。これはあんたの吸い殻だよ。小森が死んでいた現場の近くに落ちていた。血液型が割り出せたよ。ところであんたの血液型は何型かね」  椎名の震えはますます激しくなった。 「身に疚《やま》しいところがなければ、おしえてくれてもいいとおもうがね。もっともいくらでも調べる方法はあるが」 「同じ血液型なんていくらでもある」 「おや、どうして同じとわかるんだ。たとえ同じでも、非分泌型なら、唾液からは割り出せないよ」  椎名は唇をひくひくと震わせたが、もはや言葉がつづかない。 「このモアの落とし主は、野犬に襲われた。身体のあちこちをかなり噛まれたらしい。あんた、その手の甲の傷は、いつどうしてつけたのかね」  慌てて手をデスクの下に隠したが遅かった。隠したこと自体が、椎名の立場を決定的に不利にしていた。 「さあ、全部正直に話してもらおうか」     5  椎名喬の自供、 「私が小森勝一を殺しました。小森は、必ず儲かる、絶対に損はさせないと言って商品相場を勧《すす》めました。その口車に乗って手持の金で小豆《あずき》の相場をはじめたところ、十万円ぐらい儲かりました。そこで気をよくしていると、今度は短期に大きくやらないかと持ちかけられたのです。そこで今度は生糸をやったところ、せっかくの利益と元金をきれいさっぱり損《す》ってしまいました。ここで止めておけばよかったのですが、この程度の損はすぐに取り返せると小森にけしかけられてしだいに深みにはまっていきました。注《つ》ぎ込んでも注ぎ込んでも損をするばかりで、追《お》い証に責められて、苦しまぎれに店の金に手をつけました。  ところが小森は私の弱みにつけ込んで、私の名義で無断売買をはじめました。結果は大損で穴はますます広がるばかりです。その上小森は証拠金を呑んでしまったのです。あまりのあくどさにもう止めたいと言うと、いまさら止められない。どうしても止めると言うなら社長にすべてをバラすと、かえって脅すのです。胡蝶陣ではよくしてもらっていましたし、あけた穴が社長に知れれば、警察|沙汰《ざた》になります。十月十九日最後の話し合いをするために小森に会いました。そのとき小森は別件で警察ににらまれているので、郊外へ出たいと言いました。熱海に女を呼べるホテルがあるから、そこへ行こうかと誘うと、いいだろうということになって、真鶴まで来たのですが、エンジンの調子がおかしくなったので、津波止めに一時車を駐《と》めて、タクシーに乗り換えようとしたのです。そのとき、小森が呑んだ証拠金のことを蒸《む》し返して口論からつかみ合いのけんかになりました。小森は凄《すご》い力で私の首を絞めてきて、そのままでは殺されるような恐怖をおぼえた私は、指先に触れたスパナを咄嗟《とつさ》につかんで小森の頭を殴りつけたのです。  我に返ったときは、小森は死んでいました。予期しなかったこととは言え、私は大変なことをしでかしたのを悟りました。自分を取り戻すと同時に恐くなりました。逃げなければならない。しかしこのまま逃げれば、いずれは警察の追及をうける。崖の下に砕ける波の音に海に車ごと落としてしまえば、運転を誤って転落したとおもわれる。頭の傷もまぎれてしまうだろうと考えつきました。私は車内に証拠品が残っていないか点検した後、小森を運転席に乗せると車を海の方角に向けて転がしました。車は勾配に従って意図した方角に落ちて行きました。そのまま崖から落ちれば、私の完全犯罪は成立するところでした。ところがそこへいきなりべつの車が飛び出して来て小森の車の前に立ちふさがったのです。私は当惑しましたが、もはやどうにもなりません。ぐずぐずしていると逃げるチャンスを失ってしまいます。後が気になりましたが、私は逃げ出しました。途中の暗い路地で犬に襲われたのは、やはり体に沁みついた殺人の血の臭いのせいだとおもいます。犬に噛まれた傷は大したことはありませんでしたが、ショックのほうが大きかったようです。真鶴駅からいったん熱海へ出て新幹線で帰って来ました。矢沢悦代とは一時関係がありましたが、彼女のことで小森をどうこうおもっていたわけではありません。悦代は浮気っぽい女で、それまでにもいろいろとあったようですから。彼女の経歴についてはなにも知りません。過去を語りたがりませんでしたし、こちらも強いて聞きませんでした」  椎名の自供によって、小森殺しの真相が明らかにされた。しかし彼の自供は、永瀬広美の失踪《しつそう》といかなる接点ももっていない。  ここで笠原が代って訊問した。 「永瀬広美という女性を知っているか」 「知りません、その女がなにか」  椎名の表情にはまったく作為は見られない。 「矢切悦子の、——胡蝶陣では矢沢悦代と言っていたそうだが、彼女が殺されて間もなく失踪したんだ。おそらく殺されていると考えられる」  笠原は相手の表情のどんな微細な変化も見逃すまいと小森の面を凝視した。 「その女が私にどんな関係があるのですか」  不安は揺れているが、それは意味のとれないことを質《たず》ねられているときの自然な不安のようである。 「あんたが永瀬広美をどこかに隠したんじゃあないのかね」  笠原は、踏み切りの土壌が確かでないのを承知で一気に踏み込んだ。 「私がどうしてその永瀬とかいう女を隠さなければならないのですか」  椎名に反問されて、笠原はたちまち詰まった。広美が失踪したのは、矢切悦子殺しを目撃したために犯人に口を封じられたと考えられている。だが、椎名は、悦子には指一本下していないのである。広美の口を封ずる必要はまったくない。元々、椎名に対しては質ねる必要のない質問であった。  椎名の自供を全幅には信じられないとしても、彼が悦子を殺さなければならない理由はない。  ここに、和村丈二、坂根真之、椎名喬の三名は、永瀬広美の失踪に関与していないことがほぼ明らかにされた。曖昧なのは小森勝一であるが、もし小森が広美をどうかしたのであれば、必ず坂根が知っているはずである。悦子が小森にとって生きていられては都合の悪い存在になっていたとすれば、事情は坂根にとっても同じだからである。それに小森がその申し立てどおり、悦子にまったく手を下していなければ、広美の口を塞《ふさ》ぐ必要はなくなる。  このように考えると、小森が広美の失踪に関わっている可能性も少なくなる。すると、だれが広美を隠したのか?  マンション女性殺害事件に端を発して割引債券偽造事件および商品相場外務員殺害事件と意外な波及をしたが、その都度、すべての事件の端緒となった永瀬広美の失踪の真相は、ミステリアスな霧の奥に遠のいていくようであった。  椎名喬は、殺人容疑でそのまま留置されて地検へ送られた。彼は検察の取調べに対しても自供を翻《ひるがえ》さなかった。  ここに連続した三つの事件はすべて解決をみたのである。あとには永瀬広美の行方のみ不明のまま残っていた。  凶 香     1 「……以上のような経緯で、結局妹さんの失踪は、矢切悦子殺しと小森勝一殺しとは無関係と断定されました。妹さんはべつの事情あるいは原因から姿を晦《くら》ましたと推定されます。なお引きつづき捜索はいたしますが、なにかの犯罪の被害者となったとしても、別件だとおもいます」 「たとえそうだとしても、これだけ捜《さが》してもらったのですから、広美も本望だとおもいます。本当に有難うございました」  雅美は、事件の経過を報せてくれた笠原に心から礼を言った。おもわざる殺人事件に発展したとは言え、一片の捜索願いに警察がこれだけ熱意をしめしてくれるとは予期していなかった。 「まだあきらめてはいけません。犯罪の被害者になったと決まったわけではないし、自分の意志で姿を隠している可能性もあるのですから」  笠原は慰めてくれたが、それが言葉どおりの気休めであることはわかった。 「犯人はすべてあがったが、どうもすっきりしないな」  永瀬雅美の家からの帰途、笠原は相棒の鈴木刑事に言った。 「それはこの二つの殺人《ころし》と債券偽造事件が永瀬広美の失踪から端を発したのに、彼女の行方が依然としてわからないからだろう」 「多分そのせいだろう。あの姉さんになんとなく気の毒でね」 「あんたがそんなに気にかけることはないさ。若い女の心は、弾力に富んでいる。恋人でもできれば妹のことなんかすぐに忘れちまうよ。そうだ! 恋人と言えば、すでにできかかっているんじゃないかな」 「彼女に恋人が? 本当かい」 「永瀬雅美の隣りに住んでいる武石という男、このごろ彼女の身辺にチラチラしすぎるとおもわないか」 「ああ、男のくせに香水をつけているやつか」 「うん、なんでも香水デザイナーという商売だそうだ」 「そう言われてみると、チラチラしすぎるような気がしないでもないな」 「いまも彼女の家にほんのりといい匂いがしていただろう。あれは男が来ていたからじゃないのかな」 「おれは彼女がつけていた香水かとおもったよ」 「どっちにしても若い男と女が隣り合わせに住んでいるんだ。行き来していれば、道はついたようなもんだよ」 「いい道がつけばいいがね」  雅美の妹は妻子ある中年男との不毛の愛に心身を窶《やつ》していた。妹の愛の成れの果てをよく見届けているから、雅美が同じ轍《てつ》を踏むとはおもえないが、若い美しい女に対してすでに資格を失ってしまった中年男共通の気がかりを、笠原はおぼえていた。     2  年が代った。雅美は仕事に追われた。忙しい日々が、妹を失った後の虚《うつろ》の部分を埋めてくれた。失踪前から広美はすでに平沢に取られていたようなものではあったが、平沢が広美にふさわしい男ではなかったので、雅美は抵抗した。広美の相手としての資格を備えている男であったなら、とやこう言う筋合いはなかったところである。  姉妹は、早晩別れなければならない定めになっていた。  武石静也との往来はつづいていた。どちらもはっきりと口に出してこそいないが、暗黙のうちに男と女の間の了解ができつつある。隣り同士ということがその了解を速めると同時に、一つの歯止めとなっている。  女性が自分の住居に男を一対一で招じ入れたら、最終的了解をしめすものであるが、隣人という事実がその了解の程度を弱めている。また武石の、それまでに達成した了解の上にあぐらをかかない節度が、二人の増幅する親密度に対するブレーキとなっていた。  武石は、その後、よりよく雅美に合う香水をデザインしてくれた。彼女はその香りを以前に嗅《か》いだような気がした。 「お妹さんともお知り合いになれていれば、デザインしてあげられたのですが。そうすれば平沢なんかに引っかからないですんだとおもいます」 「それはまたどうして?」 「よくデザインされた香水は、魔除《まよ》けやお守りになるんです」 「あら、本当!」 「本当です。あなたにもそういう意味をこめて調香《デザイン》しているのですよ」  香水が魔除けになるとは初めて聞いたが、本人の個性に合った香りが人柄を偲《しの》ばせて、男の劣情を封ずる効果はありそうにおもえた。  そのせいかどうか、雅美は、武石がくれた香水を用いるようになってから、痴漢に襲われなくなったことを悟った。  長い仕事がようやく終って家に帰って来たときは、すでに午前零時に近かった。これでもこの時間に帰れたのは、有難い。徹夜になるのは珍しくないし、俳優の都合やスタジオのローテーションによって徹夜がつづくこともある。  メークアップの仕事は待ち時間が多い。「待ちのメーク」と言われるくらいに、この仕事には技術以上に忍耐心を要求される。  ドアを開きながら、チラと隣家の気配をうかがう。それがこのごろの雅美の帰宅時の習慣になっていた。ドアの端と三和土《たたき》の隙間《すきま》から室内の灯が廊下の方に漏れている。武石はまだ起きているらしい。  なんとなく安らいだ気分で室内に入ると、遠方に消防車のサイレンの音が聞こえた。またどこかで火事が発生したらしい。サイレンはしだいにこちらの方角へ近づいて来る気配である。戸外が騒がしくなった。 「近いようだわ」  雅美は、眉《まゆ》をひそめた。ここのところしばらく火災はなかった。遠方から近づいて来るサイレンは、なにか自分に凶運を運んで来るような不吉な予感を胸の中で揺れ動かした。  鉄筋のマンションに住んでいるので、その火災がこちらまで延びてくるだろうという不安はない。しかし雅美は消防車のサイレンに本能的な恐怖をおぼえる。それは彼女の幼時体験に根ざしている。  彼女が四歳、広美が一歳のころ、深夜、家から火を発した。火の手のまわりが早く、気がついたときはあたり一面火の海であった。両親はまだよちよち歩きの広美を安全圏に避難させることに夢中になり、二階に寝ていた雅美が逃げ遅れた。  雅美を救いに戻った父親は、二階から彼女を下で手を広げている近所の人に向かって投げ下ろすのが精一杯であった。父親が飛び下りようとしたとき、梁《はり》が父の頭上に焼け落ちてきた。  その後姉妹は母親の女手一つで育てられたが、彼女らが共に小学生のころ、母は風邪《かぜ》をこじらせてあっけなく死んだ。  雅美には、母の死よりも、火に焼かれた父の死が強く印象されていた。曖昧《あいまい》な幼年期の記憶の中で、父の死だけが鮮明であった。母もそのとき父といっしょに火に焼かれて死んだような気がしてならなかった。  消防車のサイレンを聞くと、そのときの記憶が昨日のことのようによみがえる。雅美は、火に憎しみをおぼえていた。火が両親を奪ったのだ。父が火事で死にさえしなければ、母も風邪などをこじらせて死ななかったはずである。  当時一歳そこそこで記憶が残っていないはずの広美も、火に対しては激しい恐怖をしめした。それは幼児というより乳児期の恐怖体験が心身に沁みついていたからであろう。  部屋へ入って窓辺へ寄って見ると、ビルとビルの間の低い家並の上が赤く染まっている。そのあたりに向かってサイレンと騒がしい気配が凝縮していくようである。火の粉《こ》の噴き上がるのがはっきりと見て取れた。かなり近い。 「もしかすると、これが�春の赤魔�の仕事始めかもしれないわ」  雅美は、ふとおもいあたって、体を硬くした。ここ数年、三月初めごろから五月の中〜下旬にかけて春の赤魔とあだ名された連続放火犯が中野区内に跳梁《ちようりよう》していると聞いている。  昨年五月、矢切悦子の死体が発見されたときも、春の赤魔が現われた夜であった。 「これが春の赤魔の仕業だとすると、五月の末ごろまで恐いおもいをしなければならないわ」  春の赤魔が狙《ねら》うのは、バー、一杯飲み屋、雑居ビル等であり、マンションが対象にされたことはないが、これまでの被害者が警戒を強くすれば、犯人の鉾先《ほこさき》はマンションに向けられて来るかもしれない。マンションの出入は自由であるし、住人相互の交際が希薄であるから、いったん犯人に狙われたら、抵抗力が弱い。  なぜ春の赤魔が、春先から五月末にかけて連続放火をするのかわからないだけに無気味である。  雅美がここへ移って来たのは、広美が失踪した後であるから、春の赤魔の洗礼をうけるのは、今年が初めてである。 「昨年は広美もきっと恐いおもいをしたにちがいないわ」  広美も、人一倍の火恐怖症である。夜更けて枕《まくら》に耳を押しつけて独り聞く消防車のサイレンにどんなに心細いおもいをしたことだろうか。 「広美が殺人を目撃した夜、春の赤魔は出たのかしら」  ふと頭の一隅《いちぐう》を走ったおもいつきがあった。広美が矢切悦子殺しを目撃したという三月三十日の夜は、春の赤魔の跳梁期間に入っている。脳細胞を一閃《いつせん》した着想が一個の違和体となって心に引っかかった。なぜそれが引っかかるのかわからない。  春の赤魔と広美の間になにかの関連があるのか? 関連があるとすればどんな? そしてそれが広美の失踪に影響しているのか。  雅美は、暗い部屋の中に立ちすくんでしだいに凝固してくる思考を追った。そのとき、玄関の方角になにかの気配を聞いたようにおもった。  訪ねて来るには少し遅い時間であるが、武石が雅美の帰宅した気配を悟ってやって来たのかもしれない。弾《はず》みかかる心を抑えてドアを開いた。だが、そこには無人の廊下が海の底のようにシンと静まりかえっていた。  ドアを閉めようとして、夜気の中にかすかにかぐわしい匂いを嗅《か》いだ。武石の身体に沁《し》みついた香りである。  ——やっぱりいらしたんだわ——  雅美は、救われたおもいで、隣家のドアにおやすみなさいとつぶやいていた。     3  その夜を境いにして春の赤魔は、人もなげなる跳梁をはじめた。犯行の頻度《ひんど》と手段方法は、昨年より一段とエスカレートされた。一晩のうちに三、四件連続犯行することもあれば、昨年までは犯行が週末に限られていたのが、今年は週平均三夜くらい出没した。対象も、無差別となり、一般住宅やアパート、小学校、寺と手あたりしだいという感じになった。  初めはライターでゴミに火をつけていたのが、灯油やガソリンを振りかけて火を放つようになった。だが犯行区域は依然として中野区内に限られている。  これは犯人が中野区に土地鑑があり、きわめて小心なために未知の土地では心細くて犯行を働けないことを示している。さらにこの事実は、犯人が中野区内に居住しているきわめて強い可能性を示唆《しさ》するものであった。  警視庁では事態を重視して中野署に「春の赤魔特別捜査本部」を設け、中野署、捜査一課火災犯担当、機動捜査隊が合同して、今年こそは警察の威信にかけてもと犯人必検の捜査体制を布《し》いていた。毎夜の密行、張込みがつづけられた。  だが犯人は捜査陣を嘲《あざ》笑うように犯行を重ねた。昨年までは盛り場だけを狙っていたのが、今年に入ってから犯行の触手が住宅街にまで及んできたので、住人の不安と恐怖が高まっていた。盛り場は遊ぶ場所で住む所ではない。そこでどんな事件が起きても、要するに�対岸の火事�で、高みの見物をしているだけである。それが自分の頭上に火の粉が降ってきたものだから、各町会単位に自警団が結成されて、警戒をするようになった。  しかし自警団の結成は、警察の不甲斐《ふがい》なさをしめすものでもある。警察不信の声が耳に入っても、犯人を逮捕しないことにはなにも言い返せない。自警団が警察にとっておもわぬ障害になってきた。密行張込中の捜査員を、自警団が犯人と誤って捕えるのである。  自警団にしてみれば、暗い所に潜んでいる捜査員と犯人との見分けがつかない。さりとて住人の中に犯人がいる可能性が大なので、自警団に張込みをしていることをあらかじめ連絡しておくわけにはいかない。  しかし多数の捜査員と自警団の警戒の目が光っているために、犯行はいつもボヤあるいはゴミが燃え上がった程度で防ぎ止められた。  警戒が厳重なので、犯人もビルの中や、庭内に忍び込むのが難しくなったらしく、路上のゴミ集積所への放火が多くなった。警察ではこの点をマークして、各自治会や町内会代表と話し合い、ゴミ集積所を広場や空地に統合した。また囮《おとり》の集積所を数か所設けて、重点的にマークした。  放火の動機で最も多いのは怨恨《えんこん》やうっぷん晴らし(ギャンブル、けんか、失恋、親や上司に叱《しか》られて等)であり、次いで火を見て興奮し、世間が騒ぐのをおもしろがる愉快犯と、証拠|湮滅《いんめつ》や、盗みに入って金目のものがなかった腹いせが三大動機とされている。さらに世間や同僚から馬鹿にされた、仕事や勉強がうまくいかない、社会に対する漠然たる不満、怒り、疎外感、病気や事故の後遺症、飲酒放火癖、火事場の賑《にぎ》わいが好きで、孤独の気晴らし、他人の幸せに対する嫉妬《しつと》、ノイローゼ等がある。これらの動機、原因が複合している場合もある。  この中で連続放火犯は、最初はなにか具体的な動機からはじめた者が、世間の騒ぐのがおもしろくなって、犯行を重ねるようになったケースが多い。  警察の統計値では、女性の放火は単発が多く、連続放火犯は男が圧倒的に多い。放火犯のことを警察の隠語で「オシチ」と呼ぶが、これは明暦の大火の犯人八百屋お七から取っている。この事例からも放火犯人には女性が多そうであるが、連続放火を含めた放火犯人全体の中で女性の占める率は、昭和四十五年から五十一年までの七年間で十四パーセントとなっており、これは同時期の全刑法犯における女性犯人率十五パーセントよりも低くなっている。  この数値から見るかぎり、放火犯は女が多いとは言えない。�春の赤魔�についても、その敏捷《びんしよう》な行動力や犯行手口などから判断して、犯人は男の見方を強めていた。  放火犯の最大公約数的な特徴として、友達のいない、内向的な孤独型の人間が多いところから、特に中野区内の単身アパート生活者で、近所づき合いがない者や定職をもたない者、昼間寝て、夜出かける者、予備校生、あまり登校しない学生、ホステスのヒモ、派出所の住人案内簿に記載しない者などをマークして個別に当たった。  怪しい者は何人か浮かび上がったが、いずれも調べを進めていくうちに消えていった。     4  雅美は通り過ぎてからふと気がついた。夜気の中にほんのりとよい香りが漂っている。それは自分の香料と、いま通りすぎて行った人の香りがミックスしたものである。  今夜は夜の撮影のため、こんな中途半端な時間に呼び出された。空車がなかなか来ないので、もっと大きな通りに出ようと路地を急いでいるとき、暗闇《くらやみ》ですれちがった通行人におぼえのある香りを嗅《か》いだのである。  心せくままに、すれちがった後まで気がつかなかったが、後ろ姿は、武石のものであった。先方も足取りが忙《せわ》しない。きっとたがいに急いでいたので気がつかなかったのだろう。  声をかけようとして危うくのど元に抑えた。いまは立ち話をしている余裕もない。武石もなにか切迫した用事があるのだろう。  ようやく来た空車に乗り込んだとき、雅美の心にふと浮かんだ疑問があった。 (武石さんにデザインしてもらった香水をつけていたのに、あの人どうして気がつかなかったのかしら?)  いくらものおもいに耽《ふけ》っていたとしても、自分がデザインした香水の匂《にお》いまで気がつかないことってあるのだろうか? (香水デザイナーは、人一倍|嗅覚《きゆうかく》が鋭くないとつとまらないお仕事のはずなのに) 「お客さん、どちらまでですか」  車に乗り込んだまま、自分の思考の中にのめり込んでしまった雅美に、運転手が行先をうながした。  そのころ捜査本部に新たな情報が寄せられていた。放火現場で香水の香りを嗅いだという情報が数件あい次いだのである。この情報によって女性犯人説が新たに台頭してきた。  四十五年以降の連続《ヽヽ》放火犯の中に女性犯人は六パーセントおり、敏捷な《びんしよう》行動や男性的犯行手口(石油を振りかけたり、ライターを使用する)も、必ずしも女性に不可能ではないという意見が力を得てきた。これは男のほうの捜査が膠着状態になっていたせいもある。 「春の赤魔特別捜査本部」に、マンション女性殺害事件本部が解かれた後の笠原と鈴木が投入された。 「現場に香水の匂いが残っていたからといって女が犯人とは決めつけられないんじゃないかな」  笠原は鈴木に言った。 「べつに決めつけたわけじゃないだろう」 「本部はだいぶ女の方に色気をもっているようだよ」 「男が香水をつけるかい」 「おしゃれなやつならつけるよ。男性用の香水だって売られているんだから」 「数からいったら、そんなやつは一握りだろう」 「そうでもないとおもうよ。最近の若い男はおしゃれだからね」 「かりにそうだとしても、真夜中、放火に行く男が香水をつけるかね」 「それは女にも言えるんじゃないか」 「いや女なら、どこへ行くときでも香水をふりかけておかしくない」 「まあここであんたと香水談議をしてもはじまらんがね、おれはね、現場に残っていた香水のにおいが、わざわざ身体に振りかけたものではなくて、体に沁みついちゃった匂いじゃないかとおもったんだ」 「体に沁みつく?」 「たとえば仕事で香水を取り扱う人間さ」 「香水屋か」 「まあね、そんな人間を探してみるべきだとおもうんだ」 「いい線だね。しかしそれならこれまでにも香水の匂いが残っていてもいいはずだが」 「いろいろな条件が犯人に味方していたんじゃないかな。風が吹いていたとか、発見が遅かったとか」 「あるいは、あまりかすかな匂いだったので気がつかれなかったとか……」 「そうさ。もう一度、現場で香水の匂いを嗅いだ者がいなかったか、洗い直してみれば、新たな目撃者が出るかもしれない」 「匂いを嗅いで、目撃者と言うのも変だね」 「それじゃあ嗅取《きゆうしゆ》者とでも言うか」 「捜査会議に出したほうがいい」  笠原の意見は容れられて、再聞込みに当たったところ、さらに現場近くで香水のような匂いを嗅いだという者が何人か現われた。 「かすかな匂いだったので、どこかの家の花の香りかとおもったんです」 「どんな匂いかと聞かれても、ちょっと困るんだが、なんと言うかなあ、とにかくいい匂いだったなあ」 「先日、同じ様な匂いを嗅いだような気がするんだが」  一人から有力な聞込みが得られた。それは中野区の手芸品店の店員で、昨年三月たまたま春の赤魔の犯行現場の一つに通り合わせて第一発見者となった人間である。 「同じ様な匂い? それをどこで嗅いだのですか」  笠原は、がっぷりとその情報に食いついた。 「店にいるときなんですがね、ふっとあの火事のことをおもいだしたんです。私が見つけた放《つ》け火です。どうしてそんなことを突然おもいだしたのか不思議におもったのですが、そのときあの火事場で嗅いだ同じ匂いを嗅いだからなんですね。よくあるでしょう。匂いで、過去の記憶がよみがえってくることが。あれだったんですね。私は小さいときから匂いに敏感なんです」 「店でだれかが同じ匂いをつけていたのですか」 「そのときだけ火事のことをおもいだしたのですから、お客ですよ。うちでは手芸用の刺繍《ししゆう》、レース類、ドローンワーク、キルティング、造花などの材料と、道具や縫いぐるみ、人形細工用品などを扱っておりますので、女のお客さんばかりです」 「その女の客をおぼえておりますか」 「時々刺繍用品を買いに見えるお客さんなんですが、名前や住所は知りません」 「どんな感じの人ですか、年齢や身体の特徴は?」 「二十四、五歳ってところじゃないかな。目鼻立ちのはっきりしたなかなかの美人でしたよ。ちょっと気は強そうだけど」 「体の型は、グラマーでしたか、やせ型でしたか」 「いいスタイルでした。すらっとして、背は高いほうだったな。百六十五くらいはあるかもしれない」 「なにをしている人かわかりませんか」 「OLタイプでした」 「もう一度その人に会えばわかりますか」 「もちろんわかります。また店に来られるかもしれません」 「もし来たら直ちに連絡してください」 「住所や名前を聞いておきましょうか」 「いやとにかく連絡してください。我々が駆けつけるまでなんとか引き留めておいていただきたいのです」  いまはこの手芸品店の店員だけが頼みの綱となった。ともあれ彼の証言で、二十四、五歳の一見OL風の美女が浮かび上がった。  店員の嗅覚にどの程度の信頼がおけるか疑問はあるが、その女がつけていた香水から放火現場を想起したという事実に本部はかけることにした。匂いが引き金となって引き出された過去は、すでに匂いのように曖昧なものではない。  反応は意外に早くきた。三日後、手芸品店から連絡がきた。いま店にその女が来ているという。捜査員は押取《おつと》り刀で飛び出した。本部から手芸品店までパトカーを飛ばして五分の距離である。  店に飛び込んだ笠原は、そこに意外な人物を見出した。 「永瀬さん!」 「あら刑事さん!?」  永瀬雅美が、血相変えてどやどやと入って来た捜査員の先頭になじみの笠原の顔を見出して目を見張った。 「なんだ、刑事さんこの人を知っていたんですか」  店員が鼻白んだような声をだした。 「するとこの人が、例の女の人?」  笠原が店員に確かめると、 「あのう、なにかございましたの」  雅美が不安を面に浮かべて質《たず》ねた。 「あなたはこちらでなにをしておられたのですか」  笠原は、雅美に向き直った。 「最近フランス刺繍をはじめましたので、その材料を買いに来たのです。それがなにか……」 「きみ、こちらのお嬢さん、いまでも同じ香水をつけているかね」  笠原は店員に確かめた。彼も雅美の身辺にほのかな香料の香りを嗅いでいる。 「はい、この匂いです」 「香水がどうかしたんでしょうか」  雅美の不安の色はますます濃くなっていた。 「永瀬さん、あなたがいまつけておられる香水は、いつごろから使っていますか」 「この香水ですか。そう半年ぐらいかしら」 「半年? 昨年の春ごろは使っていませんでしたか」 「いいえ.そのころはまだ市販のものを使っていました」 「市販? するとあなたがいまつけておられる香水は市販品ではないのですか」 「ちがいます。特別に調香《デザイン》していただいたものです」 「香水に特別|調香《デザイン》なんてあるのですか」 「お隣りさんが香水のデザイナーで、私用に特別に調香してくださったのです」 「ああ、たしか武石とかいう……」  笠原は、最近しきりに雅美にアプローチしている感じの武石静也のダンディなスタイルをおもいだした。そう言えば、彼の職業が香水デザイナーだと聞いたことがある。武石が通りすぎた後、香水の匂いがして、鈴木と顔を見合わせたものである。香水を振りかけたのではなく、体に沁みついているようだと言ったが、香水デザイナーなら沁みついていてもおかしくない。 「はい、私の個性に合うようにと調香してくださったのが気に入ってつけております。使いはじめたのは昨年の九月ころからでした」 「それはたしかですね」 「たしかです。でもどうしてそんなことを」 「春の赤魔の犯行現場にあなたがつけておられる香水と同じ匂いが残っていたというのですよ」 「まあ!」 「こちらの店員さんが昨年の三月にその匂いを嗅いだというのです」 「昨年の三月では、私はまだ中野の方へ移って来ていませんし、武石さんともお知り合いになっておりませんわ」 「そうですね、しかし武石さんがあなたのために調香したという香水は、あなた一人しか身につけておられないのでしょう」 「そうおもいます。武石さんが他の人に同じ香水を調香《デザイン》していなければ……」 「調香した可能性はありますか」 「それは、私にはわかりませんわ。武石さんに聞いてみなければ」  そこまで言いかけて雅美はふと口をつぐんだ。 「どうかなさいましたか」  笠原が、雅美の言葉のよどみを敏感に察した。 「いえべつに」  雅美はさりげなく躱《かわ》した。笠原はあえて追及しなかった。笠原たちが帰った後、雅美は自分の脳細胞にチラリと閃《ひらめ》いた想像を追った。武石が、自分のために香水を調香してくれた直後に放火現場に立ったとしたら、雅美が身につけた香水と同じ匂いが残ったとしても不思議はないはずである。  しかしなぜ武石が放火現場に立たなければならないのか? 彼が、まさか? 雅美はふと心に萌《きざ》した不吉な想像を打ち消しながらも、そこから目を背《そむ》けられなかった。  手芸用品店の店員が「同じ匂い」を嗅いだのは、昨年の三月である。したがって「雅美の香水」の調香を武石はまだしていなかったはずだ。  そこまで思考を追った雅美は、記憶の襞《ひだ》の中に埋もれていた一つの符合をおもいだして凝然《ぎようぜん》となった。雅美は武石から初めて香水を調香してもらったとき、その香りが初めてではないような気がした。  香水の匂いは、だれしもどこかで同じ様な匂いを嗅いだような気がするものなので、そのときはさして気にも留めなかったが、それは、妹からの連絡が絶えて、初めてその住居の中に管理人のマスターキイで入ったとき、かすかにこもっていた匂いではなかったか。  広美の隣りに住んでいた武石が、彼女のために雅美と同じ香水を調香してやったことはないだろうか。隣人同士だから、廊下やマンションの出入口で顔を合わす機会があったかもしれない。  武石が雅美にアプローチして来たときのように広美の歓心をかおうとして香水を調香してやったのではないのか。そして広美の後に入居して来た姉のためにまったく同じ処方の調香をしたとしたら?  すると広美が放火現場に立ったというのか。広美がなぜ? いや広美が直接現場に立つ必要はない。武石が調香した後、現場に立っても同じ匂いを残せる。  またしても武石が登場して来た。武石がなぜ?——雅美はしだいに脹《ふく》れ上がる不吉な想像を見すえていた。  パートタイムの動機     1 「あの娘、なにか知っていたんじゃないかな」 「おれもそんな気がしたよ」  手芸品店からの帰途、笠原と鈴木は話し合った。 「彼女、武石を庇《かば》ったんじゃないのか」 「武石が怪しいとおもうか」 「まだなんとも言えないが、男で香水を体に沁《し》み込ませたやつが初めて登場したんだからね」 「武石なら、永瀬雅美のために調香した香料を全部もっているわけだな」 「武石が怪しいとすると、どんな動機が考えられる?」 「そりゃあいろいろあるだろう。腹いせ、うっぷん晴らし、失恋……その他放火犯のすべての動機があてはめられる」 「それなんだがね、武石の住んでいる所は、サラリーマンとしては上等の部類だ、おれの住んでいる団地なんかよりはるかにデラックスだよ。仕事も香水デザイナーなんていかにも格好よさそうじゃないか。すると、仕事がおもしろくないとか、社会に対する漠然とした不満や怒りとか、世間から馬鹿にされたとかいう動機ではなさそうだ」 「失恋という動機だがね、永瀬広美に横恋慕して、平沢に取られたのがおもしろくなくてとは考えられないか」 「春の赤魔が暴れだしたのは四年前からだよ。仮に広美への横恋慕だったとしても、その後、姉の雅美といいセン行ってるらしいから、今年は犯行を止めるはずだ」 「犯行時期が三月〜五月というのは、どういうわけだろう」 「おれはそれが動機に関係あるとおもうね」 「パートタイムの動機かね」 「パートタイムの動機か、うまいことを言うね。とにかく、武石と雅美を少しマークしてみようか」  笠原の意見は捜査本部の大勢を動かした。     2  雅美の中で疑惑が膨張しつづけていた。姉妹が幼いころ父を焼いた火の記憶は、広美の脳裡《のうり》に焼きついていた。記憶の残る年齢ではなかったが、父を殺し、自分たちの身体をも捉《とら》えかけた炎の触手が、心身に刻まれた恐怖体験として本能のように残っていたのである。  広美は、矢切悦子殺しを目撃したために犯人に消されたと考えられていたが、その後和村丈二、坂根真之、椎名喬が次々に無関係と断定されて、広美の失踪《しつそう》はべつの線ではないかという示唆《しさ》が出てきた。その示唆をした一人が、武石である。  ところでその「べつの線」として、広美が春の赤魔の犯行現場を目撃したか、その犯行場面に際会したとしたらどうだろう。人一倍火に対して恐怖する妹がそんな場面に出会ったら、そして犯人が彼女の知っている人間であったとしたら……。  広美は犯人に自首するように迫ったかもしれない。自首しなければ、自分が告発するぐらいのことは言ったであろう。犯人はもちろん自首する意志などない。追いつめられた犯人が、ついに旅行先に待ち伏せして、広美を誘拐し、その口を永久に封じた。  だがいまのところ、すべて雅美の臆測《おくそく》にすぎなかった。広美が雅美と同じ香水を武石に調香してもらったかどうか確かめられていないし、まして犯行現場に残っていたかすかな香りが、雅美の香水と同じ匂《にお》いだったということは、人間の不確かな嗅覚《きゆうかく》に頼ったものにすぎない。  ともあれ雅美は、自分なりに疑惑を煮つめてみようとおもった。彼女は仕事の空いているときを狙《ねら》って平沢をその勤め先に訪ねた。  平沢は雅美の訪問を露骨に迷惑がった。彼にしてみれば、�事件�は終っていたのである。囮《おとり》広告のダミーにもなって、十分責任は果たしたとおもっている。ほんのつまみ食いのつもりでしたことに、こんなに執念深く追いかけられてはたまらない——と表情が語っていた。 「そんなにご迷惑はかけないわよ。ちょっとあなたにお聞きしたいことがあるだけよ」  雅美は、また難題を切り出されるのではないかと戦々|兢々《きようきよう》としている平沢を安心させるように言うと、彼の前に香水のボトルを差し出した。 「これは?」  不審げな目を向ける平沢に、 「この香水の匂いをよく嗅《か》いでいただきたいの。鼻はすぐに馴《な》れてしまうから、最初の印象を大切にしてちょうだい。これと同じ香水を妹がつけていなかったか、あなたに確かめていただきたいのよ」 「広美……さんが?」 「そうよ。よく確かめて欲しいの」 「香水がどうかしたのですか」 「この香水が妹の行方につながっていくかもしれないのよ」  平沢の表情が緊迫した。平沢の嗅覚にできるだけ干渉しないように、雅美はいっさいの香料をつけずに来た。これまで武石が調香《デザイン》してくれた香水を身につけて平沢に会ったことはない。  たとえ同じ調香の香水であっても、本人の体臭と混って、それぞれ独自の匂いになってしまう。平沢は、蓋《ふた》を取って、ボトルを鼻孔にかざした。深く吟味《ぎんみ》するまでもなく、彼は直ちに反応した。 「やあこれは!……たしかに広美がつけていた香水だ」 「まちがいではないでしょうね、よく確かめてちょうだい」  雅美はおもわず身を乗り出した。 「まちがいない。この香りは、たしかに広美が好んでつけていた匂いだ。なんでも隣りに香水屋が住んでいて、彼女のために特別に調香《デザイン》してくれたんだそうだ」 「広美がそう言ったのですか」  興奮が雅美の中で盛り上がっていた。それは平沢の嗅覚よりもはるかに信頼のおける�証言�である。 「たしかにそう言っていた。広美の香水をどうしてあなたがもっているのですか」 「広美は、いつごろ香水を調香《デザイン》してもらったと言ってました」 「中野のマンションに入居してから間もなく使うようになったから、入居とほとんど同時につくってもらったんじゃないかな」  平沢の�証言�によって、疑惑はさらに煮つまった。武石と広美の間に隣人としての交際はあったのである。だが武石はそれを隠していた。それはまったく隠す必要のないことである。それを隠したということには、武石に広美との交際を知られたくない意識がある。  武石は、雅美が妹の行方を探していると知ってからしきりにアプローチして来た。単に近づいて来ただけではなく、小森殺しの犯行現場までいっしょに来てくれた。  坂根らが小森殺しの犯人としては論理的に矛盾があることを指摘し、他に真犯人がいるのではないかと示唆して、結局それが的中した。犯人の不安心理から動きまわって自ら墓穴を掘ってしまったのだろう。  もし武石が春の赤魔であれば、放火の動機はなんだろう? すぐ隣りに連続放火魔が住んでいるとも知らずに親しくつき合っていた。単なる隣人づき合いの域を越えて、自分の部屋に招き入れもした。  春の赤魔は、自分の犯行を隠蔽《いんぺい》するために広美を消した犯人かもしれない。雅美が武石を疑いだしたと知れば、広美を手にかけた触手をためらいなく雅美にものばしてくるだろう。  武石に悟られてはならない。だが心身が恐怖にすくんだ。こんなときに武石に訪ねて来られたら、直ちに悟られてしまう。  雅美は、家に帰るのが恐しくなった。警察でもどうやら武石をマークしはじめたらしい。  だが、雅美の心の一方では、武石を庇う心理が働いている。だから武石が雅美用の香水を調香直後に犯行現場に立てば、同じ匂いを残せる可能性については口をつぐんだのである。  警察もその可能性を直ちに悟るだろう。しかし、武石が広美のために同じ香水を調香した事実はまだ知らないはずである。それを警察が知れば、武石はいっきょに容疑線上に浮かび上がってしまうだろう。  武石に対する疑惑と恐怖に苛《さいな》まれながらも、その事実を警察に知らせたくないという心理の矛盾に雅美は陥っていた。  ——なぜ武石を庇おうとするのか?  ——自分はいつの間にか武石を——  雅美は矛盾の奥に燃えているものを見つめた。矛盾がなければ、気がつかなかった心の芯《しん》の燃焼である。  大都会でたった一人の肉親を失った女が、流れの中で寄り添った二枚の木の葉のようにマンションという都会の鉄とコンクリートの箱の中でたまたま隣り合った男に心のぬくもりを求めていたのだろうか。その男が妹を奪った犯人とはあまりにも残酷である。  だがその残酷に耐えても、心のぬくもりをあたえてくれた隣人を失いたくない。雅美は武石を恐れながらも、笠原刑事に救いを求めに行けなかった。     3  待ち時間を利用しての化粧直しの間、冬木信介《ふゆきしんすけ》はしきりに鼻をぐずぐずさせていた。時々激しいくしゃみもした。冬木は主婦の間に絶対の人気がある中年の性格俳優である。雅美をことのほか可愛がってくれて、常に彼女を指名してくれる。  今日は、冬木が初めて出演することになったある清酒メーカーのCF撮影に都内の貸スタジオにスタッフ一同と共に早朝から詰めている。  わずか数十秒にすぎないCFが、各カット毎に何時間もかけて撮影されている。強烈なライトに照らされて汗が滲《にじ》み、メークがくずれる。それをカットとカットの間に直す。  冬木はあまり体調がよくない様子であった。しかし今日を逃しては冬木の身体も、スタジオも空いていない。なにがなんでも今日中に撮り終えなければならなかった。 「お風邪《かぜ》を召したようですわね」  雅美は、メーキャップの手を休めずに、いたわるように言った。 「いや風邪じゃないんだ。毎年、春先から五月ごろにかけて起きるアレルギーなんだよ」  冬木は、また一つくしゃみをして言った。 「アレルギー?」 「正式にはアレルギー性鼻炎というそうだ。春先の花粉に反応してね、鼻が水みたいに出るわ、くしゃみはひっきりなし、目やのどは痒《かゆ》いわでこの季節になるとまったく憂鬱《ゆううつ》だよ」  冬木は、今度はハンケチを出して目を拭《ふ》いた。目もうす赤く充血している。 「それはお大切にしなければいけませんわ」 「なに、五月を過ぎれば嘘《うそ》のように直ってしまうんだ。ぼくの場合、だいたい杉の花粉がいけないらしいんだが、以前はこんなことはなかったんだがね。ここ四、五年の現象なんだよ」 「それはまたなぜですか」 「まだ科学的に確かめられたわけじゃないんだが、なんでも中国が核実験をしてから、この症状が日本全国で急に増えてきたそうだ。核実験とアレルギー性鼻炎、なにやら無気味な相関関係だね。風邪とちがって熱の出ないのが救いだが、鼻がまったく効かなくて困ってしまう」 「冬木さん、おねがいします」  そのとき助監督が呼びに来た。  撮影は深夜にいたってようやく終った。家が同じ方角にある冬木の車に乗せてもらって、帰宅したのは、午前二時をまわっていた。武石の部屋の灯は消えている。彼に気配を聞きつけられないようにそっとドアを開ける。自分の家に入るのに、まるで泥棒のように気配を忍ばせている。無事に家の中へ入り、ドアを閉じると、ホッと安堵《あんど》の吐息《といき》が出た。同時にどうしようもない寂寥《せきりよう》が足下から這《は》い上ってきた。  ようやく知り合えた隣人を疑い恐れ、避けている。それも普通の疑いではない。妹を誘拐し、おそらくは殺した連続放火魔の嫌疑をかけている。これが寂しくなくてなにか。  武石を疑いはじめてから会っていない。こちらが避けているせいもあるが、彼の姿もあまり見かけないようだ。姿を見かけなくなってから、春の赤魔の跳梁《ちようりよう》はいちだんと活発になった。これが偶然の符合ならどんなにいいだろう。  そのとき遠方で消防車のサイレンが聞こえた。また春の赤魔が出たのだ。廊下をだれかが通り過ぎた気配がして、隣りのドアが開閉する音がした。 (武石がいま帰って来たんだわ)  廊下には、まだ雅美の残り香が漂っているはずである。ドアの内側から廊下に灯が漏れている。武石は、雅美が帰宅したばかりなのを悟ったにちがいない。時間が遅いので、声をかけるのを遠慮したのだろう。  ——風邪とちがって熱が出ないのが救いだが、鼻がまったく効かなくて困ってしまう——  冬木の言葉が耳の奥によみがえった。武石といっしょに小森勝一が死んだ真鶴の現場へ行ったとき、武石も植物に反応するアレルギー性体質だと言っていた。もし武石も冬木と同じ様なアレルギー性鼻炎に悩まされていたら、鼻が効かなくなっていたはずだ。香水デザイナーが、嗅覚を麻痺《まひ》させてしまったら致命的である。  ——毎年春先から五月ごろにかけて起きるアレルギーで、五月を過ぎれば嘘のように直ってしまう——  ——以前はこんなことはなかったんだが、ここ四、五年の現象なんだ—— (春の赤魔に一致するわ)  雅美は身体を硬くして三和土《たたき》に立ちつくしていた。  調香された血     1  武石静也の身辺調査が密かに行なわれていた。武石は二十九歳、独身、美粧堂調香室勤務の二級調香師である。京都府|福知山《ふくちやま》市出身、地元の中学を卒業後、京都の香料会社ミヤコ香料株式会社に入社。その才能を買われて七年後に美粧堂にスカウトされた。室長の言葉によると、「ひらめきのある」調香師だそうである。  仕事一筋のまじめ人間で、特定の女友達もいないようであった。  武石に容疑を据えた場合、笠原の唱えた「パートタイムの動機」が問題にされた。その点に関しての内偵で、武石の同僚から非常に興味ある聞込みが得られた。  武石は毎年三月から五月にかけてアレルギー性の鼻炎に悩まされ、嗅覚が麻痺して香水の調香ができなくなるというものである。 「仕事がうまくゆかず、病気でいらいらして」という動機は、連続放火犯の動機の中で十パーセント以上を占めている。武石のアレルギー性鼻炎は、まさに「パートタイムの動機」に符合するものであった。武石の容疑はいっきょに濃縮した。  武石の身辺に密かに監視が付けられた。だが、彼の行動に不審は見られなかった。勤め先とマンションを正確に往復しているだけで、途中道草も食わない。監視は巧妙に行なわれていたので悟られたはずはない。動物的な警戒本能から自粛しているのかもしれない。武石の自粛に合わせるように春の赤魔もここのところピタリと鳴りを静めていた。週二回から多いときは四回も、それも一夜に数件連続放火してまわった春の赤魔が武石の監視をはじめてから一週間まったく行動していない。この事実も武石の容疑を深める情況証拠の一つである。  そろそろ五月の半ばになっていた。捜査陣が恐れていたのは、春の赤魔の活動期間が終ってしまったのではないかということであった。例年早いときは五月の初めで、犯行を止める。もしそうだとすれば、また来年の活動期まで待たなければならない。 「武石のアレルギー性鼻炎はそろそろ直る時期じゃないか。やつが犯人なら鼻炎が直って、犯行動機が解消したということも考えられる」  捜査本部に焦燥と疲労が蓄積されていた。連続放火魔が活動を止めたのは、住人の恐怖と不安がひとまず鎮《しず》められたことになるが、同時にそれが来年に持ち越されたことにもなる。警察の威信はまったく回復されていない。  捜査陣は、今年は季節の歩みが少し遅れていることにかけた。花の時期も少しずつ遅れている。すると春の花粉に反応するアレルギー性鼻炎も、長く持続するだろう。 「やつはまだ必ず犯行《はね》る」  捜査陣は祈るような気持で、武石を見張っていた。     2  できるだけ避けていたつもりだが、隣り合って住んでいるので、避けきれない。その日俳優の都合で仕事が早く終ったので、早い時間に帰宅して来ると、駅の出口でばったりと武石と出会った。 「やあ、いまお帰りですか」  武石は嬉《うれ》しそうに声をかけてきた。いまさら避けも躱《かわ》しもならない。雅美は止むを得ず武石と肩を並べて歩く形になった。 「ここのところすれちがいが多かったようですね」  武石は、雅美の横顔をうかがいながら言った。雅美は表情がこわばりかけるのを意志の力で抑えながら、 「ここのところお仕事に追われていたものですから。武石さんもお忙しかったご様子ですね」 「いや、私は半分自分の気ままですから。その後お妹さんの消息についてなにか新しいことがわかりましたか」 「いいえ」 「それはいけませんねえ。小森殺しの犯人も無関係と断定されたし、本当に妹さんはどこへ行ってしまったのでしょうか」 「もういいんです。妹のことはあきらめましたわ」 「そんな弱気になっちゃいけませんよ。あなたが捜《さが》してやらなければ、だれが捜すのです」 「武石さんは広美に香水をやったことはございません?」  雅美は、この機会におもいきって踏み込んでみた。 「いいえ、先にも申し上げたでしょう。私が調香《デザイン》してあげていれば、魔除《まよ》けになったはずだと」 「そうでしたわね」 「香水がどうかしたのですか」 「武石さんが初めて私のための香水を調香してくださったとき、どこかでその香りを嗅いだような気がしたのです。それが妹の部屋に初めて入ったとき、中にこもっていた匂いのような気がしてきて」  雅美は、さりげなく武石の表情をうかがった。 「気のせいじゃありませんか。残り香なんかじゃ微妙な香水のちがいはわかりませんから」  武石の表情に特に動きは見られない。 「そうでしょうか。香水と体臭がミックスして個性ある匂いが生まれるんじゃありません?」  それは武石の言葉でもあった。 「まあそういうこともありますが、妹さんに調香してあげたことはありませんね。してあげればよかったといまだに後悔しています」  武石は明らかに嘘をついていた。その点については、平沢が証言しているのだ。 「今夜よろしかったら、遊びにいらっしゃいませんか、フレンチポップスの新しいアルバムと、美味いコーヒーの粉が入りましたから」  武石は話題を変えるように誘った。妹を消した連続放火魔の疑いがしだいに煮つまっている男と、レコードを聴きながら、コーヒーを味わう気分にはとてもなれない。  しかしこれは武石の懐ろに飛び込むチャンスであった。考えてみれば、これまで武石が雅美の部屋へ来る一方で、武石の部屋へ行ったことはない。彼の部屋に広美の�遺留品�が残っているかもしれない。 「それでは、お邪魔させていただきますわ」  雅美は、虎の穴に飛び込むようなつもりで、誘いを受けた。  いったん帰宅して夕食をすませてから、午後九時ごろ雅美は隣家のブザーを押した。胸が高鳴っているが、恋人の部屋を訪ねる動悸《どうき》とは異種のものである。 「やあ、先刻《さつき》から待ちかねていました」  武石が愛想よくドアを開いてくれた。初めて入る男の部屋の中である。無数の香料の入り混った匂いが屋内にこもっている。造りは、雅美の部屋とまったく同じであるが、至る所に香料のボトルと用途不明の器材が立ち並んでいる。これでは身体に香料が沁みついても不思議はない。 「驚かれたでしょう。こんな所ですからこれまでお招きするのが、気が引けたのです」  武石は照れたように笑った。 「ずいぶん香料がございますのね」  雅美は好奇の目で見まわした。 「ここには約五十種の香料の原液があります。私どもは単品と呼んでいますが、会社の調香室には何百種類もの単品がありますよ。それを匂い紙に一滴ずつ落として処方していくのです」 「なんだか薬剤師みたい」 「薬剤師は、医師の処方箋《しよほうせん》に従って調剤しますが、我々は自分で構想を立て、匂いを創造しなければなりません。匂いは幻の楼閣です。蜃気楼《しんきろう》のように確かにそこに在りながら実体がない。時間が経てば消えてしまいます。しかも蜃気楼とちがって見えません。見えない蜃気楼とでも言ったらよろしいでしょうか。『自分の匂い』を探しながら、自分はいったいなにを追い求めているのだろうかと、虚《むな》しくなることがあります。匂いは生きていて、一瞬も静止しません。自分の鼻が、『自分の匂い』を探し当てたとおもっても次の瞬間には、鼻が鈍麻して、その匂いを逃がしてしまいます。なにか得体の知れない透明な生物を相手に格闘しているような気がします」 「大変なお仕事ですのね」 「これですから匂いに囲まれていながら、匂いを楽しむことができないんです。コーヒーの香りなんかも殺されてしまいます。また香料以外の匂いは極力持ち込まないようにしております。家では香りの代りに音楽の方へ逃れるんですよ」 「それではコーヒーなんか入れてよろしいんですの?」 「VIPが来られたときは特別です。どうぞこちらへ」  武石は、奥の部屋へ招じ入れた。窓には厚いカーテンが引かれているが、この窓から隣りのチェリスナカノが視野に入るはずである。壁に性能のよさそうなコンポーネント型ステレオが置かれている。先日話し合ったとき二人の音楽の趣味が一致して、今度いっしょにレコードを聴こうという約束ができていた。 「どうぞおかけください。すぐコーヒーを淹《い》れますから。それともアルコールを召し上がりますか。ワインの年代物がありますよ」 「どうぞおかまいなく」  話している間に、武石は手際よくコーヒーを淹れた。香料の匂いをしばし駆逐《くちく》してコーヒーの香ばしさが室内にたゆたった。香水とコーヒーの香りがミックスしたのではなく、油に浮いた水滴のように、香料の中央に遊離してコーヒーの空間があった。  武石がレコードをプレイヤーにセットした。コーヒー空間に音楽空間がとって代った。束の間雅美は武石に据えた疑惑を忘れて音楽に没頭した。 「私は特にこの季節、音楽に耽溺《たんでき》するのですよ」  武石が耳許でささやいていた。少し近寄り過ぎているような気がしたが、身を退《ひ》いたらせっかくの雰囲気がしらけてしまうだろう。 「特にこの季節というのは、なぜですの」  雅美は、コーヒーの後、武石が勧めてくれたワインを口に含みながら聞いた。飲み口がよいせいか、少しピッチが早い。音楽に加うるにワインの快い酔いが武石に対する警戒を緩《ゆる》めていた。 「前にも真鶴でお話ししたことがあるでしょう。三月から五月にかけて、私は花粉症で鼻が麻痺してしまうのです。花粉症、つまり花粉に反応するアレルギーなんです。花《ヽ》によって鼻《ヽ》が麻痺してしまうなんて洒落《しやれ》にもなりません。おかげでこの季節は香水屋のほうは開店休業です。鼻がだめなので、せめて耳で楽しんでいるのです」 「まあそうでしたの」 「まあそうでしたのって、あなたはそのことを知っていたんじゃありませんか」 「それは真鶴でうかがいましたから」 「あのときは、はっきり言いませんでした。あなたと外や廊下ですれちがったことが二回ほどありました。そのとき私は、あなた用に調香した香水をあなたがつけておられたのに、気がつきませんでした。通りすぎてだいぶしてから私は気配に気がついたのです。鼻が麻痺した分だけ耳が鋭敏になって、あなたの気配がわかったのです。気配にも個性があるものです。でもそのとき私は心が急《せ》いていたものですから、すれちがった瞬間は気がつかなかったのです。あなたは、それを変におもったはずだ」 「そんなことがあったかしら」  武石がなぜそんなことを言いだしたのかわからない。ワインの酔いが心までけだるく捉《とら》えていて、そんなことはもうどうでもいいような気がした。 「ありましたよ」  武石はグラスに新たなワインを充たした。 「私の気配がわかったのなら、なぜ声をかけてくださらなかったの」 「あなたが逃げ出してしまったからですよ」 「私が逃げた?」 「そう、あなたは私から逃げた。そのときだけではなく、それ以後ずっと私を避けるようになった」 「…………」 「避けていながら、一方では平沢に私のことを聞きに行きましたね」  武石の声の調子が変った。心は危険信号を報《しら》せていたが、身体がおもうようについて来ない。酔いがいつの間にか体の中にどっしりと居坐《いすわ》っていた。 「平沢に、私が広美さんに同じ香水を調香しなかったかと聞きに行った。つまりあなたは、私が同じ香水を妹さんにつくってやったことを知っていた。知っていながら、私に確かめた。なぜそんなことをしたのですか」 「わたし、私、そんなこと聞きに行かないわ」 「平沢が私に探りを入れてきたんですよ。香水が広美の行方につながっていくかもしれないとあなたは言ったそうだ。どうしてそんなことを平沢に聞いたのです」 「あなたこそ、広美に同じ香水を調香したことをどうして隠していたんです」  雅美は、必死に反駁《はんばく》した。酔いのおかげで恐怖が麻痺しているのが、せめてもの救いであった。 「そんなこと決まっているじゃありませんか。あなたの歓心をかうためですよ。まさか妹さんに調香した同じ香水を姉さんにあげたとは言えないでしょう」 「あなたと妹はつき合っていたのですね」 「つき合いなんてものじゃありません。妹さんには男がいた。香水だけうけ取って私なんかには見向きもしなかった。隣りに私が住んでおりながら、あんな汚ならしい中年男にうつつをぬかしていた。私は許せないとおもった。資格のない男に美しい娘がむざむざと奪われていくのを黙って見ていられるか」 「でもそれはあなたに関係ないことでしょう」 「関係ないことではない。私は彼女のすぐ隣りに住んでいたのだ。男が来る都度《つど》、私は壁に耳をつけて気配を聞いていた。壁が厚くてよく聞き取れなかったが、想像で補った。それはたまらない拷問だった」  武石の形相《ぎようそう》は変っていた。だが雅美の身体は痺《しび》れたようになっていて動かない。彼女が酔いの異状に気がついたときは遅かった。 「妹の後にあなたが移って来た。あなたのほうがもっと魅力的だった。私が妹のために調香した香水は、あなたによりよく合った。それは最初からあなたのための香水だった。だから黙っていたんだ。あなたは妹とちがって香水だけでなく、私を受け容れてくれた。私は幸せだった。それなのにあなたは最近私を避けだした。私はもうあなたを失うことはできない。この広い東京の中で、あなたのような女性と隣り合わせに住むチャンスなんて二度とない。私たちはあまりにも孤独だ。同じ屋根の下に住んでいながら、道で出会ってもなぜ知らん顔をするんだ。同じ屋根の下に住んでいることすら知らない者もいる。  そんなことがあってはならない。隣人はたがいに寄り添い、慰め合うものだ。私たちは慰め合うべきだ。それが隣人というものだ。すぐ隣りで孤独な男が膝《ひざ》をかかえて聞き耳をたてているのに、若い女が中年男を引っ張り込んでいちゃついてはいけない。そういうことは許されないのだ」 「あなたの考え方は、自分本位だわ」 「おれだけが自分本位なわけじゃない。みんなもっともっと自分本位だ」 「広美をどこへやったの?」 「そんなことは忘れた。私はあなたが欲しい」 「ワインになにを入れたの」  身体の痺れは舌にまで及んで言葉がもつれかけた。 「あなたを確実にぼくのものにしたいんだ」  武石は、雅美の身体に躍《おど》りかかった。心は抗していても、体が動かない。酔いと薬効で意識までが朦朧《もうろう》となりかけていた。 「やめてちょうだい!」  と言ったつもりの唇が塞がれていた。最後の意識を奮い立てて、手先に触れた香料のボトルを武石に投げつけた。ボトルの蓋《ふた》が取れて、香料が武石の身体に振りかかった。それは武石が雅美のために調香しておいた香水のようであった。馥郁《ふくいく》たる馴染《なじ》みの香りに浸《ひた》されて、雅美は犯された。     3  我に返ったとき、雅美は身体に残された武石の痕跡をはっきりと悟った。初めてのものを武石に奪われたのである。あんな侵襲の形をとらずとも、武石ならあたえてもよいとおもっていた。べつに失った処女にはこだわっていないが、酒にクスリを混ぜて女性の自由を奪わなければ、自分の欲望を達成できない武石の卑劣さが口惜《くや》しかった。生来の弱気に根ざした卑劣さなのであろう。  酔いと薬効は身体の底にまだ重く澱《よど》んでいるが、意識は急速に醒《さ》めてくる。周囲をうかがってみたが、人のいる気配はない。車の音も絶えている。深夜のようであった。武石はどこかへ出かけたらしい。夜気の中に、香水の香りが漂っている。武石に襲われたとき投げつけたボトルの残り香である。遠方を走る消防車のサイレンの音がした。  ——また春の赤魔が暴れているんだわ——  まだ半分|痺《しび》れているような頭の奥が一瞬|閃光《せんこう》を浴びたように光った。雅美は乱れた着衣を軽く整えてから電話機のそばへ寄った。 「もしもし警察ですか。また春の赤魔が出たようですけれど、全身に香水を浴びています。香水の匂いをぷんぷんさせている男が火事場の近くにいたら、それが春の赤魔です」  住所と名前を先方が聞いているのを半ばに雅美は電話を切った。それを言わなくとも保留されている電話線を溯《さかのぼ》って警察は武石の住居を探り当てるだろう。  武石が家を出たときから、尾行がついていた。ここのところ、勤め先と自宅の間を往復していただけの彼が、久しぶりに勤めから帰宅後、夜更けて家を出たのである。  武石が動きはじめたという連絡に捜査本部は勇躍した。 「今夜は必ずやる。絶対に逃すな!」  本部長の指令の下に人海作戦による尾行体制がしかれた。深夜の町に人影は絶えているように見えるが、トランシーバーによって連絡を取り合いながら、武石を中心にして万全の警戒網が張られている。  ビルの壁、電柱のかげ、路地裏、草むらなどを伝って尾行陣は巧妙に追尾しながら、徐々にその網を絞っている。尾行を察知されないために、所々で交代する。ゴミ箱を漁《あさ》っている浮浪者、路地裏を千鳥足で行く酔客、残業で帰宅が遅くなったサラリーマンとさまざまの偽装をしているが、いずれも鋭い目の配りは共通している。  武石は、しだいに中野駅の繁華街の方へ向かっていく。人影が増えて尾行はしやすくなったが、可燃物も多くなる。夜間は無人の雑居ビルも多い。  武石は、間もなくスナックやバーが同居している小さなビルに入った。その中の「団居《まどい》」というスナックに入ったことが確かめられた。 「やっこさん、ここで少し時間をつぶすつもりだろう」  春の赤魔のいつもの犯行タイムにはまだ少し早いようであった。小さなスナックなので、捜査員が客に化けて入ると悟られるおそれがある。尾行陣は団居を遠巻きにして見張った。三十分経った。待つ身には長い。不安が蓄えられてきた。 「少し長くないかな」 「時間つぶしだったらこのくらいはいるだろう」  さらに十分待った。捜査員の不安は臨界に達した。 「よし、二人、客を装って入ってみろ」  キャップが遂に指令を下した。刑事が二人団居のドアを押した。五、六坪の小さな店でカウンターを囲んで十脚ほどストールがあるだけである。  五、六人いた客がドアの方に視線を向けた。香水の匂いが煙草の煙とともに澱んでいる。しかし、武石の姿は見えなかった。 「いまここに背の高い、香水をつけた男が来なかったかね」  捜査員はトイレットの位置を目の端で探しながら、カウンターの中にいたマスターに質ねた。 「ああその人なら、少し前にそちらの出口から出て行かれましたよ」  マスターはこともなげに答えた。 「なんだって!? 出口が二つあるのか!」  捜査員は愕然《がくぜん》とした。 「この店はすぐ裏手のビルと背中合わせになっていましてね、そちらからも出入りできるようになっているんです」  マスターは一方の出入口を顎《あご》でしゃくって見せた。その方角にトイレットと見まがうような小さなドアがあった。 「しまった!」  捜査員はうめいて、そちらのドアへ突進した。そこは裏手ビルの階段の踊り場になっていた。かぎられた空間をできるだけ効率よく利用するために、このあたりは小さな雑居ビルが密集して建てられている。ビルとビルの間はわずか数センチの隙間《すきま》しかない所もある。このような環境では空間の効率だけでなく、動線を短くするためにビル同士が話し合って連絡路をつけることがある。スナック団居にはそのような�抜け道�があった。  武石は以前に何度か同店に来て、抜け道があることを知り、尾行陣の前で見事に籠《かご》抜けをしたのであった。尾行陣は地団太踏んで口惜しがったが後の祭りである。武石はまんまと尾行を撒《ま》いた。武石を本命とにらんだので、すべての人員を集めていた。餓えた狼《おおかみ》を無防備の羊の群の中へ放したようなものである。捜査陣にできることは、事件の発生を待つだけであった。  そのとき110番経由で奇妙なタレコミがあった。  ——春の赤魔は、全身に香水を浴びている。放火現場の近くで香水の匂いをぷんぷんさせている男が犯人だ——  タレコミは女の声であったが、保留された回線から逆探知した結果、電話は武石の自宅から発信されたことがわかった。しかしそこには武石も、タレコミの声の主に該当《がいとう》する女の姿もなかった。  タレコミの主の正体は不明だったが、その内容は武石に一致する。武石が香水の匂いを身体に沁み込ませていることはわかっていたが、全身に香水を浴びているというのは新情報であった。そんな男が町を何人もうろうろしているはずはない。  新たな指令が飛んだ。  ——全身、香水|浸《づ》けの男を見つけろ——  幸運な場合は、新たな放火を未然に防げるかもしれない。     4  外崎新吉《とざきしんきち》は、ゴミ集積所で残飯《ざんぱん》を漁《あさ》って寝場所にしているビルのかげへ帰って来ると、段ボールの箱が見えない。浮浪者にとって段ボールは寝心地のよい寝具である。保温効果は抜群であるし、段ボールによって寝場所の権利を浮浪者仲間に対抗できるのである。  外崎は慌てた。段ボールがないと、寝具だけでなく、今夜の寝場所を失ってしまう。仲間がここに段ボールを持って来れば、対抗できなくなる。浮浪者仲間は寝場所を宣言している段ボールを盗むようなことはしない。 「畜生! だれが持って行っちまいやがったんだ」  外崎が毒づいたとき、無人とおもっていたビルの中から赤い光が漏れてきた。電光や閃光ではない。赤い光が振幅をもって影を揺らせている。不審におもった外崎がビルの出入口から中を覗《のぞ》いて見ると、暗い中に炎が踊っていた。赤い炎の中に男のシルエットが立っている。 「おい、そこでなにをやっているんだ」  外崎の声に、男が振り返った。炎の反映をうけて、男の顔がニヤリと笑ったように見えた。目の錯覚か、一瞬男の口が耳まで裂けたように映った。恐怖が外崎の足許から這《は》い上ってきた。 「春の赤魔だ!」  無我夢中でビルの前から駆け出した外崎は、走りながら悲鳴をあげつづけていた。 「おい、きみ! どうしたんだ、落ち着け、落ち着けったら」  だれかに抱き止められてもなお、外崎は悲鳴を止めなかった。 「赤魔だ、春の赤魔がそこに」 「なんだと!」  相手の声が緊張した。 「どこだ、どこにいるんだ」 「そこの角のビルの中だ。おれの段ボールを盗んで火を放《つ》けた」  相手は外崎を突き放すと、ビルの方に向かって駆け出した。その影を追ってさらに数個の人影が走って行く。外崎は、恐怖がひとまず鎮《しず》まると、全身から力が脱けた。  捜査員が浮浪者に指し示された雑居ビルの前に駆けつけたとき、すでに赤い炎が舌先をチロチロと外に覗かせていた。その舌先から一個の人影が暗い方へ向かって逃れて行く。 「逃がすな!」 「あっちだ」 「火を消せ」  追手は二手に分れた。放火男の逃げ足は速い。ともすれば追手との距離が開きかかる。放火男は迷路のような路地を伝って敏捷《びんしよう》に逃げまわる。闇《やみ》の奥に姿を晦《くら》ましかけるのを見失わずに追えたのは、足跡に撒き散らした香水の匂いのおかげである。  動物の臭跡を追う猟犬のように捜査陣は、犯人の�香跡�を忠実に辿《たど》った。犯人は遂にマンションや雑居ビルの間にある空地に追い込まれた。武石のマンションもすぐ近くにある。そこは私設の駐車場になっていて、近くのアパートや雑居ビルの住人の車が数十台おかれている。  追手は駐車場を取り囲み、犯人は逃げ場を失った。捜査陣はもう逮捕したも同然とおもった。ところが、ここにおもわぬ事態がもち上がった。追手が包囲の輪を縮めようとすると、犯人は駐《と》められた車の列の中央に立ちはだかって「寄るな!」と叫んだ。 「近寄ると、車のガソリンタンクに火を投げ込むぞ!」と叫びながら点火したライターを振りまわした。それはどうやら武石のマイカーらしい。逮捕直前のところで捜査陣は動きを封じられた。駐車場の周囲はアパートや小住宅が密集している。ここでガソリンタンクに火を放たれたら、車は次々に火を呼んでどんな大事に至るかわからない。  犯人は捜査陣の躇《ためら》いを敏感に悟って、燃料タンクのキャップをはずしている。 「武石! もう逃げられない。馬鹿なまねは止めろ」  警察は説得にかかった。 「うるさい! おれはもうだめなんだ。どんなことだってやってやるぞ」 「おまえはまだ若い。罪の償いをしてから十分に立ち直れるじゃないか。これ以上人に迷惑をかけないでおとなしく出て来なさい」 「きさまらにおれの気持がわかってたまるか。おれの鼻は悪くなる一方だ。このごろは秋にもおかしくなるし、症状が長くつづく。調香師が鼻がだめになったらどうなるか知っているか。歌えなくなった歌手よりみじめだぞ。おれはもう一歩のところで世界をびっくりさせるような作品を完成させるところだった。会社も乗気になって看板商品として花々しく国際市場に売り出す予定だった。その矢先におれの鼻がだめになったんだ」 「それは他の人には関係ないことだろう」 「どうして関係ないと言えるんだ。おれはな、あの作品のために十年つぶしたんだぞ。来る日も来る日も匂いを追って調香台の前で匂い紙を嗅ぎつづけた。おれの鼻がだめになったら、会社はいともあっさりとおれの作品を捨てた。十年かけて完成一歩手前まで漕《こ》ぎつけたおれの作品の処方箋を紙くずのように捨てやがった。世間のやつらもおれのみじめさを知ってはくれない。これだけ大勢の人間が住んでいて、ただの一人もおれの苦しみや悩みを知ってくれようとしない。なにも知らずに、知ろうともせずに、美しく着飾って、香水をつけている女たち、その香水にはおれたちの血が入っていることを知らない。そういう世間のやつらにおもい知らせてやりたかったんだ。おまえたちは決して無関係じゃないんだとな」  武石の形相《ぎようそう》は完全に変っていた。弥次馬が集まりかけている。それはますます彼の逆上を募《つの》らせるだろう。 「おまえの言い分を聞いてやろう。ライターを納めなさい」 「言い分なんかなにもない。おれを追いまわすのを止めろ」 「潔《いさぎよ》く罪に服せば、情状|酌量《しやくりよう》もある」 「おれはなにも罪なんか犯していないぞ、世間のやつらにおもい知らせてやっただけだ」  武石の形相は凶暴になっていた。 「いかん、やつは狂っている」 「このままではますます興奮させるばかりだ」  捜査陣のほうが追いつめられた形になった。 「そうだ。永瀬雅美を連れて来て、説得させたらどうだろう」  笠原が一案を出した。武石と雅美が最近接近していることは、本部にも知られていた。雅美の言うことなら武石も聞き入れるかもしれない。本部はそこに一縷《いちる》の希望を託して、彼女に協力を求めた。  雅美は警察のリクエストに束の間|面喰《めんくら》った様子であったが、応じてくれた。雅美の姿を包囲陣の中に見出した武石は、一瞬ギョッとなって立ち竦《すく》んだ。 「いまです。抵抗を止めるように説得してください」  笠原に背中を押されて、雅美は前へ出た。 「武石さん、もうそんなことは止めてください」  雅美は、捜査陣と弥次馬の視線の中央に立って武石に呼びかけた。 「雅美さん、あなたはこんな所へ来てはいけない。早く帰りなさい」  武石の表情が困惑した。困惑は逆上へのブレーキになる。 「いいぞ、その調子で説得をつづけてください」  背後から笠原が言った。 「いいえ、帰れません。帰りたくとも、あなたがそんな破目に陥っていては帰れません」 「あなたには関係ないことだ」 「関係ないとおっしゃるのですか」  雅美は、怨《うら》みを含んだ目で武石を凝視した。武石は気弱げに雅美の視線を逸《そ》らしながら、 「あなたを巻き添えにしたくないんだ。ぼくはもうだめだ。ぼくには現在も将来もない。あなたにはすまないことをしたとおもっている」 「いったいどうするつもりなの」 「ぼくはここで車に火を放《つ》けて自爆するつもりだ」 「いけないわ。武石さん、おねがいだから考え直して」 「ぼくはもうどうなってもいいんだ。おれは生きることに飽きあきした。この世になんの未練もない。おれは鼻がだめになったとき、死んだも同然だった」 「なにをおっしゃるのよ。あなたは私のために素晴しい香水をつくってくださったじゃないの」 「あれがぼくの未完の作品だ。あなたのためにあの香水をマサミと名づけよう」 「マサミを完成させるためにも、考え直して」 「マサミは永遠に未完だ。ぼくとともにね」 「ヒロミも未完にするのね」 「?」 「あなたは広美のためにも香水をつくってやったわ。広美をどこへやったのかおしえて」 「ぼ、ぼくは知らない」 「おしえてくれてもいいんじゃない。どうせ将来がないのなら」  背後で笠原が固唾《かたず》をのむ気配がした。説得が意外な方向に向かいつつある。しかし笠原はとめようとしない。 「火を放けるところを広美に偶然見られたんだ。彼女はぼくが自首するまで黙っている、もし自首しなければ訴えると言った」 「それでどうしたの」 「平沢と旅行へ出かけたのを追いかけて行き、日光で車がエンコして平沢が応援を求めに行った間に、無理矢理に引きずり出した」 「そして殺したのね」 「仕方がなかった。ものすごく抵抗したので、首を締めたら、ぐったりとなって動かなくなった。死体は戦場ケ原の一角に埋めた。いまとなってはどの辺かよくわからないが、すぐ近くに立ち枯れた松の木が一本あった。広美には可哀想なことをしたとおもっている」  この瞬間に失踪をつづけていた広美の悲運は確定したのである。ずいぶん回り道をさせられたが、残された一縷の望みは遂に消えて、絶望が確認された。 「広美が可哀想だとおもうなら、その場所へ私を案内してください」 「それはできない。ぼく自身にもどこへ埋めたのかわからない」  雅美が説得をつづけている間、万一に備えて、消防車が呼び寄せられつつあった。消防車は武石を刺戟《しげき》しないように密かに忍び寄って来た。だが、その中の一台が、武石の視野に入った。  化学消火剤の消火銃《ノズル》を構えられたら、武石の動きは封じられる。雅美と言葉を交していた武石の顔色が変った。 「消防を呼んでなんのつもりだ」 「待て! 早まるな」  笠原が制止するより一拍早く、点火したライターに落ちていた紙くずをかざすと、車の燃料タンクの中に放り込んだ。消火銃を構える余裕もない。武石は、そのまま運転席に飛び込んでイグニションを入れた。車が発進すると同時に、燃料タンクから炎が噴出して、次に轟音を伴なって爆発した。  武石が乗った車は、盛大な炎上体となって、隣接する車に突っ込んだ。炎は新たな炎を呼び、爆発が繰り返された。火熱は駆けつけた警官隊も寄せつけない。駐車場の中央に出現した炎の塊りは、餓えた狼が裸の羊の群の中に投げ込まれたようなものであった。勢いに乗った赤い悪魔は、その貪婪《どんらん》な舌先を、燃料をいっぱいにかかえ込んだ車の群にのばした。犠牲者を舌先にからめとって、胃袋の中に放り込む都度、盛大な誘爆が反復され、火の手は強まった。駆けつけた消防車も、圧倒的な火勢の前にほとんど役に立たない。  いまや武石がその炎の中のどこにいるのかわからない。遠巻きにしていた警官隊と弥次馬の輪が火熱に押されてさらに後退した。  新手の消防車が狂ったようにサイレンを鳴らして駆けつけて来た。火魔はひとしきり暴れまわった後、獲物をあらかた食いつくして、ようやく鎮静の方向に向かった。  鎮火した後、車の残骸の中に高熱に焙《あぶ》られてほとんど炭化した一体分の骨が発見された。     5  武石がすべてを自供してから焼身自殺をしてしまったので、事件は犯人を失って落着した。矢切悦子殺しがからんできて、見当ちがいの方向を模索したが、ここに永瀬広美の失踪の真相も明らかにされた。  地元署や青年団の協力を得て、日光戦場ケ原一帯を捜索した結果、三本松の近くの土中から白骨化した女性の遺体を発見した。戦場ケ原のほぼ中央部で以前は松が三本あったが、いまは一本しか残っていない。共に埋められていた持ち物や衣類の残片は、たしかに永瀬広美のものであった。  広美の遺体は姉によって確認され、現地で改めて荼毘《だび》に付されたうえで、一年数か月ぶりに姉の腕に抱かれて我が家へ帰って来た。  笠原と鈴木が焼香に来た。彼らは悔やみの言葉もなかった。都会に独り住んでいた若い女が、隣家の男に殺され、寂しい山中に埋められていた。しかもその行方を捜す姉に犯人は接近し、その心をとらえかけていたとは、姉にとっては事実はさらに残酷である。自分といっしょになって妹を捜してくれた隣人が妹を殺した犯人であった。もしこのまま真相がわからなければ、彼とどういう発展があったか予測がつかない。  永瀬雅美の家を辞した二人の刑事の耳に、武石の最期の言葉が生ま生ましくよみがえっていた。  ——これだけ大勢の人間が住んでいて、ただの一人も自分の苦しみや悩みを知ってくれようとしない。なにも知らずに、知ろうともせずに、美しく着飾って香水をつけている女たち、その香水にはおれたちの血が入っていることを知らない—— 「永瀬雅美の部屋に香水の匂いがこもっていたな」笠原がふとつぶやいた。 「若い女の部屋だから、香水の匂いぐらいするだろう」鈴木があまり興味なさそうに答えた。 「おれはあの香水が、武石が彼女のためにつくった香水のような気がするんだが」 「マサミか。まさか」 「まさかそんなはずはないだろうな。妹を殺した犯人がつくった香水を、妹の遺骨をおいた部屋でつけるはずがない」  笠原は、自分に言い聞かせるように言った。鼻を失った調香師の殺人——麻痺した嗅覚の代償に、夜毎街に火を放《つ》けて歩いた男。その荒廃した心理の底で、未完の自作香水を殺した女の姉に捧《ささ》げた。その香水は完成すれば、世界の女たちに愛用されたかもしれない。調香師のアレルギー性嗅覚麻痺が、彼の人生を狂わせた。 (血の入った香水か)  憮然《ぶぜん》として笠原がつぶやいたとき、鈴木が、 「あの男、影も形も見せなかったな」 「あの男?」 「平沢だよ」 「ああ広美をつまみ食いしたやつか」  そう言われてみれば、日光の捜索や、遺体の確認、荼毘の際にも平沢は一度も姿を見せなかった。 「まあ、あいつも今度で懲《こ》りただろう」  遠方で消防車のサイレンが走っていた。  ——また新しい赤魔が現われたか——  二人の捜査員は、サイレンの方角で、人間の悲劇が破局《カタストロフ》に向かって疾走しているような気がした。 角川文庫『致死眷属』昭和60年11月10日初版刊行